重松清 「きよしこ」の感想文

 

本のあらすじ

 吃音症を患った少年の成長をリアルに描いた作品である。私は吃音症を患っていないので、正確に言うとリアルに近い気がする程度の理解であるが。

 話は大人になった少年が、同じく吃音症の子供を持つ母親から手紙をもらい、返事の代わりに物語を送ることから始まる。その物語こそが少年の大人になるまでの出来事であり本編でもある。

 少年の名はキヨシ。幼い事聞いた「きよしこの夜」の歌を「きよしこ」という人がいるという勘違いから、きよしこに会えると思っている。そして夢の中できよしこと特別な会話をする。
 

なぜ単純な物語ではなかったのか


 さて、大人になった少年はなぜ手紙という形で励ましの言葉を贈らなかったのか、なぜ物語という形式で少年は子供に伝えたのか。なぜ、この物語は、単純に少年の物語ではなく、同じ吃音症を患った子供への贈り物として書かれた形式をとったのか。

 それはぜひ読んで感じてほしいが私の見解は、単純化しない為だ。

 結局のところ当事者の思いは分からない。障害は障害ではないとか、個性だとか、負けないでというのはあまりに単純化している。そして外野はそれで満足している節がある。励ましや応援が必要な事も人もいるのは事実であるが、それは障がい者すべてに当てはまるものではない。個人として理解するべきである。
 
 同時にその個人が抱えている問題が全て表面化されずに全てが理解されないという前提を忘れてしまう。理解出来る事、することが大切であると思い込んでいるが、それは間違いである。大切なのは理解できるというのは幻想に近いという事を認識することだ。寄り添う事、意思疎通とは別に個人の抱えている人格のような部分である。
 
 もっと簡単に言うと私たちは障がい者を支援して理解した気になる落とし穴と、そして理解できるものであると錯覚している。大切なのはあいまいな中での信頼関係が成り立つ事であり、それは理解以外もっと多彩な事なのだろう。

障がい者に限定されない理解の性質

 そして理解した気になる、理解できるものであると錯覚するという話は障がい者に限定されない。

 少年は様々な人と出会っている。そして誰一人葛藤をしていない人はいない。とんちんかんな事を言っていた先生も、徐々に道を踏み外していったギンショウもその周りにいた高校生もである。
 単純に悪者にしてしまいがちである。私は不勉強で不道徳であると思う反面、彼らも自身に振り回されており必死なのだと、切なく思えてしまう。

 きっと私は人格を形成するレベルで障がい者の苦労は分からないだろう。共感も信頼もきっと私では難しいのかもしれない。

 曖昧であることが正解に近く、そして実際に悩んでいるほうが現実的である。
 

最終的な反省と気づいたこと


 さて、私は障がい者とどのように接すればいいのであろうか。理解だけでなく信頼関係が必要だ。それはおそらく、相手を理解することだけでなく、自分も理解してもらう必要があるだろう。その為には相手にそう思ってもらう必要があり、皆にとってのいい人になる必要がある。嘘をつかないとか、見栄を張らないとか。それが根本にあるのではないか。

終わりに


この本はどれだけ人の事を理解できないか、理解できると錯覚しているか、しだいにずれていくか、という事が分かる。そして終盤は少年の決意と、言葉にはならないエネルギーの強さ、(おそらく夢、好奇心)を見ることが出来る。

 すぐではなくていいし、同じくらいの変化であるはずもない。きっかけとなったきよしこが冒頭の子供にも、読めばあなたの所にも届くはずである。

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