論語 憲問22 身を清める覚悟と相手

 斉の陳成子が君主の簡公を殺した。孔子先生は、斎戒沐浴して身を清めてから朝廷に出仕し、魯の君主である哀公に申し上げられた。「斉の陳恒がその君主を殺しました。これは許されざる大逆ですから、これを討ってください」。しかし、哀公は、「あの三人(孟孫、叔孫、季孫)に言いなさいと申された」。
 先生は、「私も大夫の末席つらなっている以上、申し上げざるをえなかったのだ。しかし、君は、『あの三人に言え』と申された」。そして先生は三人のところに行って話したが、もちろん聞いてくれなかった(魯の三者は、
斉の陳恒と同じような立場の大夫であり、魯の君をないがしろにしていた)。
 先生は言われた。「私も大夫の末席にいる以上、君主に正しいと思うことを申し上げずにいられなかったのだ」。

野中根太郎(訳)(2016)『全文完全対照版 論語コンプリート』 誠文堂新光社

 孔子の助言がいかなる時でも受け入れられたかというとそうではないようである。自身の君主に反逆した陳恒については良く分かっていないので、孔子が概ね正しいという立場で話を見る。

 哀公は魯という国の君主であり、孔子の上司に当たる人物である。勿論ただの上司ではなく一国のトップであるのでその影響力は大きい。自身で判断をつけることなく、他の部下に任せた結果結局孔子の願いが可能事は無かったという事である。その三人の部下も哀公を軽んじており、孔子の無念さが伺える。

 孔子は君主には正しい行いをしてもらいたくいてもたってもいられなかったのだろう。斎戒沐浴とは神聖な行いをする際に身を清めることを指しており、それだけの覚悟や思いが孔子にあったのだろうと思われる。
 実際に孔子が哀公にないがしろにされた時はどういった気持ちだったのだろうか。

 その後孔子は立場を追われてしまう。魯の国での活躍は出来なくなり、自信を求める新たな君主を探しに放浪の旅に出る。結局一国の役人になる事は叶わなかったようである。それでも孔子は教育や年表づくり、資料整理等
に力を入れた。資料整理というと雑用であると思いがちであるが、現代のようにネットも本も普及していない時代ではどこで何があったのかという真実を探るという事は大変な時間と労力を用意したはずである。

 自身の願いが叶わなくともふてくされることなく、持てる力を使って道を進み続ける事はそれなりの覚悟と意思が必要な事である。

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