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《昔の名前で出ています》~嵯峨野小倉山荘色紙和歌異聞~五十五の歌

《昔の名前で出ています》原作:大納言公任
 
どないや? 久しゅう音沙汰、聞かんけど元気しとんか?
ワシのほうはボチボチや。
相変わらず大阪の街はいずりまわってカスぎょうさん集めて暮らしとるがな。
うだつはあがらんなぁ。
ま、昔の名前で出てるさかい、いっぺん遊びにきいや。
うまい酒、一緒に呑もや。
(注)うだつはあがらん=地位・生活などがよくならない。ぱっとしない。

<承前>
定家の腕の中で震えていた式子は、ふと預けていた身体を離し涙ながらに告げた。
「定家様、式子は身も心も汚れきっております。式子は今より禊ぎをなさねばなりませぬ。定家様にお眼にかかる前に本当はそうすべきでした。今の式子はいったん消えてなくなり、生まれ変わらねばなりませぬ」
後退りした式子は突然、向きを変え、池の深みにざぶざぶと分け入った。
「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど名こそ流れて なほ聞こえけれ」
そう、式子は低く謡うと体を水の中に沈めた。
……昔、純真で無垢だった少女は汚されました。辱めに抗えなかったのです。全てを奪われました。弄ばれ、そして、捨てられました。汚辱に塗れた今の私でございます。定家様が見ているのは今の私ではなく、あの美しい春を謳歌していた頃の何も知らない私……。
夜の暗い水の中で式子は恥ずかしくも、虚ろな過去を身から殺いでいった。
 定家は池の中から姿を現さない式子に慌て、深みの中に身を沈めた。式子が眼を閉じ、水の中をたゆたっている。揺らめく式子を両腕に抱き取り、しっかりと掻き抱くと定家は水中から身を起こした。式子の身体には濡れた衣が透き通るように貼りつき月明りの中で桜色の肌を淡く輝かせていた。
<後続>



   


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