論語 微子11 染まるのではなく使い分ける

 周に八人のすぐれた人がいた。伯達、伯适、仲突、仲忽、叔夜、叔夏、季随、季騧である。

井波律子(訳)(2016)『完訳 論語』 岩波書店

 周というのは中国の王朝の名前である。実際それぞれがどんな活躍をした人物なのか私はよく分からない。なぜ、このようなものが残っているのかもよく分からない。孔子は周時代の政治をリスペクトしていたが、それと関係があるのかもしれない。

 話は変わるが、尊敬できる人間を八人名前を上げることは出来るだろうか。身近な人でも有名人でも歴史上の人物でも構わない。そして、それはどの部分で尊敬をすることが出来るのだろうか。
 その人物の考え方や強みをマネして、選択をしていくというのは役に立つ。広く考えると論語もその中の一種である。孔子だったらどう考えるか。

 改めて思い返してみると私が孔子の考えを説明できるかというとそうではない。仁とは何か、道徳とは何か。そもそも何をした人物か。
引用文献の解説で詳しい説明がされていた部分もあり、論語の中から断片的に語られることを紡いで自分の考えを導き出す事も出来るはずだが、
あまり覚えていない。実践しているかというと怪しい。

 一体何のために論語のありがたい言葉を使っているのだろうか。

 一つはっきり言える事は、このように毎日何かを書いてネットに挙げている事だけである。それだけの事である。
 それ自体が何かになるわけではないだろうし、論語の中の教えと結びつくものではない。継続は力なりという話があったかどうか定かではない。
 
 それでもここまで書いてきて感じた事がある。
 似たような話を聞いたり書いたりしていると簡単に偏るという事だ。思考が自分の思い描く論語に傾いてしまっている。全てを把握しているわけではないので歪なものであるのは間違いない。それでいて他の考えが入りこむ余地がなくなってきているような危機感もある。

 あくまで論語は考え方の一種であり、それがすべて正しい訳ではない。染まるのではなく使い分けることが出来るようになりたい。

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