論語 泰伯7 重たい荷物を背負い、手を広げる困難さ

 曾子がいわれた。
 「学に志す士は心が弘く穀くならなければならない。荷うものは重く道は遠い。<仁>を自分の荷として負うのだ、重くならないはずがあろうか。仁を背負って死ぬまで道を行くのだ、なんと遠い道であろうか。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 弘くで「ひろく」、穀くで「つよく」と読む。単に広い、強いと言わないのはそれぞれ、広くいきわたらせる事、態度の事という意味合いを込めてだろう。こちらの参考文献には元の文が載っていないので分からない。

 これは二つの意味で重要な事を言っていると思われる。

 一つは学問というのは自分一人だけで完結していいものではないという事だ。学んだことはよそに還元して初めて意味を成す。そうでなければただの自己満足である。それ自体が悪いことではない。学ぶことに満足出来るという事はある分野について素質があるという事でもあり、個人的には羨ましい。

 しかし医療を考えてみればわかるが、どんな研究も外に出て共有されなければ私たちは未だにペストや結核について悩まされていた事だろう。重大な病気だけではなく、細菌の存在から手洗いやうがいの有効性が保障されて
いるから安全な生活が成り立っているのである。
 
 もう一つは良い事というのはつらく大変で終わりがないという事実である。これを無視して自分にも他人に強要しようとすれば途中でくじけてしまうし、理解されない。
 良いことをしたからといって受け入れられるわけではない。海外にボランティアに行った人たちが医療を提供する際に断られたり、襲撃されたりするという話を聞いたことがある。

 私達からすると考えられないことかもしれないが、現地の人にとって、注射器や採血は医療行為と受け取られない可能性がある。考えてみれば当然である。いきなり分からない人たちがやってきて、自分たちの土地に勝手に住み着くだけではなく、針を指して体内から血を奪って、夜な夜な何かをしている。信じるというほうがどうかしている。

 相手に理解されないというのは無視されるだけではない。実際無視されるだけでも辛いが。それでいてその行為がこちらの独りよがりではなく、ちゃんと相手側の利益にならないといけない。

 なんでそんなことをするのかと諦めて切り捨てたほうが楽である。だが仁、良い事とはそうではないとはっきり示してくれるなら辛さを理由にやめる事は通用しなくなる。同時にたまに敗れてもまた立ち上がればよい。だって大変何だからだ。

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