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家康によって日本はスペインからオランダにうまく乗り換えた

1492年 コロンブスが西インド諸島に到達
 
それ以来、新たに発見された大陸を植民地にしようと、スペインとポルトガルの船がどんどんと進出していった。
 
スペインのイサベル女王は、両国の争いが無秩序に激化することを恐れ、ローマ教皇アレクサンデル6世に仲裁を求めた。
そして、一つの条約が結ばれることになる。
 
1494年 トルデシリャス条約
 
ベルデ岬諸島の西370レグアの位置に南北の線(西経46度)を引き、そこから東がポルトガル、西がスペインに属することが決められた。
この条約により、南米大陸においてブラジルだけがポルトガルのものとなった。
 
スペインはマゼランの世界一周以来、アメリカ大陸に飽き足らず、アメリカ大陸を超えてさらに西へ西へと進出するようになった。
太平洋上のハワイもグアムも、最初はスペイン領だった。
スペインの西回りでのアジア進出は、ついにはフィリピンを領有するまでに至る。
その名前は、スペイン国王フェリペ2世に由来する。
 
一方ポルトガルは、アジアには早くから東回りで進出しており、最終的にマカオまで来ていた。
(このマカオがポルトガルから中国に返還されたのは、つい最近の1999年である)
 
東回りのポルトガルと西回りのスペインの利害は、香辛料の産地であるモルッカ諸島をめぐり、地球の裏側で(彼らから見てだが)結局は衝突することになる。
それでもう一つの条約が結ばれた。
 
1529年 サラゴサ条約
 
締結当事者は、ポルトガル側がジョアン3世、スペイン側がカール5世である。
この条約で、東経144度より西がポルトガル、東がスペインと定められた。
 
この東経144度を北へ上っていくと、北海道の釧路付近を通過する。
日本はポルトガルとスペインとの間で、知らぬ間に分割されていたのだ。
 
そしてこの条約に基づき、ポルトガルが自国の勢力圏との認識で、鹿児島にやって来たのである。
 
1543年 鉄砲伝来
1549年 ザビエルによるキリスト教伝来
 
鉄砲はポルトガル人が種子島に最初に持ち込んだ。
キリスト教を伝えたザビエル自身はスペイン人だが、ポルトガル王の要請を受けてアジアへ来ていたカトリックの宣教師だった。
 
スペインとポルトガルがアジアに進出していた動機は、交易による富の増大があるが、もう一つ、キリスト教の布教があった。
 
1517年にルターが「95か条の論題」をヴィッテンベルクの教会の扉に張り付けて以来、ヨーロッパでは宗教改革運動が隆盛を極めた。
大航海時代と宗教改革は、ほぼ同時に生まれ、進行していた。
 
プロテスタントに対抗して、カトリック側は世界への布教に力を注いだ。
ザビエルが日本に来たのもその一環だった。
 
やがてスペイン・ポルトガルの争いは、1580年にフェリペ2世がポルトガル王を兼ねて同君連合となることで消滅した。
これは上記の2つの条約により調整されていた利害関係が、無意味になることを意味した。
つまりスペインは、ポルトガルの海外領土を得て、極端に言えば地球のすべてを手に入れたのだった。
前代未聞の繁栄を見せるようになったスペインは、「太陽の沈まぬ国」の絶頂期を迎えた。
 
織田信長が生きた時代に日本に来ていたのは、この頃のスペイン人だった。
彼らは南蛮人と呼ばれ、キリスト教と共に珠玉の品々を日本にもたらした。
パン、カステラ、キャラメル、ボタン、カルタ、タバコなどの言葉が、この頃の日本に伝わり、定着した。
信長は彼らにインスパイアされ、マントや襞襟、山高帽を身に着けたりした。
安土城に天守を築いたのも、南蛮人の影響と言われる。
 
信長と、それに続く豊臣秀吉の頃、日本はヨーロッパの最先端技術の象徴である鉄砲を大々的に取り入れたが、日本を挙げてキリスト教国になるというようなことはなかった。
16世紀版の「和魂洋才」であったとも言えるし、当時の大帝国スペインとは是々非々で程よい距離を保って付き合ったとも言える。
 
ただし、この時期のスペインは安泰ではなかった。
ポルトガルとの併合は同じカトリック国同士の併合であったが、新たに勃興してきたイギリスやオランダは、プロテスタント国家だった。
スペインとイギリスは、政治的かつ宗教的に激しく対立するようになる。
 
1588年 アルマダの海戦
 
スペインは航海術に優れ、「無敵艦隊」の名をほしいままにしていたが、一連のアルマダ海戦によってイギリス艦隊に敗れた。
 
この海戦は、スペインVS(イギリス+オランダ)の戦いだった。
オランダはもともとスペイン領だったが、カトリックの強制に反発して独立を決意した。
同じ新教国のよしみで、イギリスがこれを支援したことで戦いが生じた。
 
アルマダの敗北をきっかけにスペインの凋落が始まるのだが、イギリスがすぐに世界の覇者になったわけではなかった。
 
一方日本においては、1598年に秀吉が死に、1600年10月の関ケ原で徳川家康の権力が固まるまでの短い期間、幼君豊臣秀頼をいただいた五大老による政治が行われていた。
 
そしてヨーロッパにおいても、日本においても、不安定で時代の変わり目であったこの時期に、一隻の珍妙な船が、今の大分県に漂着するのである。
 
1600年4月 リーフデ号の漂着
 
それは無人船か幽霊船に見えたという。
この船は、オランダのロッテルダムから出港して西へ向かい、マゼラン海峡を通過して太平洋に入り、アジア極東を目指していた。
当初110人いた乗組員は、豊後に漂着した時、悪天候や食糧不足、インディオの襲撃、病気の蔓延などで24名にまで減っていた。
立つことができたのは6人のみだった。
 
この中に、イギリス人ウイリアム・アダムスと、オランダ人ヤン・ヨーステンがいた。
 
アダムスはロンドン出身の航海士であり、アルマダ海戦にも参加している。
結婚し、娘と息子をもうけたが、仕事で忙しく、家に帰ることは少なかった。
仕事で親しくなったオランダ人から、西回りでアジア極東を目指す船団の話を聞きつけたアダムスは、志願して乗り込んだ。
それは新大陸や太平洋に強力な拠点を持つスペインの妨害をかいくぐっての、命がけの航海だった。しかし成功すれば巨万の富を手に入れる見込みがあった。
 
ヨーステンの若いころはほとんど知られていないが、オランダの都市デルフトの有力者の家で育ったようだ。
 
リーフデ号が漂着したという知らせは、当時政治の中心だった大阪城にもたらされ、五大老筆頭の徳川家康がこの対応にあたることになった。
家康は船を回航させ、大阪で彼らと引見し、通訳としてイエズス会の宣教師を使った。
 
しかしカトリックの宣教師たちは、プロテスタントの国から来た彼らの言うことを、まともに通訳しなかった。
それどころか、彼らは海賊だから即刻処刑するよう、家康に執拗に要求した。
 
アダムスやヨーステンらは、不利な状況の下で自分たちはスペインやポルトガルとは違う国から来たこと、布教ではなく貿易が目的であることなどを懸命に話した。
 
家康はイエズス会の主張を退け、彼らが海賊ではないことを認め、拘束を解いた。
そしてアダムス、ヨーステンの両名を通訳、また外交顧問として手元に置くことにした。
 
この辺り、さすがは家康である。
ヨーロッパの国々で内部対立があることを正確に見抜き、それだけでなくその複雑な事情を利用して外交で有利に運ぼうと考えた。
 
アダムスやヨーステンらは、船を造ったり、東南アジア方面での貿易を手助けするなどして、家康の期待に応えた。
そしてキリスト教の布教は決して行おうとしなかった。
 
家康はアダムスを旗本に取り立て、相模国に領地を与えた。
これにより彼は三浦半島にちなみ、三浦按針(あんじん)を名乗るようになる。按針とは、水先案内人のことだ。
家康は彼を通してイギリス本国とやり取りをし、貿易の許可も出した。
 
アダムスは帰国を許されたが、来航したイギリス船の船長から、日本に偏り過ぎているとして批判されたことに反発し、その船には乗り込まず日本に残る道を選んだ。
そして日本人の女性と結婚して、息子ジョゼフと娘スザンナをもうけた。(イギリスに妻子がいるので重婚である)
 
ヨーステンも家康に気に入られ、江戸城近くに屋敷を与えられた。
その屋敷周辺はその後、ヨーステンの名から「八代洲(やよす)河岸」と言われるようになり、現在の八重洲(やえす)の由来となった。
 
家康の死後、両名は不遇となった。
2代将軍秀忠には、彼らを使いこなす才覚などなかったのだろう。
 
アダムスは平戸のイギリス商館で鬱々としたまま、ひっそりと死んだ。
ヨーステンは帰国しようとしてバタヴィアまでわたったが、結局あきらめて日本へ戻る途中、インドシナで船が座礁し、溺死した。
 
幕府は最初の頃、平戸や長崎におけるイギリスやオランダの貿易活動を容認していた。
それは、彼らがキリスト教の布教をしないと約束しただけでなく、スペインやポルトガルがアジアでしてきたこと、布教に名を借りて軍隊を送り侵略し、植民地にしてきたという情報を知らせたことで、信頼を得たからだった。
スペイン・ポルトガルの南蛮人に対し、イギリス・オランダは紅毛人と呼ばれ区別された。
 
1637年の島原の乱においては、幕府から依頼を受けたオランダ船が、海上から原城を砲撃。
ヨーロッパから助けが来ることを信じて戦っていたキリシタンたちの戦意を、大きくなえさせた。
このことを評価した幕府は、鎖国を完成させるものの、長崎の出島において、オランダにだけは交易を許したのである。
 
17世紀のオランダは、政治、経済、科学技術、軍事、建築、芸術において最も称賛された時期で、オランダ黄金時代と呼ばれている。
特にアムステルダムは、商業と金融の中心地として栄えた。
ヨーロッパ全土の中で最も豊かで、科学的に進んだ国だった。
 
徳川幕府がヨーロッパで唯一交易をしていたオランダとは、そういう国だった。
幕府は船の来着の度に、オランダ風説書をまとめていたが、それは欧州の最先進国からの貴重な情報であった。
ターヘル・アナトミア(解体新書)などは、当時の最先端の医学であった。
 
しかしそれは江戸時代初めの頃で、260年も続く長いその時代の間、さすがにヨーロッパの情勢は変遷していた。
 
欧州の次の主役はフランスだった。
宮廷の華やかなロココ文化、その後の革命騒ぎ、ナポレオンの登場など、現在でも世界史と言えばフランスのこの時代をイメージさせるほどである。
 
イギリスはしばらく手をこまねいていたが、18世紀後半からの産業革命で一気に台頭し、植民地を世界中に広げ、「太陽の沈まぬ」帝国となった。
そしていつの間にか、アメリカという若くて威勢のいい国ができており、急激に成長していた。
 
このような世界の情勢は、オランダを通して幕閣の一部は知っていたが、庶民にはまったく知らされていないことだった。
鎖国で閉じこもっていた日本人たちは、1853年にペリーの黒船艦隊が突然現れた時、度肝を抜かれてパニックに陥ったのだった。
 
多少乱暴にまとめると、16世紀はスペインの世紀、17世紀はオランダの世紀、18世紀はフランスの世紀だった。
そしてこの3国を抑えて、最後にイギリスが登場し、19世紀の主役となった。
20世紀はアメリカが台頭し、21世紀に入っても引き続き世界のヘゲモニーを握っている。
 
このように見てくると、日本は信長、秀吉の頃はスペインといい感じで付き合い、家康の敷いた路線に沿って徳川幕府はうまくオランダに乗り換えたことがわかる。
 
江戸時代が続く間、鎖国によって世界の趨勢から取り残されてしまったが、明治開国以来イギリスやドイツを範として急激にキャッチアップを行い、20世紀前半は世界の一流国に名を連ねるまでになった。

その後はアメリカとの対立が激化し、それが極限にまで達して大日本帝国は破滅に至った。
戦後はアメリカと同盟関係に入り、その恩恵により平和と繁栄を享受しているものの、実態はアメリカの属国ではないかということがよく言われている。
 
こうして歴史を振り返ると、世界の覇権国が移り変わる時期において、家康の眼力と外交手腕はひとり輝いて見える。
150年続いた戦国時代を終わらせ、太平の世をもたらした男は、やはり並みの人物ではなかった。
 
※写真は東京駅八重洲口。ヨーステンの屋敷跡が由来となっている。
 

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