論語 微子7 「老害」や「Z世代」括ると深く考えなくて楽

 子路が(先生の)お供をして遅れた。老人が杖に竹籠をぶら下げながら、担いでいるのに出会ったので、子路はたずねた。「先生を見かけましたか」。老人は言った。「手足を動かさず、五穀の見分けもつかない者なのに、それがどうして先生なのか」。(と言うと)杖を立てかけて、草むしりをした。子路は両手を組み合わせて立っていた。(老人は)子路を引き留めて一晩泊らせ、鶏を殺しキビ飯を炊いて、子路に食べさせ、二人の息子を引き合わせた。翌日、子路は出発し、(孔子に追いついて)報告した。先生は
言われた。「隠者だな」。子路に命じて引き返させ、(もう一度)会いに行かせた。(子路が)やって来ると、(老人は)不在だった。子路は(二人の息子に)言いのこした。「役人になって出仕しないのは正しいやりかたではありません。それでも(息子を引き合わせるなど)長幼の順序はなくすことができないのですから、君臣の正しい道もどうしてなくすことができましょうか。あなたは自分の身を清く保とうとして、大きな道理を混乱させておられます。君子が出仕するのは、正しい道を実行するためです。なかなか正しい道が実行されないことなど、(われわれには)とっくにわかっています」。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 簡単にまとめると、孔子の弟子である子路が老人から「なにも出来ていない孔子はろくでもない人である」と言われる。それに対して子路は君子として必要であると反論をするシーンである。

 言論によって揚げ足を取り合っているようで私としては少し冷めてしまった。
 本文中にあるように、隠者となる老人にも親と子のような年功序列の秩序はある。その点に被せて国を動かす上司と部下にも必要であるという考え方は納得できる。
 それに向かう事の大切さも、それを実現することが難しい事も分かるが、
そのやりとりがお互いの主張から粗を探して自分の意見を通す事に邁進しているようで、あまり好きではない。
 このようないわゆる論破が必要になる事もあるだろうし、それ自体を否定するつもりはない。そして私個人として子路や孔子のように実際に活動をしている人の方が現代では重要であると考える。

 考えたいのは隠者としての生き方と、まとまった国の中で生きる人同士のつながり方である。当たり前だが皆が皆、孔子と同じ仕事をしても国は滅びるだけである。誰が食料を作るのだろうか。
 
 役割分担をしているに過ぎないのではないか。今回の話は個人の視点として考えると対立は成り立つが、集団として考えると何の問題もないように思える。誰もが五穀の見分けをつける必要はない。

 その中で求めらられるのは一体何なのだろうか。分からない。

 隠者とはどういった生き方なのか。ただ年を取る事と一体何が違うのか私には分からない。ここで分かるのは単純に文句を言うのではなく、自分の考えをしっかり持ちながら、相手を気づかう常識を持っている人であるのは
確かだ。自ら身を退く事を選ぶのはむしろ現代において必要なのかもしれない。

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