論語 子張1 一人では生きていないはずだが

 子張がいった。
 「一流の人物、<士>というものは、国家が危急のときは命を投げ出して事に当たり、利益を目の前にしたときは道義に反しないかを考え、祖先などの祭祀に当たってはつつしみ深く敬いの気持ちで臨み、喪には悲しみの心情をこめる。それでまあ士としてはよろしかろう。」

齋藤孝(訳)(2010)『現代語訳 論語』 筑摩書房

 政治、私生活、文化、式についてそれぞれ望むべき姿勢を示している。

 国家に危険が迫っている時に命を投げ出すというと戦争に従事することを想像する。注意しておきたいのは今の戦争と当時の戦争の規模と重要度が変わっているという事である。
 孔子でさえ戦争そのものを完全に否定してはいなかった。争いがない世界を望んでいたが、勉学が無ければいたずらに命を捨てるだけと論語の中で注意を促しており、戦争そのものを完全な悪とはしていない。

 現代において戦争が良いか悪いかというのは正直私には判断がつかない。歴史をあまりにも知らなさすぎるのである。テレビで頻繁に語られる悲惨さは判断する一つの要素であるが、戦争はあくまで手段の一つである。
 目的や狙いとセットで語られなくては判断をすることが出来ず、その目的をはっきりさせることが難しい。一つの答えがあるのではなく、それぞれの時代、国、人々のなかで違っているはずであり、それを評価する人によっても違ってくるのである。
 真実がどうかというよりも、それ自体を今の政治的な戦略の材料にした方が方向性をはっきり示しやすいのではないだろうか。

 話はだいぶ逸れたが、国家の危篤は戦争だけではない。様々な分野で問題を抱えている。そう考えると自身の仕事にどのような形で取り組むのかを問い続ける事が求められるのだろう。

 二つ目は利益の話である。何かをなす時に対価を貰うのは悪い事ではない。良い事は全てボランティアの精神でというのは限界がある。そうなると道義という言葉にある程度共通認識が必要になってくる。
それぞれが勝手に道義と言い張ってしまえば、自分勝手なルールで行う事と何の変りもないからだ。極端な話、勝ち続ける事を道義と言ってしまえば、無法地帯になる事は目に見えている。個人の価値観だけで完結することは出来ない。

 そのような共通認識を補填するのが文化であると私は考えている。祭りごとや儀式である。立場が違っても同じ行為をする事や立場に応じた役割やルールが設けられる事で、個人の自分から社会集団としての自分を意識することが出来るのではないだろうか。

 最後に示されているのは、式典には結局のところ気持ちが大事という事だ。それが無ければただの面倒事になってしまい、「無駄」として片付けられる。極端な話突き詰めてしまえば人間が生きている必要性がなくなってしまう。意識を否定してしまうのならただの獣と変わらない。
 そしてその意識の偏りによって場合によっては悲惨な歴史を繰り返してしまいかねない。
 そもそも何を悲惨とするのかという事に悩まなければならない。感情や理論を巻き込みながらである。

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