論語 泰伯6 勝ち続ける前提だけど

 曾子がいわれた。
 「父を失った十代の幼君を預ける事ができ、大きな国家において政令を発することができ、人生の大事変にあっても志を奪う事ができない。これぞ君子だ。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 幼君とは幼い主君の事。つまりは教育者として優れているという事ではないか。君子に求められるのは指導力という技術、政策を打ち出せる立場、ゆるぎない信念、人格がそろって初めて君子といえるのではないだろうか。

 偉い人というのは立場だけで片付けられることが多い。それはそれで組織を運営するにあたって必要な要素であると私は考えている。決定権を持っている人が方針を決めてそれに則って行動しなければ達成することができない事が多いのは事実である。これは立場といわれる。

 それと同時にそれに快く従えるかどうかもまた問題になってくる。無茶苦茶な指導者が好き勝手に振り回す職場では、問題ないように見えて実のところ、不満や不平を我慢しているだけだったり、小さな事故を見て見ぬふりをしてしまうことがある。そういった小さな要因が当たり前になり、問題は重症化していく。それを指導者が率先してやっているのは言語道断である。

 それぞれの立場から求められる最善が違う。現場の正解と経営で数字を上げる事では大きく異なっている。
 大切なのはそれぞれの立場からの妥協点を見極めるという事、我慢しなければいけない事と、アクシデントの一歩手前の事をどれだけ共有して改善につなげられるかである。これが指導力や環境づくりに当たる。
 結局現場が出来る事には限界がある。創意工夫は歓迎するべきであるが、トップが現状を体感しなくては、場当たり的で的外れなその場しのぎの決まりごとが増えるだけである。

 最後は信念。これはどの分野のどの人にも求められる。しかし立場が上がり組織が大きくなればなるほど影響力は大きくなる。
 些細な事でブレてしまっては長続きしないだろうし、不安から間違った判断をしてしまいかねない。そうなると下の人たちの生活まで脅かすことになる。

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