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私のなりたい優しさ

私が中高生の時から考えている"優しさ"の話を書こうかなと。

私は友達や親戚等周りの人から「優しいね」って言っていただけることが多いです。でも自分では自分のことを優しいと思っていません。そのせいか、周りの人から優しいねと言われると嬉しい半面なんだか申し訳ない気持ちになります。

確かに私は常に誰にでもいつでも優しくありたいと思っています。誰にでも優しくできる自分でありたい。綺麗事だと思うし、そう上手くいかないけれど、そうありたいという願ってます。

しかし私はいつかのnoteでも書いた通り、自分に自信がなくて常に周囲の目が気になってしまいます。できることなら誰にも嫌われたくない。好かれなくてもいいけれど嫌われたくは無い、誰かを不愉快な気持ちにしたくない、仲良くなった人に私の元から離れて行って欲しくない、そんな嫌われたくないという気持ちからくる"優しさ"。「好かれなくてもいいけど」と書いたけど本当はみんなに好かれたい、誰かに必要とされたい、私が誰かを喜ばせたい、そんな気持ちからくる"優しさ"。私の優しさは恐らくこの2つで成り立っているなと思います。
だから、本当は少し嫌な気持ちになっちゃったけどそのことで相手を非難したくない、"意見が違う"を"否定している"という捉えられ方をしたくない、嫌な人だと思われたくないという気持ちから、自分の抱えた嫌な気持ちを相手に言えなかったり、あー今日課題溜まっちゃってるなぁ部屋の掃除もしなきゃ…って思っている時に今日どうしても外せない用事が入っちゃって当番誰か代わってくれないかなっていう人が現れたらまぁ私の用事は今日じゃなくても大丈夫だしと代わったり、今日学校で嫌なことあって体調も若干優れなくてしんどいなぁって時に、ねぇ悩み事聞いてよ〜って言われたら長時間愚痴を電話で聞いたり…"自分の余裕が無いのに"人を手助けしようと、ついつい自分のこと放ったらかしで相手のためになると自分で判断したことをしてしまいます。"自己犠牲"の精神は美徳に見られることもあるかと思いますが、私はそういう小さな積み重ねで自分でも知らず知らずのうちにストレスを溜め爆発してしまうケースが多いです。それでは誰かのためになったとしても自分が爆発してダウンしてしまったことで、もし誰かに結局迷惑をかけたら意味が無いのでは、と。

私は自分のことは勿論当たり前にできていて、心身の余裕を持ったその上で誰かに手を差し伸べられる、誰かを助けられる支えられる人になりたい。そういうのが本当の優しさな気がする。好かれたい、嫌われたくないみたいなのも優しさの一部かもしれないけれど、そういう下心みたいなもののない優しさを持ちたい。
でもそうは言ってもいつでも余裕がある訳じゃなくて、そんな自分の余裕の心が無い時こそ誰かの役に立つことで自分を肯定したいと思う自分もいて…。

私が本当になりたい私は自分を大切にできて心に余裕があってその上で、周りの人に優しく、幸せにできる人になりたい。自分がしんどい時も誰かに迷惑かけることなくなるべく自分で解決して人に心配や迷惑をかけたくない。それに誰かに頼ってもらうためには優しさを受け取ってもらうためには自分が弱いようでは相手も気をつかってしまうかもしれない。
すぐには無理だけどそういう自分の理想とする優しい人になるために、まずは自分のことをちゃんとこなせるようになりたい。怠惰な自分を変えたい。よく病む自分を変えたい。どこかで「優しさの半分は知識」と聞いたことがあります。確かにこういうことをしたらこういう思いになるんだ、とかこの人にはこういう苦労や思いがあるんだ、ということを知ることができたら自分が経験していなくても、一見自分には理解できない状況だったとしても、相手を思いやることが相手の立場になって相手の気持ちを考えることが更にできる気がする。

自分の心に余裕を持って、誰かの気持ちや思いを知っていつでも誰にでも優しくいられるそんな人にいつかなりたい。

サムネ写真
📍明月院
📸つばき

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