論語 微子10 完璧さは指標、実態は一歩

 周公は(息子の)魯公に向かって言われた。「君子は親類をなおざりにしないものだ。重臣に重用されないと、不満をいだかせないように、昔馴染みは大きな過ちが無ければ、見捨てないようにせよ。完全さをひとりの人間に求めてはならない」。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 完全さを求めているつもりはなくとも、他人に求めすぎてしまう場合がある。自分の出来る事や価値観で相手を判断してしまうからだ。時には常識すらも足かせとなる。

 現代において常識という言葉がどれだけ浸透してどんな役割を担っているのか私はあまり実感がないので、この言葉を指標として使えるかどうかに疑問は残るが。

 それを踏まえた上で、常識というのは正解ではなく目指すべき形の一つにはなりえる。出来ない人を否定するのではなくどうすれば出来るようになるのかという付き合い方である。
 
 例えば、ゴミを路上に捨てるのは良くない、というのは常識である。しかし、どうしても面倒くさくなって捨ててしまう人がいるとして。

 その行為自体は褒められたものではないが、大事なのはどうしたら面倒くさいと感じる人が路上にゴミを捨てずに済むかである。常日頃からゴミ袋のようなものを携帯するというのが一つのやり方である。その人を否定して終わりにするのではなく、どういったアプローチが可能なのかという事に関して注目する必要がある。

 個人、社会レベルでの事前準備や、人との関係性で言うと、信頼、畏怖、共感、等があげられるだろうか。

 しかし最終的には個人が面倒くさい事をどれだけ出来るのかという事が重要になってくる。出来ない事とは分けて考える必要がある。やらなくて済んでいるのは、必要性を感じていなかったり、周りの環境に甘やかされているだけという場合が多いのではないだろうか。

 ゴミを捨てないというのは一つの例であるが、もっと身近なところでは、部屋の掃除をするとか、必要な勉強をするとかである。得意、不得意は個人差があり出来るようになるまで、必要な時間に差があるのは当然である。さらにもしかしたら他人とは違う形で付き合う必要も出てくる。
 
 この辺の言葉は全部自分に返ってくる。私自身面倒くさくてやっていない事の心当たりは多い。

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