論語 季氏13 正しさに振り回されない事

 陳亢が伯魚(孔子の長男)にたずねた。
 「あなたなら、先生から特別に教えを受けたことがおありでしょう」
 「いいえ、ただ、いつか父がひとりきりで堂上にたたずんでいるとき、わたしが庭を通りかかりますと、『詩を研究したかね』と声をかけられました。『まだです』と答えますと、『詩を読まないと、表現力が養われないよ』とさとされました。わたしはそれ以降、詩を勉強しました。そのつぎ、父がまたひとりで堂上にたたずんでいるとき、私が庭を通りかかりますと、こんどは『礼を研究したかね』ときかれました。『まだです』と答えますと、『礼を学ばないと社会人として困るよ』と言われ、それ以降わたしは礼を学びました。特別な教えといえば、このふたつでしょうか」
 陳亢は感激した。かれは伯魚と別れてから言った。
 「ひとつの質問で三つの収穫があったぞ。なぜ詩が大切か、なぜ礼が必要か、そして君子は我が子だからといって特別扱いしないということだ」

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 身内にだけ贔屓になるという事は往々にしてあるだろう。関わり合いが多い分、他所とは違う物や考え方を授けているのではという陳亢の考えは理解できる。しかし孔子は特に重要な事は話をしていなかったようだ。
 これは陳亢の評価の通り、君子は実の息子であっても特別扱いをしていないという事だ。逆にいうならどんな関係性の人であろうとも、学習する意欲があるなら教えを授けていたという事だろう。

 関係性による贔屓をしないというのは簡単なようでいて難しい。相手を不当に扱かい虐げる等に関しては分かりやすく悪い事だと分かるが、身内を庇ったり特別な待遇を用意したりするのは何が良くて何が悪いのか見極めることが難しい。
 
 論語の中でも矛盾したようなエピソードがある。顔淵という孔子の一番の弟子が無くなった時、顔淵の父は豪華に弔いたいと申し出た。しかし孔子は普通の手順で礼に倣い葬ることを進めている。これは贔屓をしない事である。
 かと思えば、ある村で父の犯罪を子が暴露した際に「子供が誠実であると言えるのではないか」という評価をした人物に対して、孔子は「子が父を庇う姿こそが誠実なのではないか」と説いている。こちらは贔屓をしていると言えなくもない。

 何が起こったのかという結果だけでなく、なぜその判断をしたのかという背景なども考えてのことであるが、それが出来るようになるにはどうすればよいのだろうか。

 単純にルールや決まりを守るだけではない、なぜそのルールが必要なのかを判断して使いこなさなければいけない。

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