論語 微子2 生きている実感、仕事をしている実感

 柳下恵は(魯の)裁判官の長官に任命され、三度、罷免された。ある人が言った。「あなたはそれでもまだこの国(魯を)去ることができないのですか」。(柳下恵は)言った。「まっすぐなやりかたで人に仕えれば、どこの国に行っても三度、罷免されるでしょう。まっすぐでないやりかたで人に仕えるなら、(この国でもどこの国でも罷免されることはないだろうから、)何も父母の国を去る必要はないでしょう」。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 これはどう読んでよいのか私には分からない。罷免とは職務(特に公務員)を辞めさせられる事を言う。柳下恵という人物はどうやら仕事を辞めさせられているようだ。まっすぐなやり方を通して辞めさせられたのだから問題はないと言いながらも、よその国もまともに政治をしていないという嘆きや諦めも想像できる。ならば故郷にいた方が良いという事だろう。

 まっすぐなやり方を突き通す生き方は重要なことなのだろうか。

 前回の微子1では孔子が仁者と評価している三人の人物が登場している。その中で自分のやり方を曲げずに王様を諫め続けて死を遂げた比干に通じるものがある。

 さて、現代ではどのように生きるのが正解なのか。私個人としては無駄死にをするよりも生き残って活躍の機会を伺った方が良い。というより業界を去る事はあっても、命を投げ出すような状況がまずありえないだろう。
 
 人を評価をする時には結果が出るかどうかで善悪を決めてしまうのは早計であるとも分かる。ブレない自身の思いが結果に結び付く事は勿論だが、正当性がないから退くという事は逆に悪循環に従い生き残る事も可能であるからだ。

 ほとんどの出来事においてこのような頑固さはあまり評価されるものではないし役に立つ機会は少ない。だが、自身の中にブレない何かは自覚しておきたい。
 自分が理不尽な目に合っている時、目的の為に我慢をしているのか、ただ振り回されているだけなのかを判断することが出来なくなってしまうからだ。

 実際は我慢の連続かもしれないし、全てが直接目的と結びつくわけでもない。忙しさの中で何の為に生きているのか実感を持てず、自分の疲れを癒すだけの人生になってしまっている人には酷なのかもしれない。

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