論語 微子9 気楽に出来る創作活動

 (国が混乱すると、楽人たちは各地に離散し、)大師摯は斉に生き、亜飯干は楚に行った、三飯繚は蔡に行き、四飯欠は秦に行った。鼓方叔は黄河の流域に逃げ、播鼗武は漢水の流域に逃げた。少師陽と撃馨㐮は海岸地方に逃げた。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 楽人とは演奏家の事である。引用文献によると時代も曖昧でなぜこのような話が編集されているのかもはっきりしないらしく、メモ書きのようなものと位置付けている。

 彼らがどんな生活をしていたのか気になる。土地を支配しているお偉いさんに対して演奏をする事もあるそうだ。昔から芸術は時の権力者とともに語られる側面がある。おそらく肖像画はその最たる例だろうし、楽曲を作らせ提供させたり、美術品を集めるというのはどの時代にもどの国にもあるという事だ。

 今はどうなのだろうか。勝手な妄想だが、権力者が芸術の中にいるというイメージがない。教養として歴史的な美術品を収集していたりはすると思うが、現代の音楽や絵画を自分がリクエストする形で手元に置いておく事はあるのだろうか。

 権力者の実体は分からないが、芸術はかなり庶民に開いているのは歴史的に考えて言えそうだ。前提として芸術は様々な文化があるので、例えば詩を嗜むとか、地域で歌われ続けた民謡や伝承等も広く言えば芸術という括りになり、全ての分野が庶民的でなかったとは厳密には言えないかもしれないが。

 しかし、音楽や絵に関して言うと、その材料が簡単に手に入るようになった影響は大きい。
 そして必ずしも入賞するとか、職業にするという事を求められるのではなく、気楽に触れることが出来て言わば成果に責任を持たなくても良いのは
生産技術が向上した一つの良い面かも知れない。芸術活動のなかで自分の感覚が研ぎ澄まされる機会が増える事を私は素晴らしい事だと思う。

 それは世界を感覚で認識する人間が同じ世界をどのように生きるのかという一つのアプローチになっているからである。

 逆に成果を求められる場合は政治的ではなく、専ら商業的な責任が大きい。期日を守って、コストは安く、売れるものを作るである。
それはそれで否定はしないが、それが唯一の正解でもない。個人の芸術や付き合い方がそれだけに引っ張られるのは多くの人にとっては有益ではないのではないか。

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