論語 陽貨26 改善と受け入れの境界

 先生は言われた。「四十になって人に憎まれるようなら、おしまいだ」。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 価値観は年齢とともに固まっていくという事だろうか。その限界点が四十歳という事だろう。今から2500年前の中国の平均寿命がどれくらいかは定かではない。医療が発達していないことを考えると、幼児の生存率やお年寄り
の寿命の身近さが平均寿命を少なくしている要因と考えれれる。

 現代では平均寿命が延びている事もあり、四十歳までに嫌な奴であるなら嫌な奴のまま過ごしていく事になるのだろう。孔子でもどうすることも出来ないらしい。
 大人になってから実感している人は多いと思うが、習慣を変える事は並大抵のものではない。どんな些細なことでも自分の意思で変えるのは非常に難しい。その習慣は子供のころや若い時に培った習慣で身に染みているのである。

 人はいつでも変われるという言葉がある。私はこれについて大いに賛成するだが、早い方が有利であるのもまた事実である。先延ばしにする言い訳に使いかねないので注意が必要だ。
 また、状況によっては変化するのではなく、受け入れる形でしか穏やかさを手に入れることが出来ない事がある。例えば老化による体力の衰えなどはその最たる例であろう。誰にもやってくるものである。
 それと同じ形で精神性や人間性に関わる部分も四十という目安があるのではないか。

 人に無駄に憎まれない為に考えられる事としては、自分の話だけをしない、表情を穏やかにする、言葉づかいを気を付ける、噓をつかない等が挙げられる。

 もし見ている人が四十手前で孔子の話を信じるなら、意識的に少しづつ改善する事が出来る。若い時のような急激な変化はないだろうが、四苦八苦しながら頑張ってもらいたい。
 四十を過ぎているなら、自分が何かの部分で嫌な奴であるという事を自覚するところからだろう。改善するよりも受け入れて、そんな自分に付き合ってくれる周りの存在に感謝をした方が良いのかもしれない。

 ただ、私個人としては人はいつでも変わることができると思っている。おそらく若い時よりも修羅の道であり、成果も少ないかもしれない。なによりもその前に進む意思や変化と失敗は尊いものだと信じたい。

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