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常福寺と宗良親王

伊那市の目的地、中央道を降りて高遠を通り過ぎて、ダム湖の近くに来ました。

宗良親王ゆかりのお寺、常福寺

朝早すぎるから、声をかけるのが失礼すぎ。

大徳王寺城が背後にあり、ここが南北朝戦跡ともされます。
山奥というのに、物凄いこと。

井伊谷宮にも御稜がございましたが・・・
こちらにもあるのでございます

信濃宮と称され30年も南信州に御座した宗良親王。

吉野ほどは奥深くないものの、都を離れて過ごす学才豊かな宮様でしられます。本当だったら、もっと見識の深い場所で教養を磨く人物だったに違いありません。

こう思うんです。

信州人は北と南では生活様式も考え方も異なる。
南の人はどちらかといえば教養が高くて、天朝様への崇敬の念が強く、国に対する誠実性が高い。これの原資が何だろうと、ずっと考えていた。

たとえば松尾多勢子

天朝様と国学への傾倒こそが、50を過ぎた婆の尊皇上洛につながり、長州藩の影なる支援を果たした。維新ののちは南朝史跡のため積極的に活動し、明治天皇妃より賞された。

そのときの記録

松尾多勢子個人のものではなく、伊那谷は地域ぐるみで平田国学を信奉し学び追求した。天狗党との戦闘を避けて素通りさせたのも、そのためとされるが、個々の思想ではこうも組織的に出来るものではない。
天皇家や国家の体系について、南信州人は長く学んで身につけていったのだと考えるのは行きすぎか?

しかし、日本一多く、満蒙開拓団の人数を供出するのは、国のためという意識が強かったからとも感じられるのだ。

その骨格をなすのが、南朝皇子の30年御座だとしたら、どうか。
教化ではなく、その知識や習得する教養を宮から供された末だとしたら……それが子々孫々までのDNAに刻まれたとて不思議はない。
そう思うのです。

その宗良親王の御座所は、大鹿村にあったとされます。

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