論語 微子6 相反しない理想と現実

 長沮と桀溺が並んで耕しているところに、孔子が通りかかられ、子路に渡し場はどこか、たずねさせられた。長沮は言った。「あの手綱をとっている者は誰か」子路は言った。「孔丘さまです。(長沮)は言った。「魯の孔丘か」。(子路は)言った。「そうです」。(長沮は)言った。「それなら渡し場を知っているはずだ」。(ついで)桀溺にたずねると、桀溺は言った。「きみは誰だ」。(子路は)言った。「仲由(子路の本名)です。(桀溺は)言った。「魯の孔丘の弟子か」。(子路は)答えて言った。「そうです」(桀溺は)言った。「滔々と洪水がはんらんするようになっているのは、天下全体みなそうだ。いったい誰がこの状況を変えられようか。かつまた、きみは、あんな、人をえり好みする者につき従うよりは、世間全体を避ける人につき従うほうが、ましではないか」。(そう言うと)種に土をかぶせ、いつまでもやめなかった。
 子路は(馬車のところに)行って報告した。先生はがっくりして言われた。「鳥や獣とは仲間になれない。私はこの人間達と一緒にいないで、誰と一緒にいようか。天下に正しい道が行われていれば、兵は変革しようとしないだろう」。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 簡単にまとめると、隠居した人たちの言い分に孔子ががっかりしながらも決意を新たにする場面である。引用文献になると、実際に会った話というよりも、伝説としての意味合いが強いようだ。

 隠者としての生き方がどういったものか定かではないが、自給自足をしながら世に左右されない生き方というのはそれはそれで正解なのかもしれない。お金をどれだけ持っているかとか、いいねがどれだけつくかで降伏かどうかを感じるような時代の価値観や世界情勢に精神を蝕まれるのであれば、何の為のお金と便利さなのかが分からない。
 
 SDGsが叫ばれているが自然の一部としての生活、衣食住という身体を守る考え方にのっとった生活の在り方の方が、環境を搾取する規模が拡大しすぎて、その実態すらはっきりしない現代よりもよっぽどエコなのは間違いない。
 
 同時に起こっている事に対して無力であるという限界も見える。

 話は変わるが引用文献では孔子の立場を「理想的現実主義」という表現をしている。この表現は面白いと思った。理想の反対は現実というがこれらは全く無関係という事ではない。
 理想をただ夢物語として語って満足するのではなく、現実にするために今何をするのかというのはどの時代にも重要なことである。そして現代ではアプローチの方法が数多くあり、同志を集めるのにも有利ではないだろうか。
 
 その時に大事になるのはやはり何をしたいのかという情熱と、そのやりたい目的が正しいのかどうかを判断する哲学や文学の存在である。勿論、正確に扱う為の科学的な知識や技術も必要である。しかし必ずしも自分が理想の為の専門性を身につける必要はない。証明する機関は必要だが、大事になってくるのは信頼である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?