論語 泰伯5 良薬が苦くて辛いなら、罠を張るなら甘い物

曾子がいわれた。
 「自分は才能があるのに才能のない者にさえものを聞き、知識が多いのに少ないものに尋ね、道を悟っていながら知らぬもののように思い、徳が充ちていながら身についていない者のように自分を思い、自分が害されても仕返しはしない。昔、私の友達の顔回はこのようにつとめたものだった。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 これはある程度説明できる。単純に見えているものが違うのである。凡人からするとすでに十分である状態でも当の本人からすると、さらに先が見えていたりするのでこのようなズレが起こる。自分が平均値より優れているか
どうかではなく、理想と自分との比較をしているのでどこまで行っても満足するということが無いのではないか。

 それでもその精神性は簡単にまねできるものではない。自分が何かを知っている時、相手を正そうとしたり諦めて呆れたり馬鹿にしてしまう事はよくある。顔回という人物は何を目指して何を見ていたのだろうか。

 正しさとは限定して初めて成り立つ部分がある。酒を飲むのもタバコを吸うのも戦争をするのも条件を限定していけば必要であるという事が可能である。裏を返せばどんなに正しいと言われている事でも状況によっては当てはまらない例外という状態がある。

 知識が少ない者からでも学ぶことが出来るというのは、状況やその人物への理解という事で納得することはできる。

 しかしながら、自分が害されていても仕返しはしない、という事は顔回自身が争いを拒んでいるようにも見える。
 他人に優しいのだ。そしてその裏にある狙いや思いこそがもしかしたら顔回の行動理由なのかもしれない。

 他人に優しいというのは他人にとっても利益でありそれが自分の利益になる場合もある。しかし分かりやすくもなく単純でもない。お金に絡むことも少ない。それを良しとする精神性や目標は一体どこからくるのだろうか。

 他人に当たってしまう事をゼロには出来なくても広い知識と謙虚さを持つことで少なくすることができれば、自己嫌悪に陥ることも少ないかもしれない。

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