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『嫌われた』と思ったとき
最近、スマホを触りすぎて脳疲労がすごかった。何か体はだるいし、朝起きあがるのも大変だった。
そこで動画を見ながら料理したり風呂に入ったりするのを減らして、作業に集中したり、ぼーっとする時間を増やした。
もちろん何とも言えない”頭がパンパンで苦しい”状態からは抜けたが、思わぬ副産物を手に入れることになる。それは、今現在のことに対して余裕をもって考察することができるということだ。
頭パンパンな状態というのは、頭の中が情報でごった返しているし、基本的に疲れが溜まっている状態だ。それが落ち着いてくると自分が今何を感じて、何が問題で、どうしたら解決するのかというのを考えられることができるようになった。
今日頭の中に浮かんでいたことがあった。それは、とある方に『嫌われている』のではないかということをずっと気にしていたのだ。その方の言動で、『自分を嫌っている』と考えてそこから話をいろいろと膨らましては苦しんでいた。
まず、『私を本当に嫌っているのか?』ということを冷静に考えてみたり、嫌われているポイント、そうではないポイントをいろいろ考察して、『いや嫌われていないんじゃないか?』と思うと『やっぱり嫌われている』と思ったり。
正直に疲れてしまった。
しかし考えは止まらず、『どうせその程度のひとなんだわ』と相手をさげすんだり、『こんなことを考えている時間がもったいないわ』と考え直したり。これらのことはすべて何の解決にはならず、苦しみの渦の中にとどまるような考え方だったように思う。
そこであることが閃いた。そもそも『嫌い』か『好き』かを判断しようとする、つまり決めつけることは何の意味も持たないのではないかなとふと思ったのである。
私だって日々生きていて、人や物事に対して『嫌な感じ』『良い感じ』『どっちでもない感じ』をころころと目まぐるしく変えながら感じている。同じ人に対しても、『あの言い方嫌だったな』とか『意外とかっこいいこと言うじゃん』とか『なんかときめく』『優しさを感じる』『冷たい』などいろいろと変化しながら感じているのである。
それを『嫌い!』とか『好き!』とか真っ二つにすることなどできるのであろうか?
もしかしたら次あった時変わっているかもしれないし、思い違いかもしれないし、被害妄想だったりするかもしれない。でも本当に『嫌い』と思われていた瞬間だってあるかもしれない。
そう考えるとパターンなんて無限だし、考えているだけ疲れてくるじゃんと思えた。
さらに言うと自分が相手のことを『好き』とか『嫌い』とかを決めたがっている自分にも気づいた。どっちかに決めたがるのだ。
こういう風に決めたがっているときは、ずっと答えが見つからずシーソーのようにあっちに行ったりこっちに行ったりして、ほとほと疲れてくる。
こうしたときは決めないということを決めればいいのだと思う。判断しない、曖昧にしておく。もともと『良い悪い』なんて人間が考えたものだし、そこらへんに転がっている石ころに対して『良いか悪いか』なんて考える意味はない。
だから曖昧にしておくことが大切だと思う。
最近、フランス人の考え方を知る機会があった。フランスと言えば哲学の国でもあって、何に対しても自分の意見を持っているというイメージが強かった。けれども、考えても分からないことは曖昧にしておくということを教育されているそうだ。
私たち(少なくとも私)は、決めないでおく練習、曖昧にしておく練習が必要なのかもしれない。
いつまでも同じことに対してグルグルと悩んで時間を費やすのはまっぴらである。だからこそ、曖昧にしておいて『今を楽しんで過ごす』というのがいいのかもしれない。
私はそうしたい。
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