論語 顔淵9 生活よりも気持ちがまいる

 魯の哀公が有若にたずねた。「今年は凶作で費用が足りない。どうしたらいいだろうか」。
 有若は答えた。「税率を十分の一にする徹の税法を用いたらいいと思います」。
 哀公はびっくりして言った。十分の二の税でも足りないというのに、どうして十分の一の税を採用できようか」。
 有若が答えて言った。「国民が豊かになれば、君主も豊かになります。国民が豊かなのに、君主がどうして一人窮乏するというのですか。逆に国民が貧しい時に、君主がどうして自分だけが豊かになれるというのですか。」

野中根太郎(訳)(2016)『全文完全対照版 論語コンプリート』 誠文堂新光社

 当時の税法、生活様式は現代とは全く異なっていると思うので、十分の一にする政策が現代にそのまま当てはめて良いかどうかは疑問である。
 だが、為政者には心構えとして持っていてほしいものだ。振り返ってみれば政治家の問題は後を絶たないが、彼らの中に浄化作用があるのかどうか非常に疑問が残る。どうしても報道を受けてから反省をするようにしか見えない。

 まぁ、反省という意味では私自身も怒られてから事の重大さを実感することが少なくない。決まり事があったとしてもつい後回しにしてしまう事も多くある。

 同時に為政者としての決まり事と一般人とを比べるのはどうかとも思うし、個人の話だけではなく、組織としての在り方が求められる思うが。どちらにせよ問題が起こるたびに信頼がなくなっていく状況はどうにかした方がいいが、信頼を回復するのは並大抵のことではない。

 話に戻ると国民個人、為政者、社会全体の豊かさというのは別なものである。誰でも個人の豊かさが欲しいものだ。だがそれだけでは社会の問題を解決することは出来ない。知っての通り社会とは自分以外の構成要素が大きいからだ。
 他人のことを自分事として捉えつつ、戦う事が出来る人が為政者に求められる。先行き不透明でいろいろな技術が出ており競争が必要になるならば、生まれやコネクションだけでその立場を保証する現状維持に寄るべきではない気がするが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?