論語 衛霊公39 生まれつきによる差はないが、生まれた環境の差は無視できない
孔子先生は言われた。「人は教育、学習によって違いは出るが、生まれつきによる類別、差などない」。
個性がないという話でも不平等ではないという話でもない、と予想する。
勉強に力を入れるべきであると孔子は言いたいのではないか。勉強に力を入れるというのは自力での学習、他者から教わる時等様々である。老若男女を問わず出身や立場を問わない。人だけではなく自然や出来事からも学ぶ事が出来る。
人は平等かどうかという話をするといろいろな方向に進んでしまう。話が長くなる割には極端な意見だけが飛び交い満足してしまう。
しかし学習という事について考えようと思っても、自分自身の範囲の事だけではなく、広くは政治についてまで考えなければならない問題でもある。
学校現場では様々な問題が起こっているらしい。私自身が直接経験したわけではないが、なり手不足、過剰な業務、非行や不登校等の対応等があり疲労感を通り越して絶望感を感じる。
なり手不足や過剰な業務に関してはどの業界についても言える事であり、教育業界だけが抱える問題ではない。
しかし私個人として行政の教育とは生まれの差を埋める為に重要な役割を果たすもの役割があるので特別に扱う必要があるのではないかと考える。
お金持ちや教育熱心な両親の元に生まれた子供が、何かに秀でた人生を歩くことが出来る可能性は高いのは当然である。仕える資源が多いというだけで大きなメリットであるからだ。その仕える資源が家庭によってまちまちである以上差が出るのは事実である。そもそも遺伝子や生まれた国などによっても左右される。
だからこそ行政の行なう公教育には商業的な教育以上に存在の意義があるはずである。お金をかける教育の質が高くなるのは当然であるが、お金をかけない公教育がその差がどれだけ埋めることが出来るのかどうかというのが
求められる。
その為には教育業界ではなく、公教育について贔屓をした活動が必要であり、それだけの価値があると感じている。幼いころの体験、教育は自ずと全ての業界、分野に還元されるものである。
学習とは教育の分野だけが扱うわけではない。
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