《中編小説》確信のアフロディーテ
始まりという言葉はそれ以前に終わりがあった事実を言霊として隠し持っている。滅亡の悲劇が明るい舞台の幕開けの前に訪れていたのだ。全ての物語はこの禍々しい言霊に導かれて滅び去った事象の上に生まれる。夜通し嘔吐に悶え苦しみ、胃液と胆汁の混ざった不気味な粘液に口腔が異臭と共に満たされたその果てに、清々しい朝は始まる。享楽と阿鼻叫喚の夜が便器に吐き出されるという陣痛を経なければ、新たな今日は生まれない。
二日酔いのひどい頭痛と胸やけを抱えた桜田与志夫は脱ぎ棄てたワイシャツと赤紫に桃色のストライプのネクタイ、紺色の背広とズボンを踏み越えて、やっとの思いでベッドルームからよろめき出た。何故だか右足にだけ灰色の靴下を履いている。
クリーム色の壁紙で彩られたリビングルームは眩い朝の光に包まれていた。暖かな陽射しが渦巻くその中でパートナーの真理愛が白いスーツケースに洋服を丁寧にしまっている。結婚はしていないが、一緒に暮らしていた。
「何をしている、真理愛」
目を細め顔の前に手をかざして光を遮りながら与志夫は尋ねた。今、真理愛があらかた詰め終わろうとしているスーツケースは二つ目のようだった。廊下の先の玄関の手前に別のスーツケースが置いてあるのがちらりと見えた。
「あら、起きたの。気分はどう。昨日の夜はずいぶんとご機嫌だったみたいだけれど」
真理愛は作業の手を休めず、与志夫を振り返りもしなかった。
「あぁ、すまん、すまん。少し飲み過ぎた」
そう言って与志夫がふらつきながら近づくと、「ひどい臭い。こっちに来ないで。私まで気持ちが悪くなるから」真理愛は険しい顔で拒絶した。そして、口許を手で覆うと本当に吐き気を催したのか、与志夫の脇を走り抜け、トイレに駆け込んだ。すぐに水が流される音がした。
リビングルームに続くキッチンに行きつくと与志夫は置いてあったスヌーピーの絵柄の入ったピンク色のマグカップを使って何度も口をゆすいだ。口腔にたまっていた緑色の濁りを含んだ黄色い粘液がシンクに浴びせかけられ、生き物のようにヌメヌメと広がった。
「私のカップを使わないで」
トイレから出てきた真理愛が悲鳴をあげた。
両眼から 瞋( いか)りが噴き出している。
「あぁ、もう使わないよ。だから、そんなに怒るな。このところ、ちょっとイライラ感すごいぜ、真理愛。どうかしたのか。食欲もあまりないみたいだし」
頭痛がひどい。どくどくと頭の中で脈打つ血管にハンマーで鏨(たがね)を打ち込まれているようだった。与志夫はこめかみを抑えた。早くベッドに戻りたかった。
「別にイライラなんかしていない。それにお腹が空くとムカムカして食べる気がしないだけ。それより、昨日の約束はどうなったわけ。何故、来なかったの」
壁に寄りかかり、首を右に傾げた真理愛。艶のある栗毛色のストレートヘアが赤いTシャツの胸のあたりまで届いていた。細身のブルージーンズに素足。相変わらず何を着ても真理愛はサマになっている。
「なんだっけ、約束って。なんかあったか」
与志夫は真理愛とのこんな会話はすぐにでも終りにしたかった。胸やけは収まらず、胃のむかつきも続いている。
「昨日の夕食、一緒に食べようって約束したじゃない。大切な話もあるから、そうしようって。レストランも予約していたのよ。忘れたの」
真理愛の憤怒は極限にまで達していた。声がブルブルと震えている。
「そうだったかな……。そうだったかもな。でも、昨日は任されていた仕事がうまくいって、課長がおごってくれるって言うから、会社のみんなと飲みに行ったんだ。断れないよな、普通。真理愛との夕食は、また、今度な。とにかく今は休ませてくれ。二日酔いで頭が割れそうだ」
蒼く苦しい顔をした与志夫はそう言ってベッドルームに向かおうとした。
その時、「私、あなたと別れる」と真理愛が決然と言い放った。
「大切な約束も忘れる。お掃除もいい加減。お洗濯だって何も手伝わない。食事の後片付けも無視。私は与志夫の召使じゃないわ。与志夫は私を愛していない。だから、別れる。今日、今から出て行く」
その一言に与志夫の我慢が切れた。
「あぁ、出て行くなら、出て行け。そうしやすいように夜まで姿を消してやるよ。その間に必ず出て行け」
身も心も最低の時に最低の話をする真理愛に怒りが爆発した。
――少しは、こちらの身にもなって考えてくれよ。
腹立たしい想いでいっぱいになった与志夫はベッドルームに戻るとよれよれの黒いジーンズと白い半袖のボタンダウンのシャツを急いで身に着けた。そして、玄関に行き、サンダルをひっかけると乱暴にドアを開けた。
「絶対に今日中に出て行けよ。残った荷物は全部処分するからな」
思い切りドアを閉め、「勝手にしろ」とむき出しの捨て台詞を残し、マンションのエレベーターホールに向かった。
梅雨の明けた七月の空は青く、白い雲がホロホロと漂い、ほのかに熱を帯びた柔らかな風が街を吹き抜けていた。
――よりによって、こんないい天気の日に、なんだって言うんだ。一から十までこちらのやりようが気に入らないから別れるだって、 あきれるよ。それより、仕事の成功をなんで一緒に喜んでくれないんだ。確かに飲み過ぎたのは良くない、約束もすっぽかした、それは悪い。でも、仕方がないんだ。建築会社のヒラの営業マンなんて自分の都合で予定やら何やらがどうこうなるもんじゃないんだ。
与志夫はぶつぶつと頭の中で不満を垂れ流しながら缶入りのトマトジュースを自動販売機で買った。
――そんな苦労が分からないなら、真理愛、おまえとの生活は無理だ。仕事が終わってヘトヘトになって帰って、それ後片付けだ、それ洗濯だ、とか言われも、こなせる元気があるはずないだろ。それに毎週末に大掃除並みに掃除をするなんて、ばかげている。
何処といって行くあてもないまま与志夫はトマトジュースを呷った。トマトの酸味と優しい塩の味わいが二日酔いの胃を癒してくれる。いくらでも飲めそうだった。幸い財布と部屋の鍵は持ってきている。金さえあれば、夜になるまで何処かで時間はつぶせるはずだし、マンションに戻ればドアの錠も開けられる。
――そういえば、ドアをロックしてこなかったな。ま、いいか、真理愛が勝手に閉めて出て行くだろ。
二人の暮らすマンションのドアはオートロック式ではない。与志夫は携帯電話から部屋の鍵はマンションの入り口にある郵便受けに入れておくようにと真理愛にメールした。返事はないだろう、それでもよかった。
相変わらず頭はズキズキと割れるように疼く、吐き気も時折こみあげてくる。どこか、静かな場所で横になりたかった。
――そうだ、銭捨て劇場に行くか。あそこなら人はいないし、横にもなれる。
今、与志夫がいる場所から銭捨て劇場までは歩いて五分ほどで行く事ができた。劇場は、昔、この街が人口増加率日本一を継続していた頃の市長と市議会が建てまくった愚かしい建造物の一つだった。古代ギリシャ風の野外劇場をとんでもない費用をかけて建設したが、使われるのは今では年に一度。真夏の夜に高校生が音楽会を開くだけだった。それ以外には使われる事もなく、ただ放っておかれている。だから、この街に住む人々はあまりのばかばかしさに銭捨て劇場と綽名した。小高い丘の裾野を利用して擂鉢状に掘り込み、コンクリートで作られた扇状の観客席が広い舞台を取り囲んでいた。隣の席との境はなく、横になる事もできた。与志夫がこの無用の長物と化した野外劇場に行ってみると、案の定、人っ子一人いない。コンクリートの割れ目から夏草が元気よく育っていた。
――作ればいいってもんじゃない。
建設会社の営業マンの癖で建てた後の維持管理の費用が気になる。清掃や除草、劇場全体の補修など、その後の費用は大変な額になっているはずだった。
――阿呆としか言いようがないな。
与志夫は観客席脇の階段を下りてゆき、舞台が間近に見える三列目の席に腰をおろすと、そのままごろりと横になった。
――いい天気だ。このまま寝るか。
与志夫は眼を閉じた。
――この時のために劇場を建ててくれたのかもなぁ。バブル市長に感謝すべきか。
皮肉な笑いを口元に刻むと与志夫はすぐに眠りに落ちた。
そのまま二時間ほど眠ったようだった。太陽は高く舞い上がり、日向の影は短く濃くなっていた。
――財布は。
目が覚めるなり、ハッとしてジーンズのバックポケットをまさぐった。財布はあった。寝ている間に盗まれはしなかったようだ。与志夫は黒い革製の二つ折り財布を取りだし開いてみた。しわが入り、少し傷んだ写真が一枚挟んである。真理愛と一緒に撮った記念写真。パートナーとして暮らし始めたその日に写したものだった。
真理愛はウクライナの女性を母とし、日本国籍の男性を父として生まれた。身長も一メートル七三センチあり、深くて青い瞳が印象的な女性だった。モデルとして活躍する事もある。通りすがりの人々が思わず振り返るほどの美人だ。そして、一様に「どうして、こんな美人が」という顔をしてみせる。何故なら、真理愛と腕を組んで歩いている鼻の低い平たい顔の男は身長一メートル六〇センチそこそこ、おまけに太っちょの短足ときている。誰もが不思議がった。与志夫は本当に不釣り合いな二人の写真を眺めていた。
そこに話し声が聞こえた。
――珍しいな、こんなところで。
そう思いつつ横になったまま、首だけをひねって見上げてみると、すぐ上の段に二人の若い男が二メートルほどの距離を置いて座っていた。着ている服は透けるように薄く、鳩羽色の光沢のある生地が深いドレープを伴って足首まで覆っていた。腰には銀色の細いベルトを巻いている。履物は古代ローマ時代の剣闘士が使っていたグラディエーターサンダルでこれまた銀色に光っている。とりわけ異様なのは二人の背中に大きな翼が生えている事だった。
――なんのコスプレだ、これは。
怪訝に思う与志夫の上に二人の会話が降ってきた。
「また、やっちまったぜ。今度という今度はまずかったかもなぁ。オヤジ殿も母上もカンカンだ」
頭の上でキラキラと光り輝くリングのない、金髪を短く刈り込んだ若い男が顎に手を当てて後悔らしき言葉を口にした。
「うーん、これで三度目やんな、大きないざこざを引き起こしたんは……。ちょっと、まずいかもやで」
頭の上でキラキラと光り輝くリングのある、亜麻色の長い髪の若い男が頷いてみせた。なんとも中性的な面立ちだ。
「確か、最初はトロイアの争い。自分がパリスとヘレネに黄金の矢を放った。そのせいでとんでもない大 戦(おおいくさ)になったんや」
白い百合を弄びながら亜麻色の髪の若い男が続ける。
「次がアントニウスとクレオパトラ対オクタヴィアヌスの戦いや。ローマ共和国の大内乱やったな。あれは自分がアントニウスとクレオパトラに黄金の矢を打ち込んで、オクタヴィアヌスには鉛の矢を射込んだせいや。で、今度はテオキダク帝国の皇后パエスティーナとアスー合衆国のトカイ大統領に黄金の矢を突き刺した。結果は言うまでもあらへん、この世の破滅やろうな」
「ちょっとしたいたずらだ。そんなに大騒ぎしなくても、と思うぜ。いつどこで誰と恋に落ち、愛を交わすか、誰も知りぁしねぇよ。ロマンスは突然に生まれる。俺はそのきっかけを作ってやっただけじゃねぇか」
金髪の若い男は足元に置いていたウッドベース用の黒いハードケースを見ながらヘラヘラと笑って続けた。
「冷戦の和解に向けた会議だとか言ってジュネーヴの街にみんな集まった。その夜の晩餐会でパエスティーナとトカイはお互いを一目見ただけで恋に落ちた」
「いや、自分が黄金の矢で愛に目覚めさせたんやろ」
亜麻色の髪の若い男があきれ顔で言い返した。金髪の若い男は平気なようだった。
「そのせいでテオキダク帝国の皇帝アレクシオが激怒。今度は全面戦争だ、なんて息巻いているらしい。どう考えても、粋な話じゃないね。野暮な野郎だぜ。おまけにトカイ大統領夫人のアショーカは離婚訴訟を起こすというし、どうにもしまらない話だぜ」
頭上に光り輝くリングのない金髪の若い男はそう言うと何かを探すように空を見上げた。
「なんか、全く罪の意識のあらへん言い方やな、キューピッド」
光り輝くリングを頭上に戴いた亜麻色の髪の中性的な面立ちの若い男が諦め顔で話す。
「キューピッドって呼ぶな。俺、その名前は好きじゃないんだ。知っているだろ。ついでに赤ちゃんスタイルも嫌いだ。本当は、ほれこの通り若いハンサムなお兄さんだ。なのに、なんで丸々と肥えた赤ちゃんスタイルになっちまうんだ。いい加減にしてくれ。呼ぶならクピドだ。そうしてくれ、ガブリエル」
「エロスって名前もあったな、確か」
「……その名前は時と場合によっては使う事もあるが、普段は使わない」
「エロスは恋人のプシュケーに会う時だけかな、クピド」
「うるさい、ほっとけ。それより、なぁ、ガブリエル、この空のどこかにプッティが飛んでないか」
「お供の妖精のプッティか。確か、彼等も素っ裸のややこスタイルやったなぁ。見つかるとまずいんかな」
「あぁ、まずい。奴等、俺を見つけるとすぐにオヤジ殿と母上に注進に及ぶだろうからな。さっきも言った通り、二人ともカンカンだ、今度の件で。オヤジ殿と母上がベッドでよろしくやっている隙に姿をくらました俺を、今頃、奴等は必死に探し回っているはずだ」
「……そやさかい、雲隠れしてんねや。見つかると厳しいお仕置きが待っているのやろなぁ」
「そうだ。最悪な話だが、どうも弓矢を没収されそうだ」
「そう言うたら、弓も矢も持ってへんけど、どないしたん」
ガブリエルは不思議に思い、そう尋ねた。
「こん中だ」
クピドはウッドベースケースを足でつついた。
「こんな真っ昼間に神威を宿す弓とか矢とか、そんな物を持ってうろついているとすぐに見つかってしまうだろ。私がクピド、犯人でございますって自首しているようなもんだ。だから、隠した。ウッドベースケースが大きさといい、持ち運びの手軽さといい、おあつらえ向きだ。それにこの衣装だぜ。俺の暮らすゼウス天空に住む連中は真っ裸と決まっている。衣装を纏っている奴はいくら翼が生えていても他の天空の住人という事になる。その証拠にクリストス天空の大天使ガブリエル様もご一緒だ。おまけにここらには天照大御神天空という地方天空まである。ま……、これでしばらくは安全だと思うが」
クピドは空を見上げるのを止めて、頭を左右に振った。ボキボキと骨の鳴る音がした。
「クピドは暇でええでな。うちなんかパシリ役で、命令されるがまま、あちこちに飛んで行かされるさかいね」
ガブリエルは雑草を引きちぎって口に入れてクチャクチャと噛んだ。
「そうだな、天使には階級が厳然として存在するからな、気の毒だ、ガブリエル」
九つの階級が天使にはあり、それは未来永劫変更されない。大天使は下から数えて二番目となり、神と人との間を行き来して、神の意志を伝える役目をさせられていた。
「つまり、使いっぱしり。大天使なんて言うて聞こえはええけど、ようはパシリ。それに、この頃は色々とめんどいことが多いんや。この前なんか、主の指示やさかい、とか言われて、いっぱい署名の入った証書を受けとって、指定された人間を天国の門の前まで連れて行ったら、こいつはあかん、追い返せって上役の権天使様から命令されたんや。なんでも、性的児童虐待の事実が見つかったやらなんやらで……結局はテレコになって地獄行きになりよった。最初からよう調べて指示して欲しいわ。……で、なんでこんなんになっているんか不思議に思うとったら、友達のミカエルが教えてくれてんけど、このとこ天国は人間が増えすぎて困っているんやて。そこで、ほうぼうにある聖なる方々の事務局が事後審査をなんべんもなんべんも繰り返す事になって、そのせいで一度出された命令もひっくり返ってまうことがあんねんて」
ガブリエルは気弱な笑みを見せた。
「まぁ、お互い、元気出そうぜ。そういや、今夜は近くの修道院で、信者のための夕食会がある、と聞いたぜ。そこにこの衣装で乗り込んで美味しいワインでもいただこうじゃねぇか。大天使様のご登場で大いに盛り上がること請け合いだぜ」
クピドはガブリエルの肩をバンバンと叩いた。
――こいつら、どうにもおかしな話をしているなぁ。
与志夫は写真を手にしたまま、むくりと起き上がり、クピドとガブリエルの方をじっと見つめた。
――別に気が狂っているわけでもなさそうだが。
なおも見つめる。筋肉質の大きな翼も気になる。訝し気な視線を無遠慮に投げかけた。
「ねぇ、クピド。ちょっと、あれ」
ガブリエルが凝視に気付いて顎をしゃくった。それに促されてクピドが覗き込んでくる視線を辿ると、森のフクロウが真夜中の地面にミミズでも見つけたような表情をしている与志夫の顔に行きあたった。
「こいつ、どうも俺達が見えているようだな。スパティウムテンポリス(時空)閉鎖プログラムを使って透明化プロセスを実行してもたまにいるんだ、この手の人間が……」
クピドがガブリエルに囁いた。
「困った事にならへん」
ガブリエルは中性的な顔を曇らせる。
「俺達の話を聞いたなら、ちょっと面倒だ。忘れてもらうしかないだろうな」
「どないして。プロプラノロールやデスクロロクロザビンみたいな記憶消去薬持ってへんで」
ガブリエルはオロオロし始めた。こんな失態が上役の天使達にばれるとしばらくは天国の軍隊の営倉行きだ。
「心配すんなって。ここは天空の住人として神話的に話をしようぜ。まぁ、任せとけ」
クピドは与志夫に近づき、「ちょっと、いいか」と隣に座った。そして、尋ねる。
「あんた、俺達の話を聞いたよな」
「あぁ、耳に入った。けれども、あまりにばかばかしくて……」
与志夫は鼻で笑ってみせた。
「ばかばかしいとはなんなん。地獄に落とすよ、もう」
ガブリエルが鼻白んだ。そして、クピドの隣に躍り込むようにして座った。
「まぁまぁ、落ち着け、ガブリエル。大天使様がそんな脅すような事を言っちゃいけないぜ。こういう時には辞を低くして丁寧に頼むんだ」
クピドは首筋を掻きながら、続ける。
「俺達、あんたが聞いてしまった話を忘れてもらいたい、と思っているんだが、頼めるかな」
「誰にも漏らすな、という事か」
「そういう事。物分かりがいいね、あんた」
クピドが短く刈り込んだ金髪の頭を撫でた。「俺達は天空の住人だ。何でもやろうと思えば、何でもできるが、手荒な真似はしたくないし、したら、あんたはとても不幸になってしまう。そんなのは俺達の願うところではない。分かるな」
――クピドの方がよっぽど脅しているんとちゃうか。
ガブリエルはそう思いながら与志夫から見えないように横を向いて眼の前の空間を右手の人差し指で四角く切り取った。そして、左手をポッカリと空いたその異空間に差し入れると天空に住まう者のみが使う事ができる聖なる一書を引っ張り出した。人名総覧、日本国編(聖別済)と背表紙にあった。表表紙には正三角形が金色で刻印され、その中にプロビデンスの眼が物憂げに浮かんでいた。ガブリエルはその眼を与志夫に向ける。するとヴェリタスという低い声が響き、プロビデンスの眼が一度ゆっくりと閉じられた。勝手に人名総覧のページが開く。
――保存データと実物の整合率一〇〇%、か。間違いあらへんね、こら。ええっと、この人は、と……。
『桜田与志夫、二十八歳、男性、岩野真理愛と暮らす。住所は馬子市飼葉町一丁目一番地コータンマンション二三六八号室、建築会社勤務。記載内容は現時点でのもの。生存中につき今後、事実変更の可能性あり』
ガブリエルはそのページをクピドに見せた。
「あんた、桜田与志夫さんていうんだね。じゃ、よろしく頼んだよ。コータンマンションもよく知っている場所だ」
与志夫にはクピドのハンサムな横顔が悪魔のそれのように思えた。
「忘れてくれれば、何も起きない。ただ、何かの拍子に一言でも誰かに話したら、ま、あまりよくない事が起きそうだ」
クピドは立ち上がると、お先にどうぞとばかりに右手で帰り道を指し示した。与志夫は腹立たしかったが、同時にこの場所から早く逃げ出したくもあった。なぜなら、この奇妙な二人組には何か常軌を逸したものを感じるからだった。真夜中、神の社に独り立ち、神霊の宿る闇を観た時に覚える畏怖、全身が粟立つあの感覚に似ていた。あまり近づかないほうが身のためだ、と本能が教えてくれる。悔しいが仕方がない、与志夫はその場を急いで離れる事にした。
「もう,会う事もないでしょ。是非、そう願いたいね」
クピドが与志夫の背に声をかけた。
――バカにしやがって。
カチンと来る一言だった。怒りの矛先を向ける何かが必要だった。
――えいっ、くそ。
手にしていた真理愛との写真を与志夫は思いきり引き裂いてその場に捨てた。
「このまま行かしてえんやろか」
ガブリエルは与志夫の背中を見送りながら、うじうじと気に病んでいる。
「大丈夫だ。何処にいてもすぐに後を追える。気にすんな。さっき、あいつの隣に座った時にプシュケーの翅の鱗粉をこすりつけておいた。人間の眼には見えなくても俺達には見える、キラキラと赤く光ってな。それにあの鱗粉にはプシュケーのあそこの特別な匂いが強く残っているから、その後を追えば、すぐに見つかるぜ。あの匂いは忘れようがない」
クピドはニヤニヤと笑った。
「プシュケーの鱗粉。彼女の翅は蝶と同じやさかいな。せやけど、鱗粉をクピドの手に散らすやなんて、どないな愛し方をしたんや、クピド。 えげつない激しい体位で責めたんちゃうか」
「まぁ、あの喘ぎはなかなか……。おっと、何を言わせるんだ、話がずれた。プシュケーの事はさておき、いい物がここに落ちているぜ」
クピドは与志夫が破り捨てた写真の一部を拾い上げた。若い女性の笑顔がそこにはあった。
「この女はさっきの奴の恋人だろう、たぶん。……で、破り捨てた、という事はこの女との関係は壊れた、とみていいな」
クピドは写真をガブリエルに渡した。ガブリエルは受け取るとすぐさま、あのプロビデンスの眼でその女性を写し取った。人名総覧、日本国編のページがふわりと開く。
『保存データと実物の整合率一〇〇%。岩野真理愛、二十六歳、女性、桜田与志夫と暮らす。住所は馬子市飼葉町一丁目一番地コータンマンション二三六八号室、雑誌記者兼モデル。記載内容は現時点でのもの。生存中につき今後、事実変更の可能性あり』
「間違いあらへんなぁ。桜田与志夫の恋人、岩野真理愛はんやで」
ガブリエルはウンウンと頷きながら写真を眺めた。
「恋人だった、と言った方がいいと思うぜ。そうとなれば、これは使える。奴が俺達との約束を反故にして誰かに秘密をしゃべった時にちょいとした神罰を与える小道具になる」
「どないなふうに使うん」
ガブリエルには見当もつかなかった。
「その時になったら、教えてやるよ。それより、修道院に行ってごちになろうじゃねぇか。大天使のコスプレ二人組って、なかなかの名案だろ」
「そのうち一人はほんまもんやしね。ほんで、クピドはミカエル役や」
「そうだな、頭の上にリングはないが、何かうまい言い訳を考えてくれ」
「よっしゃ。ほんなら、行こか。権天使様には休暇届を出したるさかい心配あらへん。さあ、遊んだろ」
背中の翼をはためかせると、クピドとガブリエルは修道院のある森に向かって飛び去っていった。
――あいつら、本物か。……まさか、な。クピドとガブリエルとか言っていたけど、要はキューピッドと大天使ガブリエルの事だろ。キューピッドと天使って別物なのか。その辺りも良く解らんな。何とか調べる方法はないかな……。そうか、図書館に行けばいいか。間違いなく手頃な本があるだろう。夜まで暇だし、ひとつ研究してみるか。
与志夫は銭捨て劇場を後にして、市立図書館に向かう道に出た。近くのコンビニでペットボトルに入った水を買い、陽射しを避けるようにして歩く。
市立図書館にはもう何年も行っていない。ここも例のバブル市長が建てた施設で、今は運営をNPOに任せている。人口十万人程度の街にしては豪華すぎる図書館。維持管理に費用がかかりすぎて、市では到底、背負いきれないお荷物になってしまったのだった。
――図書館もこの時のために建ててくれたようなものだな。バブル市長には本当に感謝するよ。
与志夫は銭捨て劇場といい、この豪華絢爛図書館といい、まるで、自分のために建ててもらったような気分になっていた。
その与志夫が歩く道の上空に通りかかったのが二人連れのプッティだった。逃亡したクピドを探している。
「ね、あれ見えるかい」
プッティの一人が連れに言う。
「見えるわよ。あれってプシュケー様の鱗粉じゃないのかしら。そうだとするとクピド様は近くにいるわよ」
「近づいて良く確かめようよ」
二人のプッティはゆっくりと舞い降り、スーッと別れて後ろから与志夫の両脇に流れていった。
「間違いない。プシュケー様の赤い鱗粉だ」
「それにあの匂い。プシュケー様のあそこの匂いよ」
「やっと、見つけたね。クピド様はきっと、この近くにいるよ。彼はクピド様に会っていたはずだ」
二人のプッティは空高く舞い上がると興奮して騒いだ。
「じゃ、君はマルス様とアフロディーテ様にご報告差し上げて。あたいはこのまま彼を見張っているから」
「分かったわ。すぐに戻るわね」
プッティの一人が遠くの空に猛スピードで飛んでいった。
与志夫はそのまま図書館に入って行く。見張り役のプッティは大屋根に腰を下ろし、マルスとアフロディーテを仲間が連れてくるのを待った。
図書館に入ると職員の案内で与志夫はキューピッドと天使に関する本を選び出した。それを持って読書室に向かう。そこでは誰にも邪魔されず本が読めるし、考えをまとめる事もできる。二日酔いの頭痛はようやく収まり、吐き気も引いて、気分はずいぶんと良くなっていた。
――さて、あいつら、どうなっているんだ。
与志夫はのんびりとページをめくり始めた。
『天使のすべて』と『ギリシャ・ローマの神々』という書名の二冊を書棚から持ち出してきていた。
「もう、そろそろかな」
大屋根の上で見張り役のプッティが太陽神ヘリオスの動きを追って時間を読んでいると西の空に急に暗い雲がぽつんと湧いた。そして、それは瞬く間に激しく図書館に迫ってきた。
「お出でだ」
来迎に気付いたプッティが叫ぶと同時に稲妻が走り、雷鳴の轟きと共にマルスとアフロディーテの二神が降臨した。
「お早いお出ましで」
プッティはアフロディーテを抱きかかえて仁王立ちしているマルスに一礼をした。頭を下げ、視線を落とした先にマルスの黒々とした男根がユラユラと陰(ふぐ) 嚢( り)と共に揺れていた。二神とも真っ裸だった。
「彼(か)の者はこの館の中か」
マルスは戦場で鍛えた野太い声でプッティに尋ねた。
「さようで」
「ならば、問い質しに行こう」
マルスは抱きかかえていたアフロディーテを大屋根の上に立たせた。
「そのお姿で」
プッティはおそるおそる尋ねてみた。
「何か不都合でもあるかな、プッティ」
「透明化プロセスによって神々は人間共の眼には映りませぬからよろしいのですが、クピド様にお会いしたという事実から彼の者だけはマルス様、アフロディーテ様のお姿をどうやら見る事ができるようでございます。その折りにお二人ともスッポンポンの全裸となれば彼の者も魂消ましょう。さすれば、何かお纏いになったほうがよろしいか、と」
「よかろう。では、雲を纏い、神通力をもって人間共の衣装に変化せしめよう」
マルスがそう言って七色の雲を呼びよせると、アフロディーテが「私、オードリーがローマの休日で着ていたお洋服がいいわ」とせがんだ。
「お安い御用だ、アフロディーテ。ならば、余はグレゴリーの着用していた紳士服としよう」
二神は雲を纏うと、あっという間に衣装に変化させた。
「これでよし、では、行こう、アフロディーテ」
「ええ、マルス」
「プシュケー様の翅の鱗粉を身に着けている者が彼の者でございます」
プッティが伝えると、マルスは大きく頷いた。
「しばし、待て」
二神は手に手をとって沈み込むようにして大屋根の中に消えていった。
「もう降りて行かれたのかしら。お二人とも速いからとても追いつけないわ」
そこに伝令に立ったもう一人のプッティがぶつくさ言いながら遅れて舞い戻ってきた。
「うん、降りて行かれたよ。さぁて、これからどうなるかな」
二人のプッティは両手に顎を乗せて大屋根の上に並んで腰掛けた。
「待つしかないね」
「待つしかないわ」
読書室にいる与志夫は本を開いたままうたた寝をしていた。説明を読んでみても天使の世界もキューピッドの歴史もあまり頭には入らなかった。それよりも眠気の方に気を取られたといっていい。
「面白い本をお読みですな」
突然、重くて低い声がうつらうつらとしていた与志夫の耳を打った。顔をあげると逞しい筋骨を持つ背の高い外国の男性が与志夫を見降ろしていた。黒い髭に覆われた鼻の高い顔立ち、豊かな髪が首筋で自然にカールしていた。瞳の色はダークブラウンだった。
「あ、どうも」
眠りから追い出されたばかりの与志夫の返事は要領を得ない。
「ふぅーむ、キューピッドや天使にご興味をお持ちですか。なかなかに珍しい。何故、ご興味をお持ちになりましたか」
二冊の本を手に取ると男性は隣の椅子に座った。与志夫が口ごもっていると、「これは失礼。自己紹介を忘れておりました。余は……、ではなく、私の名前はアレス。アテナイ生まれのローマ育ちで軍事研究を主な仕事にしております。あれに 居( お)りますのが、妻のヴィーナスです。よろしく」流暢な日本語を使った。
与志夫はアレスの妻だという女性を見て仰天した。その女性は白いフレンチスリーブ風の袖を持つブラウスに濃いベージュ色のスカートを合わせて窓際に立っていた。オードリー・ヘップバーンの愛らしさとグレース・ケリーの気品、そして、イングリッド・バーグマンの艶めきを一身に集めて昇華したこの世の人とは思えないほどの美人だった。
「なんて美しい……」
「まことに」
アレスと名乗った男性はあっさりと同意した。謙遜も何もない、至極当たり前という顔をしている。
「……で、先ほどの続きですが、何故にご興味を持たれましたか。差し支えなければお話いただきたい、と思いますが」
アレスはずいっと身を乗り出してきた。耳もとでは兜と盾をあしらったピアスが金色の光を放っていた。
「それは軍事研究の一環なんですか」
与志夫はまだヴィーナスを見ていた。返事もうわのそらだ。
「その通り。非常に大切な事例となりますな。不可解な者どもが及ぼす戦争への影響について貴重な資料となりましょう」
アレスの瞳に火が点った。与志夫はクピドとの約束を思い出したが、あの時の悔しさが、誰がおまえなんかとの約束を守るか、とためらいを捨てさせた。
――報復でも何でもやってみろ。なめるんじゃない。
与志夫は銭捨て劇場で出会った奇妙な二人組の一件をアレスに話し始めた。アレスは異常なほどの興味を示した。
「……で、そのクピドという若い男はガブリエルなる者を連れて何処に行きましたかな」
「はっきりと何処に行ったとは言えないですが、なんでも、近くの修道院で開かれる信者のための夕食会に行こう、とか言っていましたね」
「そうですか。いや、大変に有難い。これで目途も立った、というものです。ヴィーナス、こちらに。この方のお陰でおおよその行方は判明した。おまえからもお礼を申し上げてくれ」
アレスが促すとヴィーナスは軽やかに窓辺から与志夫のもとに歩み寄り、微笑みながら小さく一礼をしてみせた。
「マルス、あっ、いけない。アレス、良かったわ、見つかって」
ヴィーナスはそよぐような声音で言った。「アフロディーテ、もう、アレスは止めてマルスでよかろう。時として二つの名前を持っておるという事は不便でもある。さて、これより、話に聞いた近くの修道院とやらをプッティ共を使って探し当てねばなるまい」
マルスはアフロディーテの手をとった。そして、与志夫を振り向くと、「再度、お礼を申し上げる。ただ、ここで私達に出会った事は秘密にしておかれよ」低い声で念を押した。
――またかよ、なんでそう秘密にしたがるんだ。いいかげんにしてくれよな。
与志夫はげんなりした。
「あなたの証言はこの世を破滅から救うかもしれません。ですから、その証言を私達になされた事は誰にもお話にならないでください。特にクピドやガブリエルには」
アフロディーテは緑色の瞳を輝かすと与志夫に軽く会釈して、マルスと共に図書館から消えていった。
――何だって。世界の破滅って、どういう事なんだ。
与志夫にとってそれは意外極まりない成り行きだった。
――待てよ、確か、ガブリエルって奴が言っていたな、『結果は言うまでもあらへん、この世の破滅やろうな』と。あの事か……。
なんだか胸がドキドキしてきた。
――落ち着け、落ち着け。そんな事はない、そんな事はない。世界の終わりなんてあり得るはずがない。これは夢だろう、夢か幻に違いない。その証拠に誰もあの二人に気づいていない。もしかすると、あのクピドとガブリエルも夢の中の話か。
与志夫は息を自分の手に吹きかけてみた。その生温かな風を感じる自分は狂ってなどいない。そう信じられた。時計は午後三時過ぎを示していた。
――あんなに美しい女性が目の前を通り過ぎれば、誰だって振り返る。驚くさ。
それが普通と言えた。しかし、図書館は静まり返ったままだ。白昼夢を見たのかもしれない。昨日の夜の深酒が、まだ神経のどこかを侵し続けているのかもしれない。
――あんなに美しい女性なのに……。
突然、真理愛の笑顔が脳裏に浮かんだ。破り捨てた写真に写っていたあの笑顔だった。与志夫はジーンズのバックポケットから財布を取り出し、写真を探してみた。何処にもない。そう、あの写真は確かに破り捨てた。その記憶はある。またとない可愛らしい笑顔だった。飛び切りの笑顔を真理愛はいつもみせてくれた。それだけで幸せだった。仕事で失敗した時には抱き締めてくれた。言葉は要らなかった。大粒の涙をこぼしながら一緒につらい時間を過ごしてくれた。
与志夫の胸の内に真理愛と過ごした日々の思い出がカレイドスコープ(万華鏡)の絵柄ように広がった。
――思えば、ひどい言葉を浴びせた。
後悔か、与志夫は痛み始めた心に気づいた。この辺りで揺れて崩れ落ちようとする想いを断ち切らないと過ぎ去った時に溺れてしまう。与志夫は本を書架にしまうと図書館を後にした。こんな時には肉体に過度の我慢を強いるに限る。そうすれば、意識は、その苦難を乗り越える事に必死になり、今持て余しているような不穏な揺らぎを忘れる。試練の先には澄み切った平穏が待っているに違いない。
――それが簡単に実行できる場所はサウナだ。
サウナの灼熱こそが、酒臭い身も、憂いに
沈もうとする心も洗い清めてくれる。禊ぎとも言える。そして、マッサージだ。思い切り痛くしてもらおう。のたうつほどの刺激を受けて頭は呼吸を止める。只々、色彩の違う苦痛に悶え苦しむのみだ。それが終われば、また、サウナだ。
――二度目のサウナから出てきたら、もう、夕暮れ時だろう。何処か飲み屋に入って、旨い物でも食って、美味しい酒でも飲もう。そうすれば、今日の出来事はみんな帳消しだ。
そう思い定めた与志夫は駅前のサウナの店に足を向けた。
同じ頃、糺の森修道院では修道士と信者が総出で午後五時から催される夕食会の準備に忙しかった。日本海に面した北の森の中、修道院の聖堂は古い倉庫を再利用して営まれていた。三角屋根の上に白く塗られた木製の十字架がなければ、とてもそうとは思えない無骨な建物だった。築五〇年以上は経っているだろう。天然木の丸太を無造作に積み上げて建物の壁とし、屋根は安い瓦葺きであちこちにひびが入り、苔むしたうえに雑草が生えていた。屋根の内側は雨が染みだしたのか、全体が黴びて黒ずんでいる。
「皆さん、ありがとうございます。大変、助かります」
修道院長を務めるボグダンが信者に声をかけた。十人ほどの信者が一斉に笑顔で応える。
聖堂に向かって左手の空き地は夏の日差しの中、光り輝いていた。そこに長いテーブルを置き、白いクロスをかけて椅子を集める。夏の間、週末にはこうして楽しいひと時を修道士と信者が集まって過ごすのが慣わしだった。ひときわ、参会者が楽しみにしているのはこの修道院で醸されるワインだった。白ワイン用の葡萄の木は修道院の背後にそびえる丘の中腹から上のなだらかな斜面に植えられ、赤ワイン用の葡萄の木は比較的低い隣の丘陵地に広く幅を取って植えられていた。白ワインはあっさりとして酸味の程よく効いた辛口となり、赤ワインは濃厚な舌触りを持つ、がっしりとしたものに仕上がった。
「さぁ、着いたぞ。糺の森修道院だ」
クピドは忙しく動き回る人々から少し離れた杉の大木の後ろに舞い降りた。ガブリエルがそれに続く。
「さて、これからの段取りだが……」
「クピド、それは任せて」
ガブリエルが修道院の方を窺いながら返事をした。
「まず、透明化プロセスをオフにしてスパティウムテンポリス閉鎖プログラムを停止せなね。そうしたら、あそこにいる人間達全員がクピドとうちを見られるようになる」
「まぁ、そうしないと色々と面倒だ。俺達の姿が見えないまま、テーブルのワインとか食べ物が勝手に消えていってしまえば、連中は腰を抜かすだろうし」
「この場ではうちらは大天使のコスプレをした人間ちゅう設定やんな。けっこう、受ける思うで、クピド」
「さて、俺に天使のリングがない訳はどうするかな」
「急いどったさかい着けるのを忘れた、とか言うたら信じるんちゃう」
「そういう事にしとくか、ガブリエル。じゃ、行こう」
クピドに誘われると、ガブリエルは小指で目の前の空間を切り取り、中に右手を差し入れた。そして、背面に虹色のラメプリントで『ガブちゃん専用』と書かれたアルカヌムサイフェルオペラティオタブラ(神秘暗号操作タブレット)を取り出して、ちょいちょいとスクロールした。
「この入力画面で透明化プロセスをオフにしてから、スパティウムテンポリス閉鎖プログラムを停止して、と……。 はい出来上がり。ほな、行こか」
頷くとクピドはウッドベースケースを背負い、ガブリエルと並んで歩きだした。
「背中の翼が邪魔だな、背負うと」
「少しの間の我慢やで、クピド」
二人が聖堂の横の空き地に設えられたテーブルを目指して歩いて行くと、すぐにボグダンが気付いて手招きをした。
「ようこそ。なかなか凝ったいでたちですね、お二人とも」
人懐っこい声がかかった。数人の信者も二人を指差して賑やかな笑い声を立てた。
「素晴らしい。なかなか決まっていますよ。えっと、大天使のコスプレですね」
テーブル脇まで来るとボグダンが二人を迎えて目を細めた。他の修道士達もにやにやしながら近寄ってくる。
「今宵の集いのため来られましたか」
ボグダンが優しく問いかけた。
「そうなんですわ。修道士様のお話を伺うて、キリスト者としての修養を積みたい、と考えて来ました。……で、参加するだけではもったいないさかい、今日は他の信者の皆様の楽しみになるかな思てこんなコスプレをしてみました」
さすがにガブリエルは慣れたもので何の淀みもなく答える。
「こちらに居るのは友達で、大天使ミカエルのコスプレのつもりです。急いで来たさかい、頭に天使のリングを付け忘れていますけど、そこはご愛嬌ちゅうことで。うちの方はガブリエルのコスプレです」
「分かりました。それでは先ず聖堂に行っていただき、主に祈りを捧げてください。それが終われば、また、こちらにお戻りください。それで結構かと思います」
ボグダンがにこやかに告げた。二人は案内役の若い修道士に導かれ聖堂に向かった。その修道士によれば、聖堂の右隣にあるこれまた古ぼけた建物はもともと家畜小屋だったが、現在は修道士達の集会室兼食堂として使われている、との事だった。そして、さらに三〇メートルほど丘に向かって歩いた場所にある大きな母屋は彼らの居住区になっていると言う。
二人は聖堂に入ると祭壇に向かって跪き、短い祈りを捧げた。祭壇中央には十字架を戴いた天蓋の下に聖母像が安置されていたが、その両脇にはかなりの空間が残されていた。
「聖母様の両脇には大天使の像を配置する予定なのですが、今は台座までしかできておりません。皆様からのご寄付を今後集めて、なんとか近日中に制作、安置したい、と考えています」
若い修道士は説明した。帰り際、聖堂出口に近い床に補修用のペンキの缶がいくつも置かれてあるのにガブリエルが気づいた。「その白いペンキは壁の補修用です。どうも古い建物なのであちこち修理が必要なのです」若い修道士は続けた。
そして、再び広場に戻ると二人は信者の集うテーブルの末席に並んで座った。
「どんなごちそうが出てくるかな」
「あんまり期待せぇへんほうがええで、クピド。修道院の食べ物って、禅寺より多少ましってとこやさかい……」
ひそひそと話しているとボグダンが挨拶に立った。
「今日は飛び入りで大天使がお二人おいで下さいました。なので、そのお二人に集いの食事の前に主に捧げる感謝の祈りをお願いしたい、と思います」
全員が一斉に二人の方を見た。
「へぇ、分かりました」
ガブリエルは平然としている。
「ほな、皆様、お祈りをご一緒に。O c u l
i O M n i U M I N T E S P I R A
N T , D O M I N E , E T T U D A S
i L L I S C I B U M I N T E M P O r E , A P E R I S M A N U M T U A M
E T I M P L E S O M N E A N I M A L B E N E D I C T O N E . A M E N」
誰もが耳を疑った。ラテン語の祈りをチャラついたコスプレ好きの若者が唱えるなどとは予想だにしていなかった。どよめきが広がった。その中、クピドが英語で復び唱える。
「T H E E Y E S O F A L L T O
Y O U L O O K H O P E F U L L Y , O H L O R D , A N D Y O U G I V E
T O T H E M F O O D I N D U E
S E A S O N , Y O U O P E N Y O U
R H A N D A N D F I L L E V E R
Y L I V I N G T H I N G W I T H
B L E S S I N G . A M E N」
さらにガブリエルが日本語で繰り返した。
「主よ、御身の御前に集まれり我らの瞳は希望に満ち溢れております。なぜなら、主よ、御身の奇跡により我らは日々の糧を得る事ができたからです。御身はこうして我らを迎い入れ、生きとし生けるもの全てに祝福をお与えくださるのです。アーメン」
ようやく全員がそれに続いて感謝の祈りを捧げた。
「いや、どうも素晴らしい。今日の集いはまた一層楽しいものになるでしょう」
ボグダンはそう応え、集まった人々に食事の開始を促した。クピドもガブリエルもワインをグラスに注ぐ。
「待ってました。さあ、飲むぞ」
食事は野菜を煮込んだチョルバスープ。別皿に目玉焼き、ピクルス、ソーセージと赤ピーマンが載せられている。テーブルのあちこちにずっしりと重いパンがこんもりと盛られて置いてあった。ワインはカラフェに満たしてあり、自由に取ってグラスに注ぐ事ができた。
「旨いなぁ。やっぱり、ここのワインは噂通りだぜ」
クピドはいい感じに酔ってきていた。ガブリエルはここぞとばかりに懐から名刺入れを取り出す。そして、立ち上がると参会者に配り始めた。
「ガブリエルと申します、よろしゅうお願いします。また、どっかでお目にかかるかも分かりまへんさかい、うちの似顔絵を描いた名刺を先にお渡ししときます」
名刺を全員に配りながら腰を低くして、どこやらの商人のように抜け目なく立ち振る舞っていた。
「ほぉ、これはよく描けた似顔絵ですね」
名刺をもらった一人の信者の男が歓声を上げた。
「ええ、めっちゃ似てますやろ。レオナルドに受胎告知ちゅう題名で描いてもうた時のもんです。他にもいろいろな画家に描いてもろたけど、レオナルドのものが一番気に入っています」
「レオナルドと言うと……。あのレオナルドですか」
「そうです。ヴィンチ村出身のレオナルドです。お知り合いですか」
「いえ、とんでもありません」
信者の男はしげしげと名刺を見ていたが、ふと気付いたのだろう。
「……ですが、この名刺には連絡先が書かれていないようですが」
信者の男は不思議に思って尋ねてきた。
「あぁ、そらですなぁ。なんや用事があったら、こちらの方から訪問する事になってますんで問題おまへん。うちが訪問した時にはこの名刺の事を思い出していただき、驚かれんようにしてくれはったら、と思います」
ガブリエルはにこにこと機嫌よく参会者の間を回ると、修道士達との会話を主の教えについて尽きないネタで盛り上げた。
――ま、ネタには困らないよな、あいつは。何せ、主を身近に見てきているし、イエスとも長年の顔なじみだしな。
クピドは一人、料理とワインを口に入れている。
「ねぇ、クピド、なんか歌わへん。ぼちぼち気分乗ってきたんちゃう」
ガブリエルは修道士達にも似顔絵の名刺を渡してご満悦のようだった。
「じゃ、やるか」
クピドはすぐそばに置いてあったウッドベースケースを開けると中から竪琴を取り出した。月桂樹で作られたロードス島の逸品だった。クピドはテーブルから少し離れた大きな楠の下に座るとアポロンを讃える古いアテナイの雅曲を披露した。透き通るガラス細工のような声が森に響いた。
「おお、素晴らしい。美しい調べに輝く歌声。天上の音楽のようだ」
ボグダンが感に堪えぬ風情で溜息をついた。
「ええなぁ。クピド、もう一曲、頼むわ」
ガブリエルがリクエストをする。クピドもまんざらではなかった。今日は喉の調子もいい。すぐさま次の曲を歌い始めた。
「この曲もいい」
ボグダンが呻く。
「でしょう。この曲は彼がプシュケーをものにした時に歌うたもので、彼の 十 八 番( おはこ)中の十八番です」
ガブリエルが満足そうに頷くと、ボグダンが眉間に皺を寄せた。
「……ものにする」
「あぁ、修道院では使わへん言葉です。あまり気にせえへんでください」
ガブリエルは慌ててその場を取り繕った。クピドの甘い歌声が夕暮れを迎えた森に響き渡っている。興が乗ったクピドはさらに声の調子を上げた。
「ねえ、あの声って」
空を飛び回り、二人の行方を追っていたプッティの耳にもその歌声が届いた。
「あの歌はプシュケー様をクピド様が口説いた折りに歌った佳曲では」
「そうよ、それに間違いないわ」
プッティは声のする方向に急旋回して、糺の森修道院が見渡せる楡の木のてっぺんに身を隠した。
「あの方がそうじゃないかな。あそこ。あの楠の根元のところ」
「……きっとそうだわ。ついに見つけたのかも」
「遠くて見にくいから、もう少し近づいて確認してみようか」
プッティの一人が身を乗り出そうとした瞬間にもう一人が止めた。
「まずいわ、近づくのは。あの辺り一帯はスパティウムテンポリス閉鎖プログラムが停止されて透明化プロセスもオフにしてあるようよ。今、出て行けば、人間から丸見えになるわ」
「そうか、それは気をつけないと。でも、スパティウムテンポリス閉鎖プログラムを触る事のできる神格を持っていて、あの歌声だろう。あそこに居られるのはクピド様とガブリエル様のお二人に違いないよ」
「間違いないわね。あたし達のような妖精には触れないプログラムだし」
「マルス様とアフロディーテ様をお呼びしてよ。あたいはこのままお二人を監視しているから」
「了解よ」
オネエ言葉を話すプッティが西の空に向かって全速力で飛び、その姿は瞬く間に視界から消えてしまった。
「……とは言うものの、段々と暗くなるし、また姿を晦まされても困るしね。うまく隠れながら、もう少し近くで様子を見た方がいいね、これは」
一人となったプッティは薄闇に紛れて楡の木のすぐ近くに設置されていた修道院の案内図に憑りついた。するとプッティの顔の上半分が木枠で縁取られた案内図の画面右下から元々描かれていたような趣きでひょっこりと現れた。ここからだと賑やかな夕食会が開かれている場所がずっと見渡せる。
「クピド様もガブリエル様ものんきなものだね。世界の破滅が近づいているというのに」
テオキダク帝国の皇后パエスティーナとアスー合衆国のトカイ大統領の愛の炎を消す事ができるのはクピド自身が放つ鉛の矢だけだった。二人の愛が消えてなくなれば、テオキダク帝国の皇帝アレクシオの怒りもおさまるだろうし、トカイ大統領夫人のアショーカは離婚訴訟を取り消すに違いない。そうしたら、世界に平和がまた訪れる。だから、どうしてもクピドは連れて帰らねばならなかった。プッティは溜息をついた。
「神々の皆様の心配も知らないで、遊びまわっているんだから、もう……」
プッティが西の空を見ると例のように暗い雲が湧いた。そして、それは瞬く間に勢いよく迫ってきた。
「お出でになった」
プッティが見定めると同時にいつものように稲妻が走り、雷鳴の轟きと共に案内図の背後の森の中にマルスとアフロディーテの二神が降臨した。慌ててプッティはスパティウムテンポリス閉鎖プログラムが稼働し透明化プロセスがオンとなっている二神の許に戻った。戻りつつ、この轟音を耳にしたクピドとガブリエルが二神の接近に気づかなければいいが、と修道院の方向を振り返る。
「ご来臨のいつもの演出とはいえ、焦るよ、まったく」
プッティは冷や汗をかいたままマルスとアフロディーテの前に跪いた。
「お早いお出ましで」
愛想笑いをするとマルスがじろりとプッティを見据えた。相変わらずの全裸で逸物をブラブラとさせ、永遠の美女アフロディーテを抱きかかえていた。
「クピドは居ったのか、本当に」
「間違いございません、クピド様とガブリエル様です」
「よくやった。早速、連れ戻そう」
マルスはアフロディーテを地面に降ろすと雲を身に纏った。
「何も言わずとも分かっておる。透明化プロセスはあの場所ではオフになっておるな。全裸のままではまずいのだろう、プッティ」
「さようでございます」
「ならば、先ほどと同じように雲を神通力で衣装に変えようぞ。アフロディーテ、おまえはオードリーでよいか。余はグレゴリーで参るぞ」
「嬉しいわ、マルス。でもね、スカートは濃いベージュではなくてスカイブルーにして。そのほうが人間世界では誰もが思い描くオードリーのスカートのイメージみたいなの」
アフロディーテはにっこりと笑った。
「では、そのようにいたそう」
マルスは大きく頷いた。
衣装を纏ったマルスとアフロディーテは森の中を走る道の傍らに歩み出る。
「ここからはスクーターに乗って参るとしよう」
「ローマの休日みたいに」
「さよう、ヴェスパに乗りたくてな。ここに用意した。軍神の乗り物としてはいささか小振りだが」
マルスは大勢のプッティに担がせてきたスクーターにまたがった。その後ろにアフロディーテが横向きに座る。
「では、参ろう」
ヴェスパのエンジンをかけ、マルスがスロットルをひねった。夕闇に沈み始めた森の木々の間をヘッドライトのオレンジ色の灯りが突き抜ける。甲高いエンジン音が静寂を破った。マルスとアフロディーテは右に緩やかに曲がったカーブを抜けて修道院に近づいていった。
「おや、森の方にヘッドライトの灯りが見えるなぁ。今頃になって、また、誰か来たんかいな」
ガブリエルは竪琴を抱えて戻ってきたクピドに尋ねるように話した。
「こんな時間になって、来るとはね。もうあらかた宴はお開きの時間だぜ」
二人が遠目に見ていると、ほどなくしてスクーターに乗った男女が修道院の入り口に到着し、修道士達は出迎えに行った。ボグダンも席を離れて訪問を歓迎するため、その男女のほうに歩いて行く。
「クピド、うちはちょっとの間、失礼するで。上役との定時交信の時間になるさかい。これ忘れると、後で休暇が取りにくなるんで、きっちりとやっとかなあかんのや」
ガブリエルは諦め顔で席を立った。
「ここでやれば」
クピドはグラスに入った赤ワインを飲み干す。
「まさか。交信の時のうちの姿や話の内容を人間に見聞きされたら、大変やで。それこそ、営倉行き確定になるやろ。そやさかい、葡萄畑の方に行って隠れてやるわ」
「面倒だな、宮使えは」
クピドは新たにグラスに注いだ赤ワインを最後の一滴まで喉に放り込んだ。
「そうそう、席を外すなら、ついでにこのウッドベースケースも持っていってくれ。何処か適当な所に置いといてくれればいい。新しい客が来ると席を作らないといけないだろ。それにはこの大きなケースをどかすしかないようだ」
テーブルを囲んだ信者達は遅く来た新来の二人のため席を詰め始めていたが、どうにも狭い。やはりウッドベースケースを片付けるしか方法がないようだった
クピドはスクーターを降りて修道士達に囲まれた男女をちらりとみた。しかし、二人の姿は宵闇と人々の影に重なって良くは見えない。
「分かった。ほんなら、持って行くで」
ガブリエルはケースを背負った。
「さいなら、また、後で」
「あぁ、後でな」
クピドは空になったグラスに赤ワインを満たし、パンを口に入れた。
――少し、飲み過ぎたか。
瞼が重くなってきた。心地よい眠りがクピドを取り巻いている。ふっと意識が飛んだ。
「……クピド、ようやく会えたな。クピド、起きろ……」眠い中、誰かの声がした。聞き覚えのある声だった。
「クピド、起きるんだ」
耳元で響く野太い声に、はっと我に返ると目の前にマルスの髭もじゃの顔があった。
「あっ、オヤジ殿」
「ようやくだな、クピド。今度ばかりは逃がさんぞ」
マルスの大きな分厚い掌がクピドの肩を叩いた。
「クピド、一緒に帰りましょう」
「母上もおいででしたか」
クピドは観念するしかなかった。マルスとアフロディーテはクピドの両脇を固めるように着座した。そして、しきりに食事を勧めるボグダンに向かって愛想笑いをしてみせる。
「修道士殿、突然やってきてお騒がせして申し訳ないが、実はここに居るのは探していた我々の倅でしてな。少し、家族だけで話したい事もあるので、失礼ですが、しばらくの間、席を立たせていただいてよろしいかな」
ボグダンが何とも答えないうちにすでにマルスとアフロディーテはクピドを伴って席から立ち上がっていた。三人は見守る参会者達の視線を気にする事もなく聖堂の前を通り過ぎ、左に折れて、かつては家畜小屋だった集会室兼食堂の建物と聖堂との間にある細い道に入った。そして、谷あいの渓流に降りてゆく小径に向かった。
「おまえ達に出会った若者から全てを聞いた。一緒に帰ってもらうぞ、クピド。そうしないと困るんだ、分かっているな」
マルスが言うと、「今度のいたずらはとても深刻よ、クピド」隣でアフロディーテがため息をついた。そして、左手の小指で目の前の空間を切り取ると中に右手を差し入れる。そこからアフロディーテは自分専用のサファイヤ色のアルカヌムサイフェルオペラティオタブラを取り出すとタッチパネルを触った。スパティウムテンポリス閉鎖プログラムを起動して透明化プロセスをオンにしたのだった。これで三人の姿は人間の眼には見えなくなる。マルスが手を上げた。
「プッティ共、天の鳥籠を持て」
その声に応えて大勢のプッティ達が空から金色の大きな鳥籠を降ろしてきた。
「中に入れ、クピド」
マルスはしょげ返っているクピドを追い立てて天の鳥籠に閉じ込めた。そして、鍵をかける。
「これで安心だ。……ところで、クピド、何故に弓と矢を持っておらぬ」
マルスは鋭い目つきでクピドを見詰めた。「今は持っていない」
やけくそのようにクピドは答える。
「何処にあるの」
アフロディーテが聞くと、「知らない。ガブリエルに預けたから」クピドはふてくされた。
「では、そのガブリエルは何処にいる」
マルスは苛ついていた。
「それも知らねぇよ。きっと、その辺りにいると思うぜ」
クピドも苛ついていた。ぞんざいな口をきく。
「それが親に対する口のききようか。ふざけた奴だ。いいか、お前が鉛の矢でテオキダク帝国の皇后パエスティーナとアスー合衆国のトカイ大統領の心臓を射抜かぬと世界は破滅するのだぞ。時間がないのだ。それ、プッティ共、鳥籠はここに置いて全員でガブリエルを探せ。余もアフロディーテも共に探す。行け」
マルス達は一斉に夜空に散っていった。クピドは一人、谷底の岩の上に残された。天の鳥籠からの脱出は合鍵がない限り不可能だった。
ガブリエルが定時交信を終え、テーブルに戻ってみるとクピドの姿が見えない。ボグダンに尋ねると、両親と一緒に聖堂の裏の方に向かって歩いて行ったと言う。
「あっ、あの二人はクピドのお父んとお母んやったんか」
ガブリエルは事情を理解した。クピドの両親は彼を連れ戻しに来たのだ。
「……ちゅう事は、今頃、もう連れ戻されたかんかいな。いや、待てよ、クピドが居っても弓と矢があらへんと意味ないやろ。ほんで、その弓と矢のしまわれているウッドベースケースを最後に手にしたのはうちやで」
――今頃、クピドのお父んとお母んは懸命になってうちを探しているに違いあらへん。
そう気づくとガブリエルはボグダンに礼を言って大急ぎで聖堂裏の小径に向かった。クピドが閉じ込められているとしたら、その近辺に違いなかった。
「透明化プロセスがオンになっている、近いな。クピド、クピド、何処に居る」
低い声でガブリエルは闇の中に声をかけた。声をかけつつ音をたてないようにそっと小径を下る。せせらぎの音が聞こえた。渓流の近くまで降りてきたらしい。
「クピド、クピド、何処に居る」
繰り返してみた。
「ガブリエルか。こっちだ。岩の上だ」
見上げると大きな岩の上に天の鳥籠に入れられたクピドが見えた。生い茂った低木の葉に隠れ、辺りに注意を払ってガブリエルは岩をよじ登った。
「なんやけったいな物に閉じ込められたな、クピド」
「いいから早くここから出してくれ。大天使なら何か方法を知っているだろう」
クピドは頭上を見た。プッティが飛んでいるとまずい。
「任してや、クピド。うちはね、天国の門を開ける黄金の鍵を持ってんねん。その鍵はKⅠNG OF KEYSやさかい、何でも開けられる。ほらね」
ガブリエルはそう言って首にかけていた黄金の鍵を手にすると簡単に鳥籠の錠を開けてしまった。途端に中からクピドが飛び出してきた。
「逃げよう。早くしないと、また、捕まる。今度はガブリエル、おまえもだ」
「弓と矢の置き場所を知っているさかいやなぁ」
「そうだ」
一目散に二人は駆けだし聖堂に続く小径を登った。
「あかんで、クピド。見てみいな、そこら中にプッティ達がおるで。おまけに自分のお父んやお母んも飛び回っている。これやったら、逃げだされへん。当面、どっかに隠れるほか方法があらへんで」
「何処に隠れる」
「こん中に隠れよ」
「聖堂の中にか。すぐにバレやしないか、ガブリエル」
「ええ考えがあるさかい」
ガブリエルはそっと聖堂の扉を押し開いた。そして、中に忍び込むとすぐそばの床にあったペンキの缶を手に取った。
「クピドも一缶持ってくれへん。結構な量を使う事になるさかいね」
ガブリエルは聖母の脇にある大天使の像を配置する予定の台座近くまでペンキの缶を運んだ。そして、そこにあったブルーシートを床に広げる。
「クピドはこれから大天使になる。ええな」
「もうなってるけど」
「いや、コスプレの事ちゃうて。大天使ミカエルの彫像になってもらうさかい。この白いペンキを全身に塗って……」
「な、なんだって。これ塗るの」
クピドは目を丸くした。
「白い彫像になって、この台座の上に立っとったら、誰もクピドやとは気づかへん。反対側にはうちも立つ。そないしたら、聖母様の両脇を大天使ミカエルとガブリエルが守護している形になる。ええか」
「他に隠れる方法がないなら、仕方ない。やるよ。で、どんな格好で立っていればいい」
「こう両手を合わして右膝をついて祈る格好でどないやろか。うちはその反対に左膝をついて祈る格好をするさかい」
「じゃ、早くやろう。どうやって塗る」
「頭から」
「頭から」
「あぁ、頭からかぶる」
「白いペンキを、か……」
「そうや。さぁ、早うせえへんと踏み込まれる」
「分かった。それもこれもあいつがよりにもよってオヤジ殿にベラベラと俺達の事を喋ったせいだ」
クピドは憤懣やるかたなしと言った風情で白いペンキを頭からかぶった。
「ええ感じ、クピド。色ついてへん所は刷毛で塗ったるで」
ガブリエルは全身、翼まで真白になったクピドを台座の上に立たせ、祈りの姿勢を取らせた。
「ええで、めっちゃええ」
眼を閉じたクピドの唇が少しだけ動いた。能書きはいいから早くガブリエルもペンキをかぶれ、と言っているようだった。
「オッケー、出来上がり。うちも祈りの姿勢をとったで」
ガブリエルのその声が消えるか消えないうちに聖堂の扉が開かれた。
「……聞いたかい。クピド様が天の鳥籠から逃げ出したそうだよ」
プッティ達がぞろぞろと入ってきた。
「どうやって。あの鳥籠は簡単には開かないわよ」
「どうもガブリエル様が天国の門を開ける黄金の鍵を使ったみたい」
「そうなのね。でも、ガブリエル様も何処に姿を消したのかしら。みんなで探したけど全然、見つからないんだから」
「ま、お二人とも狡賢いから……」
「そんな事を言って、クピド様に聞かれたら、後でひどい折檻をうけるわよ」
「……だよね。くわばら、くわばら」
「ここには隠れていないかしらね」
「聖堂だもの、隠れる場所はないだろ」
プッティ達は聖母の祀られた祭壇まで歩いてきた。
「うわっ、汚いの。このブルーシートの上のペンキ、まだ乾いていないよ。ベトベトじゃん」
「足でペンキを踏むと足跡が残るからダメよ。だって、誰もいないはずの聖堂に誰ががいた証拠になってしまうでしょ」
「そうだよね、気を付けないとね。おや、こっちの大天使の像は塗り立てだね。まだ、ペンキが生乾きだよ」
「そっちの大天使は膝から下の方はまだ白いままだけど、大体、できているみたいね。色も全部きれいに塗られて、まるで、生きているみたいだわ」
「そうだね。見栄えがいい。それに比べ、こっちの生乾き大天使の顔は不細工だね。まぁ、それでもクピド様よりはマシだけど」
――こいつ、おぼえとけ。
クピドは動くに動けないままプッティの減らず口を聞いていた。見開かれたガブリエルの眼が「我慢、我慢」と告げている。
そこにマルスとアフロディーテが姿を見せた。
「いたか」
「いいえ、マルス様、アフロディーテ様、見当たりません」
「何処に逃げた、あの二人」
「マルス、もう二人ともこの修道院にはいないかもしれないわ」
アフロディーテがマルスの手を握った。
「そうかもしれぬ。この場に留まるのは危険と考え、そうそうに逃げ出したか……。よし、手分けして近隣の道路や川沿いを徹底的に調べるぞ」
マルス達は急いで聖堂から出て行った。
「やれやれやな、クピド。もうしばらく、ここに隠れとった方がええみたいや」
「……て、言うか、ガブリエル、おまえはペンキを頭からかぶらなかったのか」
「……すまんね、クピド。うちはほんまもんの大天使やさかい、そのままでもええ思たんや。せやけど、少しは作りかけのイメージも出そうと考えて、膝から下にはペンキを塗った。どや、ええアイデアやろ」
「そうかぁ。頭からペンキをかぶった俺はなんだか騙されたような気分だけどな」
クピドはブツブツと文句を言った。
「ところで、ウッドベースケースは何処に隠したんだ、ガブリエル」
「あぁ、あれね。持ち歩くには重いやんか、あれ。せやし修道士達の食堂横に楽器置き場があったさかい、そこに放り込んどいたで。もう、夜やし、明日の朝までは安全やろ」
ガブリエルはそう言うとちらりと聖堂の入り口を見た。声がする。
「クピド、一難去って、また、一難や。今度は修道士達や。早う逃げよ。こんなうちらを見つけたら、彼等、びっくりするで」
「透明化プロセスがオンになっているから俺達の姿は見えないだろ」
「残念ながら、ペンキをかぶっている部分は透明化プロセスの対象外やで、クピド。そやさかい、自分は全身、うちは膝から下だけが見えてまう」
「分かった、早く逃げよう。……ちょっと待て。ペンキが乾いてうまく動けない。なんとかしてくれよ、ガブリエル」
「分かった。ええか、クピド、うちの背中にしっかりおぶさっとくんやで。修道士達が聖堂の扉を開けたら、一気に飛び出すさかい」
クピドは諦め顔で頷き、ガブリエルに背負われた。
「なんだか、変なご夫婦でしたね。挨拶もないままいなくなってしまいました。コスプレ二人組も何処にもいません。それにあのスクーターもなくなってしまっています」
若い修道士がボグダンに声をかけながら、聖堂の扉を開く。
「今や」
ガブリエルはクピドを背負い、突然巻き起こったつむじ風のような勢いで外に飛び出した。白い衝撃が若い修道士とボグダンを襲った。
「わっ、今のは何だ」
両腕で頭を守り、顔をそむけた修道士の服に白いペンキが飛び散った。ボグダンが夜空を見上げると僅かに白い翼が眼に入った。
「まさか、あれは天使か……」
ボグダンは飛び去った得体の知れない者の影を見ていた。
「本当に天使かもしれない。とすれば、この聖堂に天使が訪れていたんだ。奇跡だ、奇跡が起きた」
ボグダンは跪き、胸の前で十字架をきった。
疾風となった白い翼を持つ生き物はただひたすら上天を目指しているように思えた。
「何処に行くんだ、ガブリエル」
クピドはペンキの匂いに噎せている。
「とにかくペンキを落とそ。ほら、おっきなお風呂が下に見えるやろ」
ガブリエルは地上を指差した。クピドが顔を下に向けると大きなダム湖が覗けた。
「あれの事か」
「そうや、クピド。さぁ、突っ込むで。突入の勢いで乾きかけのペンキもあらかた剝がれ飛ぶやろ」
「本気かよ、ガブリエル」
「本気も本気、大本気」
そう宣言するとガブリエルは空高く舞い上がり、クピドをいきなり背中から突き落とした。
「えっ、俺一人突っ込むの。いやだ、助けてくれ」
悲鳴が落下するクピドから聞こえた。高高度から重力に搦めとられ、猛烈な勢いで真っ逆さまにダム湖の真ん中に突入する。
「 痛( い)ってぇ」
クピドの叫び声が暗い水面に散った。そして、大きな水しぶきがあがり、湖面に無数の白いペンキの破片が浮かび上がってきた。
「あぁ、もう、散々だ」
クピドの顔がぽっかりと波間に浮かび出た。
「せやけど、ペンキはめっちゃ落ちたみたい、クピド」
空中でムクドリのようにホバリングするガブリエルがクピドを覗き込んで言った。
「くそ、大変な目にあったぜ。桜田与志夫とかいうあの野郎、必ずひどい目に遭わせてやる」
背中の翼の動きを確かめながら岸辺に向かって泳ぐクピドは体にいまだにこびりついているペンキを呪いの言葉を吐きつつ剥ぎ取っていった。
「あぁ、疲れた。酒の酔いも完全に醒めたぜ、まったく」
クピドは岸辺の砂の上に座るとすぐにぐったりと横になった。ガブリエルは膝まで塗ったペンキを水に浸して削り取っている。
「これからどないするんや、クピド」
「決まっているさ。あの野郎、桜田与志夫君にちょっとした神罰を下すしかない」
「どないな」
ガブリエルはよいしょと立ち上がった。
「これを覚えているだろう。あの時に拾った写真だ。これを使ってだな……」
クピドの考えはこうだった。この写真に写っている女は桜田与志夫の恋人、岩野真理愛に間違いない。それなのにその大切な写真を破り捨てたという事は桜田与志夫とこの岩野真理愛との愛は確実に破綻している証だ。二人は今、お互いに幻滅している。それは悲劇そのものだ。だが、人間の世界には焼け木杭に火が付く、という信じられないくらい愚かしい事実もある。そうなっては全く面白くないし、この悲劇は永遠に決定的な別れとなってもらわなくてはならない。そこで、この写真をどこでもいい、桜田与志夫の眼につく所に置いておく。そして、桜田与志夫がこの写真を手に取り見入った時に、過たず黄金の矢を心臓に突き刺す。当然、桜田与志夫は岩野真理愛を再び愛してしまう。そして、愛の告白にいたるが、まさにその時、岩野真理愛の胸に鉛の矢を打ち込む。岩野真理愛は桜田与志夫を断然、忌み嫌う事になる。けれども、岩野真理愛を愛さずにはいられない桜田与志夫は彼女にしつこく付きまとうはめになる。しつこく付きまとわれた岩野真理愛は、桜田与志夫をストーカーとして警察に訴え出るだろう。
「こうして、彼の小男、桜田与志夫君はかわいそうな事になる。神罰だ」
「ちょっと、シリアスやな、クピド」
「それくらいはさせてもらうぜ。あれほど俺達の事は誰にも言うな、と念を押したのに、事もあろうにオヤジ殿に全部バラしたんだからな」
「ペラペラと、まぁ、ほんまによう話したもんやなぁ」
「そうさ。許し難い裏切りだ。きっと仕返しはさせてもらうぜ。……さてと、そうと決まれば、弓と矢を取りに行こう。今夜中に必ず決着をつけてやる」
月に吠えながらクピドはガブリエルを連れて修道院の方に飛んでいった。カリカリするクピドにガブリエルのクスクス笑いが止まらない。
背中に急に悪寒が走り、大きなくしゃみを二度した。
――誰かが悪口を言っている。
与志夫は駅前の飲み屋街をうろついていた。サウナに入り、二日酔いの酒を抜き、マッサージで気分をだらけさせたからには、ここらで一杯ひっかけるのが好都合というものだった。
――さて、どの店にするか。
午後八時をまわって土曜日の飲み屋街は賑わっていた。
――昨日は肉料理でこってり系だったから今夜は魚にするか。
一人で頷くと与志夫は大きな水槽を店の前に設えた料理屋の暖簾をくぐった。鯛平という名前の店で真理愛とも何度か来た事がある。与志夫の好きな鰹のタタキが旨い店だった。
――今夜も鰹でゆきますか。
与志夫は冷酒と鰹のタタキを先ず注文した。真理愛の事は、もう仕方がない、と諦めている。いくら好きでも、人生の解釈が食い違ってしまっていてはどうにもならない。
――真理愛にはこれから素晴らしい未来が待っている。それは疑いようがない。あの容姿に頭の良さだ。明眸皓歯、才色兼備のカリスマ。誰からも愛されて、誰からも引き立てられて、この世を生き延びるための苦しみに呻く事は決してない。自然に振る舞っていれば、彼女の夢や希望をみんなが勝手に応援してくれ、いつの間にかすんなりとかなえられている、そんな人生だ。
与志夫は社会の底辺を石にかじりつきながら這いまわって生きている自分との違いを痛いほど感じていた。
――どだい掲げている目標、人生の高みが違う。真理愛の生きる世界と自分の生きている世界は別な宇宙だ。
与志夫は分厚く切った鰹にたっぷりの玉葱、茗荷、大葉という薬味を乗せ、土佐酢をかけたうえにニンニクの薄切りをからませ口に運ぶ。そこにキレのいい飲み口の冷酒を含んだ。
――これでよし、これでいい。過去はもう戻らない。
そして、さらに大きく一口、がぶりと呷る。グラスの冷酒をきれいに飲み干した。けれども、その後には陶然とした酔い心地とは縁遠い、気味の悪い寒気が余韻として残った。誰かに見張られているような感じがする。
―まさか、ここには監視カメラもない。
与志夫のいる部屋は半個室ともいうべき場所で、店の上がり框で靴を脱ぎ、間接照明に照らされた仄かに暗い廊下を歩いたその奥にあった。部屋の入り口は茶室の躙口のように狭い空間で、その周りは全体が土の壁になって塞がれている。中に入ると廊下からの視線は完全に遮られてしまう。注文はタブレットで行い、料理や飲み物は入り口とは反対側にあるアクリル製の小窓裏に配膳用特急レーンで運ばれてくる。届くと案内音声がして、小窓の上にあるランプが赤く点滅した。客は自分で小窓の扉を開けて料理なり飲み物を取り出す仕組みだった。当然、部屋の中に入ってしまえば、誰とも顔を合わさない。
――ある意味、ラブホと同じだ。
だから、時には大胆な濡れ場に及ぶ酔ったカップルもいるらしい。
――真理愛とはそんなんじゃなかったが。
「クピド、いたで。彼やんな」
ガブリエルはクレエルヴォアイアンススコープ(透視スコープ)を頭からかぶったままクピドを呼んだ。この辺りに与志夫がいるらしい、と見当をつけたのはクピドだった。あのプシュケーの鱗粉の匂いを辿り、天空に住まう者にしか見えない赤い色を探してここまで追ってきた。
「どれどれ。……間違いないな、あいつだ」
クピドもクレエルヴォアイアンススコープを装着して覗き込む。二人は鯛平の店の屋根の上にいた。クピドの矢に障害物はない。どのような物でも貫通する。矢の動きを止めるのは射抜かれた人の心臓しかなかった。
「後はこの写真を置くチャンスを待つだけだな。あいつがトイレに立つ時が、その時だ」
「プッティ達に見つからへんこと祈るで、クピド」
「屋根の内側に移動したほうがいいか」
「気休めやけど、そのほうがええかもね」
二人は幻のように屋根裏に溶け込んでいった。眼下では与志夫が漫然と食事をしている。
「早く、トイレに立て」
クピドが毒づくと、与志夫が腰を上げた。
「帰るんちゃうよね」
ガブリエルは食べ残した料理と酒を見て言う。
「違うだろ。携帯電話も置いたままだ」
「……やな。今がチャンスみたいやで」
「よし、行くぞ」
クピドは透明化プロセスがオンになっている事を確かめて店の廊下に舞い降りた。すぐさま、与志夫の居た部屋に潜り込む。そして、テーブルの上に写真を置いた。
「待っていろよ。恋しい人が再び、だ」
クピドは写真に投げキスをすると急いで屋根裏まで舞い戻った。
「細工は流々、仕上げをご 覧( ろう)じろってんだ」
「かっこええ、クピド、江戸っ子みたいや」
ガブリエルははしゃぐ。
「おっ、戻ってきた。早く写真を見ろ。さっそく、この黄金の矢をおみまいしてやるぜ」
与志夫は躙口から部屋に入ると、よいしょ、という感じで座布団の上に座った。掘り炬燵形式になっているため足は充分に伸ばせる。
――なんだ、これは。
テーブルに置かれた写真に気づいた。拾い上げてみると、それは銭捨て劇場で破り捨てた写真だった。
――いったい、誰がこんないたずらを。
トイレに行く前にはこんなものはなかった。とすれば、居ない間に誰かが置いていたに違いない。では、いったい、誰が何の目的で……。与志夫は不思議に思いつつも飽かずに写真を見続けた。真理愛の屈託のない笑顔がそこにはあった。
――やっぱり、素敵だ、真理愛は。
心底、そう思った。
――真理愛を愛していたんだ。なのに、あんなにひどい事を言って……。
与志夫はふと真理愛への愛を打ち捨ててしまった自分を恥じた。そこにクピドの弓から放たれた黄金の矢が突き刺さる。それは与志夫の心臓を正確に射抜いた。
ドクン、と鼓動がする。真理愛の笑顔が突然、光で満たされ、唯一無二、愛さずにはいられない、かけがいのない女性として与志夫の胸に飛び込んできた。心の中、夢中で与志夫は真理愛を抱きしめる。激しい慕情が与志夫を突き動かした。
――真理愛、僕はどうにかしていた。本当にどうにかしていたんだ。朝、話したのは本当の気持ちじゃない。全部、間違いだ。傷つけた事は謝る、心の底から謝る。もう二度と約束は破らないし、真理愛と暮らせるならなんでもする。だから、僕を許してくれ。真理愛、行かないでくれ。今すぐに戻るから。
与志夫は携帯を鷲摑みにし個室を飛び出すと廊下を走り抜け、大急ぎで支払いを済ませた。そして、店の外に出るとマンション目指して猛然とダッシュした。
「決まったね、クピド」
「あぁ、完璧だ。後はあいつの後を追ってコータンマンションに行き、鉛の矢を射込むだけだ。うふふ」
「行って、真理愛はんが居らんかったら」
「二人が出会うまで待つさ」
「せやな」
クピドとガブリエルは与志夫との間に適当な距離をおいて後を追いかけていった。
「追跡装置に反応がありました、マルス様」
ゼウス天空の中央指令室に陣取っていたプッティがビブラティオシミタデバイセ(振動 追跡装置)の数値を確認した。この装置はクピドが矢を放つと、その時に現れる特有の波動を捉えて使われた場所を特定できる優れものだった。
「何処だ」
「あの図書館の近くです。追いつけます。南西方向。五分とかかりません」
マルスはアフロディーテを抱き寄せた。
「マルス様、矢からの波動が停止した位置とその後の移動の軌跡から考えて、どうもクピド様は一人の人間の後を追っているようです。スペシャリスコロルディスクリメンデバイセ(特殊色彩判別装置)によれば、その人間はプシュケー様の翅の鱗粉を帯びていて、クピド様一行はそれを追跡の目印にしておられる模様」
別なプッティが付け加えた。
「何を考えているのかしらんが、面倒な事にならぬうちにクピドを捕えなくては」
マルスはアフロディーテを抱きかかえたまま、最高速でクピドの後を追った。
「あの速さにはついて行けないって言ってあるのにねぇ……。南西に五分といっても、マルス様の飛翔速度ならば、という事で、あたい達となるとゆうに三十分以上かかるし」
「まぁ、仕方ないから、ゆっくり飛んでゆきましょ」
中央指令室のプッティは仲間を呼び集めると、後はマルスとアフロディーテに任せたとばかり、のんびりと夜空を漂い、天の鳥籠を担いだまま、ガヤガヤと天上界の噂話に興じつつ後を追った。
賑やかにプッティ達が南西に飛んで行くと次々と仲間が集まってくる。そのうちの一人が、「マルス様の言いつけで、天の鳥籠を二つ用意するように、との事だったよ」と告げた。
「二つも……。どうするんだろね」
「分からないけど、もう一つ持ってこなくちゃ」
プッティ達はそこで二手に分かれた。一組は天上界に戻り別な天の鳥籠を持ってくる。別なもう一組は今ある天の鳥籠を担いでマルス達の後を追う。
コータンマンションに帰り着いた与志夫は息つく間もなくエレベーターに飛び乗り、自分の部屋のある階に上った。心臓がバクバクと跳ね回り、息も絶え絶えだった。そして、部屋の前に立つ。二三六八号室のドアの錠はしっかりとロックされていた。
――だめか、やっぱり。真理愛は出て行った。
僅かな希望は打ち砕かれた。与志夫はよろよろとおぼつかない手つきで鍵を差し込み、ドアを開けた。真っ暗な廊下がリビングルームまで続いていた。灯りのない廊下に濃い静寂が充満している。与志夫はサンダルを脱ぐと手探りで廊下の電燈のスイッチを入れた。オレンジ色の灯りが点る。
物言わぬ廊下を歩けば、「何もかも終わってしまった」と痛いほど分かる。もう二度とあの日々には戻れない。今にして失くしたものの大きさに気付かされた。廊下とリビングルームを区切る木製のドアを開けると腰高窓の外に美しい夜景が続いていた。部屋はかろうじて物の形が分かるほどの明るさだった。立ち止まり部屋を見渡すと与志夫はキッチン手前の掃き出し窓が大きく開かれているのに気づいた。ベランダに置かれたハイビスカスの鉢植えが見える。戸外から吹き込む微風に誘われるようにして与志夫はベランダに出てみた。そこに真理愛がいた。去年買った小さな白い椅子とテーブル。真理愛はその椅子に腰かけ、じっと目の前に広がる夜を見ていた。
「真理愛、僕だ」
与志夫は震える声で呼びかけた。
「……与志夫。あぁ、帰って来たのね。ごめんなさい、出て行っていなくて。でも、どうしようもなかったの。実は鍵をなくしてしまったみたいで……」
真理愛は頬を拭った。涙がまた溢れ出てきたようだった。
「真理愛、済まない。今朝の事は謝る。行かないで欲しい。ずっとここにいて欲しい。真理愛がどれだけ大切な人なのか、この一日でよく分かった。お願いだ、真理愛」
与志夫は真理愛の前で跪いた。
「本当に一生懸命、鍵を探したのよ。でも、何処にもなくて。仕方がないので、与志夫が帰ってきたら、出て行こう、と決めて……、だから、ここにいたの」
真理愛は与志夫の謝罪の言葉を聞いているのかいないのか判別できない返事をした。瞳は彼方に見開かれている。
「合鍵をなくした部屋に住むのは怖いでしょう。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
真理愛はそう言って席を立とうとした。
「待ってくれ、真理愛。僕なら鍵を見つけられると思う。だって、真理愛の事を一番よく分かっているのは僕だから……。もし、見つける事ができたら、このまま、ここにいて欲しい」
「……そんな事をどうして。私、分からない、困るわ」
真理愛は立ち眩みがしたのか、ふらりとベランダのフェンスによりかかった。与志夫は慌てて真理愛を支える。
「じゃ、見つけたら、話だけでも聞いて欲しい。いいかい、真理愛」
必死の思いで与志夫は真理愛に告げた。真理愛はじっと与志夫の瞳を見詰め、こくんと頷いた。与志夫は真理愛を抱きかかえ、リビングルームへと戻る。そして、ソファの上に真理愛を横たえると自分は突っ立ったままその場で考えに沈んだ。
――何がなんでも見つける。それが運命の分かれ道だ。
与志夫は真理愛が鍵をいつも置く場所を想った。そこは玄関脇の靴箱の上に置かれた熊や鹿などの動物が描かれた小さな緑色の木製キーボックスの中だった。当然、真理愛も何度も探しているだろう。服のポケットもバッグの中も全部探したに違いない。それでも見つからない、という現実は、不測の動きを鍵自体が行った、という証明に他ならない。そして、その意表を突く行いをもたらしたものは、即ち、真理愛のいつもと違う動きに違いない。
――真理愛は何かに気を取られてたりすると、鍵をキーケースに入れず、靴箱の上に無造作に投げ置いてしまう事がある。昨日の夜も僕に約束をすっぽかされてカンカンになってこの部屋に戻ったはずだ。その時に鍵をポンと放り投げたら、どうなる。
しばらく、推理の流れに身を任せていた与志夫は玄関に行き、キーケースのあたりを注意深く観察した。
――例えば、鍵がこのキーケースに入らずに靴箱の上で跳ねたとしたら、それは何処に行く。下だ。下に落ちる。そこには僕の黒いスニーカーがある。……という事は、鍵はスニーカーの中に音もなく落ちて爪先の部分に吸い込まれた。
そう考えるのが妥当だった。与志夫はスニーカーを拾い上げ、ひっくり返してみた。すると思った通り真理愛の鍵が転がり出てきた。
――やった。やったぞ。これで真理愛は僕と一緒に暮らす。
「真理愛、真理愛。見つけた。見つけたよ」
与志夫は一目散に真理愛のもとに駆け戻った。真理愛はソファの上に起き上がって、渡された鍵をしげしげと見詰めた。
「……何処に」
真理愛は信じられない、という顔をしてみせる。
「僕のスニーカーの中さ。これで約束通り、僕の話を聞いてくれるだろ、真理愛」
与志夫は両膝をついて瞳を輝かさせる。
「ええ、与志夫」
真理愛の涙がまたこぼれた。
「真理愛、本当に心から謝る。真理愛の気持ちや体調の事を何とも思わず自分だけの都合で二人の生活をめちゃくちゃにしたのは僕だ。これからは絶対にそんな事はしない。真理愛との約束は必ず守る。それに真理愛がお酒の匂いに敏感になったのなら、それで嘔吐までするようなら、僕はお酒を止める。真理愛に食欲がないなら、僕がお粥やスープを作る。いや、僕も食べなくていい。掃除もしっかりとする。洗濯物もそう。食事の後片付けもする。だから、出て行かないでくれ、真理愛。愛している、真理愛」
与志夫は懇願した。真理愛は座ったまま腹部を守るように両腕を膝の上で交差させる。
返事をしなくてはいけない。これまでとこれからの全てを、今、決めなくてはならなかった。
「今だ」
コータンマンションの外に浮遊し、様子を窺っていたクピドは鉛の矢を弓につがえた。
――こいつを岩野真理愛に当てれば、それで桜田与志夫君、君の愛は破滅だ。すまないね、君。でも、それは君が自分で招いた運命。だから、諦めてもらうしかない。
クピドは苦く笑った。
「待て、クピド。その矢を一体、誰に射ようとしているのか」
突然、右肩をグイっと摑まれ、弓を下方に押し下げられた。
「オヤジ殿」
振り返ったクピドが慌てる。
「クピド、お前は、また、その弓矢で人の運命を惑わせようとしているな。彼の者にはお前の放った黄金の矢が突き刺さっている。さすれば、前に座る女性を愛さずにはいられないはず。が、そこに鉛の矢が彼の女性に突き刺されば、どうなる。愛さざるを得ない者と嫌わざるを得ない者との間に取り返しのつかない悲劇が訪れる。おまえはそうしたいのであろうが、そうはさせぬ。クピド、鉛の矢ではなく黄金の矢をつがえよ。そして、あの女性を射抜け。さすれば、全て丸く収まる。上手くゆけば、今夜のこの企みについては不問に付す」
クピドはしょげ返っていた。まずい所にオヤジ殿が現れたものだ、と思っている。マルスの隣に母親のアフロディーテがフワフワと舞っていた。
「さ、クピド、早く黄金の矢を射るのだ」
マルスはせかせた。
仕方なくクピドは黄金の矢を矢筒から抜き取り弓を構えようとした。
「いいえ、クピド、矢を放つ必要はないわ。あの娘は必ず目の前の若者の愛を受け入れるわ」
それまで黙って事の成り行きを見守っていたアフロディーテが自信たっぷりに言い放った。
「おや、どうして、そう言える。何か、そう信じるに足る確たるものがあるのか、アフロディーテ」
マルスが驚いてアフロディーテを振り返った。
「……これだから、殿方は困るの。女の気持ちと身体の事をちっとも分かってらっしゃらない。女が匂いに敏感になって、嘔吐を繰り返し、食欲もなく、食べづわりして、イライラが募れば、それは、もう決まっている。あの娘のお腹には新しい命が宿っているの」
アフロディーテは真理愛の気だるげな横顔を慰めるように眺めていた。
「それが証拠にあの娘は自分のお腹を無意識にかばっているわ。間違いない。必ず、愛を受け入れる。ほら、見てごらんなさいな」
真理愛は与志夫の両手を取り、自分の頬に当てて、その愛に応えた。そして、頷き、与志夫にキスをした。
「女は身も心も許した男との間にできた愛の結晶を壊す事は絶対にできない。生まれくる命を心から睦んだ男と一緒に育むの。それが女の愛」
アフロディーテは言い切った。
「さぁ、ガブリエル、あなたの出番よ。あの若者の許へ行って、受胎告知をしてあげなさい」
へなへなとそこらを旋回していたガブリエルにアフロディーテが命じた。
「えっ、受胎告知ですか。いや、あれは、どうも男性にした事例はあらへんはずですけど……」
ガブリエルがうろたえると、マルスが横から口を出した。
「ガブリエル、おことの主なる方から、何を命じてもよい、と許可されておるのだ。さ、早く行って、告知をして参れ」
「へぇ、分かりました。主の命とあったら、しかたおまへん……」
ガブリエルはパタパタと翼をはためかせ、マンションの窓から中に舞い入った。
「こんばんわ。また、お会いしましたなぁ。大天使ガブリエルです」
与志夫は絶句した。たった今、真理愛との生活をとりもどしたばかりだった。そこに昼間に出会った奇妙な奴が再び急に現れたのだ。与志夫は眼で真理愛を追った。キッチンでスープを温め始めていた。
「大丈夫です。真理愛はんにはうちの姿は見えまへんさかい……。あ、そうそう、名刺を渡してまへんでしたね。ほら、これがそうです。レオナルドが描いてくれたもので、一番のお気に入りです」
差し出された名刺には、あの受胎告知の場面が描かれている。
「レオナルドって、あのレオナルドか」
「ヴィンチ村出身のレオナルドです。お知り合いで」
「いや、そんなわけじゃないけれども」
「今夜、お伺いしたのも実はこれと同じ件でして、男性に受胎告知をするのは初めてやさかい少しぎこちないんですが……」
そう言いながら、ガブリエルは跪くと左手に白百合を持ち右手で与志夫に祝福を与えた。
「あなたの愛するご婦人は身籠られました。主の祝福をお伝えします。……ほな」
あっけにとられる与志夫を残してガブリエルはそそくさと飛び去ろうとした。
「真理愛が妊娠したって」
「まぁ、そのようで……」
「……そうか、そうだったのか。真理愛の大切な話って、この事だったんだ」
与志夫はハタと気づいた。
「ま、うちが来て受胎告知をしたからには、本来なら建築会社に勤めてはる貴兄は桜田与志夫ならぬ大工の聖ヨセフ、岩野真理愛はんは岩窟の聖母マリア、生まれ来るややこはイエス、となるところですけど、二人のイエスちゅうのも大変やさかい、おそらく、普通のややこやろうと思います。地理的には、馬子市飼葉町一丁目一番地は聖なる馬小屋そのもので最高の場所です。コータン(降誕)マンションも持ってこいのお名前ですな。おまけに二三六八号室ちゅう番号もイエスにぴったりの聖数ですけど……。実際、もしも真理愛はんからイエスが生まれて、 桜 田(サグラダ)のご 家 族(ファミリア)が聖別されると聖(サグラダ) 家 族(ファミリア)が二軒もある事になって、うちらめっちゃ困るさかい、そんなんおまへんやろと信じとります。なんやかやとお騒がせしてすんまへんでした。ほな、お幸せに」
ガブリエルは右手をニギニギして別れを告げるとベランダからサッと飛び立っていった。
「あんなんでよろしゅおますやろか。彼には一生涯、真理愛はんのお尻にしかれてまう事は話さんでおきましたが……」
戻ってきたガブリエルはアフロディーテに心配そうに尋ねる。
「ま、後は何とかなるわ。有難う、ガブリエル」
「せやけど、真理愛はん、出てゆかんでほんまによかったでんなぁ。部屋の鍵を何処にやったか分からんようになって、かえってよかったんとちゃいますか」
やれやれといった風情でガブリエルは話を継いだ。
「あれは演技だったに違いないわ」
思いもしないアフロディーテの言葉だった。
「どないな意味です」
ガブリエルはきょとんとする。
「鍵を無くしたのは実は演技で、本当は出て行きたくなかった。いえ、出て行くつもりはなかった。あの若者が必ず自分のもとに帰ってくると信じていたのよ」
アフロディーテはそう言うと実にゆったりと微笑んだ。
「なるほどな、さもあらん」
マルスが目を丸くした。
「さすがに女の愛は深い。よいものだ。アフロディーテ、我らも今より大いに愛を深め、情を交そうではないか」
「あら、マルス、嬉しいわ」
アフロディーテの色よい返事にマルスの股間の物がムキムキと立ち上がり始めた。
「おぉ、忘れる所だった。クピドはもうあの天の鳥籠の中に入ってもらった。テオキダク帝国の皇后パエスティーナとアスー合衆国のトカイ大統領に鉛の矢を射込んでもらわねばいかぬからの。それまでに、また、逃げられては困る」
ガブリエルは気の毒そうに天の鳥籠の中で喚くクピドを見遣った。
「あれっ、天の鳥籠がもう一つありますやん。あれは」
「あれはガブリエル、おことのものだ。さぁ、入ったり、入ったり」
「えぇ、うちがですか」
「あぁ、おことの主なる方が話されたのだ、是非、おことを一緒に連れ帰って欲しい、と。なんでも、休暇中のおことの生活が気ままに過ぎたというお考えで、天国の軍隊の営倉にしばらく入れて置きたい、との仰せじゃ。特に天国の門を開ける黄金の鍵を無断使用した職権乱用の咎は重い、との事じゃった」
ガブリエルは思わず逃げ出そうとしたが、マルスが機先を制した。
「逃げる事はない、すぐに仲間が増える。寂しくはないぞ、営倉の中でも」
「どないなるちゅうんで」
うろたえるガブリエルは黄金の鍵を取り上げられたうえに大勢のプッティに囲まれ無理やりに天の鳥籠に押し込められた。
「皇后パエスティーナとトカイ大統領に鉛の矢を射込んだら、クピドもしばらく天国の軍隊の営倉に送ろうと思うゆえにな」
「えぇ、そんなぁ」
今度はクピドが叫ぶ番だった。
「静かにしておれ。今宵は実に愉快。心地よい。アフロディーテ、では参ろう。我らが愛の館で思う存分、戯れようぞ」
「あぁ、愛するマルス、とても嬉しいわ。でも、私のお腹の赤ちゃんには気を付けて。愛の営みは優しくお願い」
アフロディーテは眼を細め、うっとりとして続けた。
「私はあの娘を祝福するわ、マルス」
「何たる吉報。余は汝もあの娘も共に祝福いたすぞ、アフロディーテ」
「うちも祝福します。クピドはどない」
ガブリエルは天の鳥籠に押し込められすぐ後ろに続くクピドに尋ねた。
「母上も岩野真理愛も祝福するから、ここから出してくれ」
月の光が空飛ぶマルスに抱きかかえられたアフロディーテ、クピドとガブリエルが入れられた二つの天の鳥籠を運ぶ大勢のプッティ達の姿を雲間に輝かせた。
仰ぎ見るコータンマンション、二三六八号室のベランダでは真理愛の腹部に与志夫がキスをしていた。
「結婚しよう、真理愛」
神々に祝福された美しい真理愛は与志夫を思いきり抱きしめ、永遠の愛を誓った。生まれてくる子供の名前はイスース・メシアスと決めている。
了
(注)イスース・メシアスとは救済者イエスの事。イスースはウクライナ語でイエスを表す。メシアスはギリシャ語で救済者を意味する。
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