見出し画像

鉄道が世界を変えた① 時間の概念

鉄道が世界を決定的に変え、人々の生活に不可逆的な影響を及ぼしたことがいくつかある。
そのひとつは、時間の概念だ。

【江戸時代までの人々の生活】

 鉄道が導入される前、江戸時代までの日本人はどんな生活を送っていたのだろうか。

人々の日常には、時計がなかった。
腕時計も壁時計も置時計も、スマホももちろんなかった。
とは言え、毎日正確に動き、常に信頼できる運行をしているものがあり、それを基準にして生活にリズムをつけることができた。
太陽である。

太陽が東から上る時、そして西へ沈む時、みんながそれを見ることで時刻を共有できた。
そして太陽が南の一番高いところに来た時、太陽をまっすぐに見るその方向が真南で、それが昼間のちょうど真ん中の時間になる。
これはどんな時代にも、どこにいても当てはまる、絶対に間違いのない基準だ。

昔の日本人は太陽の動きを基準にして、昼間を6つの時間帯に分けていた。だいたい2時間を1つの時間帯として生活していたのである。
夜も同様に6つの時間帯に分け、1日を合計で12の時間帯に分けていた。
そして子の刻、丑の刻、寅の刻という具合に、時間帯ごとに名前を付けていた。
十二支という。

このうち、真昼に来るのが午(うま)の刻で、その中でも真ん中の時刻を正午といった。
午より前が午前、午より後が午後、となった。

その頃、時計を見ながら生活する人はほとんどいなかったとは言え、それほど生活に支障はなかった。
時計は、自分も持っていないし、相手も持っていなかった。
約束をしても、現代のように何時何分という正確なものではなかった。
もし相手が先に来ていれば、「待たせたな」と言えば済んだ。
時間が正確でないのは、お互い様だから大きな問題ではなかった。
現代の感覚から言えばかなりアバウトだ。

 しかし、そんなアバウトな時間感覚で鉄道を運行すれば、大変なことになる。
鉄道は時間をもっと細かく分け、かつ正確でないと混乱し、時には命にかかわるからだ。

【日時計の抱える問題点】

 鉄道の話に入る前に、日時計の性質について理解しておきたい。

太陽の運行は常に正確で絶対的に信頼できるものであるゆえに、昔から人々は基本的に日時計を使ってきた。
だが、日時計は万能ではない。

まず、曇りや雨の日は全く役に立たない。
これは日時計が抱える致命的な欠点である。

二つ目に、日の長さは季節によって異なる。
基本的に日照時間は夏が長く、冬が短くなる。
したがって各時間帯の長さも、それによって変わることになる。

三つ目に、地方によって正午の時間が微妙に異なる。
太陽が真南に来るのが正午で、それはどこにおいても変わらないのだが、例えば東京、大阪、福岡で、その時間は微妙に違ってくる。

東京で太陽が真南に来るとき、大阪ではまだ太陽は真南に来ておらず、少し東にある。
逆に福岡で太陽が真南の時、東京や大阪では太陽はもう真南を過ぎていて、少し西にある、という具合になる。

東京と福岡では、正午の時間は厳密には約30分の差がある。
日本の最東端と最西端では、時差は2時間近くにもなる。
国内において、社会的な意味で時差はないのだが、物理的な意味では確かにある。
物理的な意味では、たとえ1km離れていたとしても、時差は必ず生じることになる。

【イギリスで鉄道が開通する】

1日を真夜中から始まる24時間とする考え方は、ローマ人が採用したものと思われる。
13世紀に分と秒が作られ、現在と同じ12時間表記の時計が広く使われるようになった。

ヨーロッパではかなり早くから、24時間制に慣れ親しみ、分単位、あるいは秒単位で時間を分けることも、必要に応じて行われていた。
これは鉄道を運行する面で大変役立つ要素である。
しかし、高速移動する鉄道にとって、あることが問題となった。

イギリスは比較的小さな国だが、地方地方で時間がばらばらで、今では信じられないことだが、国内で時間が統一されていなかった。
それが当たり前だった。

例えばロンドンとブリストルでは10分の時差があった。
鉄道はその二つの都市を結ぶのである。
両都市で時間が違ったままだと、安全に運行することができなかった。

それで、ロンドンの時間を標準として国内で統一することにした。
標準時という概念がこの時生まれた。

しかし、これには地方からの反発があった。
「なぜロンドンの時間に自分たちが合わせなければいけないのか?」
「我が町では太陽は真南でないのに、ロンドンが真南だからと言ってなぜそれに合わせないといけないのか?」
そのようなことを、彼らは血相を変えて訴えた。

まあそれでも、人命にかかわることだから鉄道に関しては標準時を認めよう、ということになった。
ただし多くの場合、それ以外は地方の時間のままでいくぞ、という風になった。

ブリストルやオックスフォードでは、鉄道はロンドンの標準時間を導入したものの、町の公衆時計は地方時間のままだった。
イギリスの古い駅には、分針が2つ付いている時計が今でも残っていたりする。
(写真はブリストルの時計。2つの分針がついている)

イギリスと同じくらい古くから鉄道を導入したアメリカでも、標準時間の問題が持ち上がった。
アメリカはさすがに国土が広いから、標準時を1つだけにするのは不都合があり過ぎたが、それでも50の異なる時間を、せめて4つないし5つの標準時間にまとめようという提案がなされた。 

それに対しても抵抗や反発があり、連邦政府の法律ができるまで、最後まで反対表明を続けた町や都市も多かった。
インディアナポリスでは、人々が「鉄道時間によって食事し、睡眠し、労働し、結婚する」ことを余儀なくされる、として抗議する記事が新聞に掲載された。
鉄道時間が日常を蝕み、支配していくことへの戸惑いと反発である。

それでも徐々に、標準時というものが理解され、人々の生活に根付いていった。

 【日本で鉄道が開通する】

明治5年10月14日。
新橋―横浜間において日本で初めて鉄道が開通した。
それは西洋文明が日本に入ってきたことの象徴だった。

最初の内、鉄道の建設指導も機関士も運転士も、みんなイギリス人が行っていた。
彼らは懐中時計を身に着け、それを見ながら運行をしていた。
日本人は目を丸くしてその様子を見ていた。
これが鉄道か! 
そして、あの懐中時計ってなに?
鉄道と時計は、セットで日本に入って来たのである。

鉄道の開通とほぼ同時期に、日本は西洋と同じグレゴリオ暦を採用する。
明治5年は12月2日で終わり、その次の日は、明治6年1月1日となった。
この日から太陰暦が廃され、現在と同じ太陽暦のカレンダーで日が数え始められた。

そして同時に時刻制度が取り入れられ、さらに標準時も導入された。
アバウトな十二支から、午前と午後の12時間制に移行したのである。
これは鉄道にとって大事なことだったが、人々にとっては大きな生活の変化となった。
12に分けるだいたいの時間感覚から、今は何時何分何秒だということが急に言われるようになったのである。

また日本中どこにいても、時間は同じだ、ということになった。
東京でも大阪でも、北海道でも鹿児島でも、日本国内であればどこでも時間は同じであり、1種類しかないことになった。
これらの改革は急に生じたので、なかなかすぐに生活に浸透せず、社会の至る所で混乱が見られたと思われる。

その頃、輸入品で売れ行きの良かったのが時計だった。
横浜で海外製の置時計や懐中時計を仕入れ、東京で売ろうと思っていた貿易商人が、東京に行くまでの間に方々で呼び止められて、全部売り切れた、というような話があった。
しかしそれらはまだ高価だったので、庶民には手が出ない代物だった。

江戸時代には寺が鐘を鳴らしてくれていたが、明治時代の庶民がどうやって時刻を知ったかというと、官公庁か駅の建物に設置してある時計を見ることで知った。
今でも古い駅舎には必ず真ん中の目立つところに時計がある。
駅舎の中に、八角時計が置いてあったりもする。
それらは、時刻を人々に知らせる役割があった時代の名残なのだ。

【日本人が時間に正確になる】

日本人は鉄道とグレゴリオ暦と時刻制と標準時を一気に取り入れたので、最初は戸惑いがあり、慣れるのに時間がかかった。
現在、日本の鉄道の秒単位での定時走行は世界的に評価されているが、実は最初からそうではなかった。

明治の終わり頃まで、30分や1時間の遅れは普通だった。
最大の私鉄だった日本鉄道は、1時間以上遅れた場合に遅刻と扱われる、という就業規則があった。
つまり1時間までは遅刻ではなかった。
乗務員がそんな状態なので、列車の運行も今の感覚で言えばルーズであった。
まあ、まだ社会全体がルーズだったのだろう。

それでも、時間を厳守する点で、鉄道員は社会の中で率先しなければならない、という使命のようなものがあったと思われる。

1906年の鉄道国有化法で全国の鉄道がネットワークで結ばれたこと、また東京-大阪間を特急が走るようになったことで、時間厳守、定時走行は磨かれ、定着していった。

鉄道員は、各自に支給された懐中時計を持つことを名誉に感じていた。
まだ国民が自分用の時計を持つことが、ほとんどできていなかった時代だ。鉄道員たちは、仕事を始める前に、自分の懐中時計を取り出し、時計合わせをすることが、何よりも誇りであった。

現代社会を生きる上で、時刻を気にすることなく生活することはできない。それで自然の成り行きとして、腕時計が広く人々に行き渡るようになった。人々は鉄道マンに少し遅れて、自分の時計を持ち歩くようになったのである。

しかし昔の腕時計は精度が低く、1日で1分や2分狂うことはざらだった。
今から50年前、サザエさんで描かれている時代、お父さんは会社に出勤する前に、テレビやラジオの時報を聞くか、117にダイヤルするか、駅の時計を見るかして、まるで毎日の儀式のように腕時計の時間を合わせていた。
駅の時計は、命を預かる業種であるゆえに、117と同じくらい信頼の置けるものだった。

今でもそうである。
駅の時計は親子時計というシステムが採用されているので、駅構内のすべての時計が同じ時刻を指すようになっている。
ただし、親子時計には絶え間ないメンテナンスが必要で、スマホで正確な時間を知ることができるようになった昨今、撤去される傾向にある。
少し寂しい話である。

【世界標準時が導入される】

国内の時間を標準化することに加え、世界の時間を標準化することについても、鉄道が関係していた。

先に述べたように、アメリカでも鉄道網の発達に伴い、標準時を導入する必要が生じたが、国土が広いゆえに、標準時をひとつだけに集約するの無理であった。
それでアメリカの鉄道会社は1883年に全国時間会議を開いた。
その結果、4つの時間帯が採用された。
各時間帯の中にある町や都市はすべて同じ時刻に合わせることとした。

この際の時間差は、子午線(経度)に基づいて定めた。
各時間帯の幅は、経度で15度、時間にして1時間となる。
そしてこの考え方を、世界中でもあてはめることになった。

翌1884年(明治17年)、国際子午線会議がワシントンD.C.で開かれた。
そこで、イギリスのロンドン郊外にあるグリニッジ天文台を通る子午線を、経度0度とすることが決められた。

つまりロンドン時間が基準となり、各国の時間はその時差で表されることになった。
それはプラスで最大12時間、マイナスで最大12時間であり、世界は24通りの時間に集約されることになった。

米国で開かれた会議にもかかわらずロンドンが基準になったのは、鉄道の生みの親であり、いち早く標準時を取り入れた英国に対する敬意があったものと思われる。

日本は明治の初めの頃、東京を通る子午線をもとに標準時を定めていたが、この会議の決定を受け入れて、明治19年、明石などを通る東経135度を日本の標準時子午線と定めた。

こうして見てくると、19世紀に英国で登場した鉄道は、世界を確かに変えた。

現代人は、何時何分何秒という時刻制度、標準時、世界には24通りの時間しかないことを当たり前のように考えているが、それらが社会に定着するきっかけとなったのは、何と言っても鉄道なのだ。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?