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生きづらさを抱える若い女性達


最近の若者は…という誤解は沢山あると思う。

女性は都会への憧れがあって県外流出が著しい。キラキラした街、女子が好きなアフタヌーンティー、お洒落、出会いの場、色んなものに溢れてるから。

その気持ちはわかる。

上京する女の子はそんな気持ちでいるのかもしれない。

ただ私にはそれだけには思えない。

というか、そんな幻想を抱いてしまう気持ちの背景が現実にはあると思う。


専門学生まで田舎で住んでいて、高校の頃まで学校に属している感覚がないと、「自分は一体何者なんだろう」みたいな気持ちになって帰属意識もなかった。

同じ世代が集まる場所って、田舎だと学校しかないから、学校の人達で分かり合えるような人がいなくて、家族ともそこまで仲が良くないと、ますます無くなる。

女子で上京するような子は、都会への憧れというよりも地元への嫌悪感が強い子もいるのではないかと思う。少なくとも私はそう。

地元から遠くに離れたかった。離れた先も地元のような場所は嫌だったし、生きやすいと思える場所がよかった。そうなると行き先は地元よりは都会で。
東京ほどの人混みや煌びやかさは求めていなかったけれど、自分が少数派になるのは嫌だった。

少数派ってだけでその人は生きづらさを抱えていると思う。世の中の基準て多数派に合わせているから。障害者だったり、LGBTQだったり、外国人だったり、彼らは彼ら自身の居心地の悪さを抱えながら生きている。
大学街や都市圏は違うのだけど、田舎だと若者は少数派になる。

マッチングアプリとか、専門学校時代、使っていた子が周りに沢山いたけれど、彼氏が欲しいというそれだけの純粋な気持ちで彼らはやっているのだろうか、という疑問を抱いていた。

アプリをしながらも自然な出会いを求めて、安心できる人と誰でも付き合いたがる。

彼女達は、学校という狭い世界だけでなく外の世界との繋がりも欲しかったのではないかと思う。

誰でもそういったものに手を出すのは抵抗があるはず。本人がマッチングアプリの話をする時も、プライドの高い子だと「友達と一緒にお願いされて」、「友達に入れさせられて」、みたいな枕詞を入れてから話し始める子もいる。

彼女が欲しい、と訴え続ける男子にアプリの話をすると、そういうのは死んでもしない、みたいな答えを聞いたこともある。私の友達を真っ向から否定するなんて酷いと思った。


多分本心ではSNSやアプリではなくて、自然な出会いを求めているのだろうし、異性だけでなくて同世代で気を許せる相手欲しさもあったのかなと思う。

アプリを入れて利用することに心理的抵抗が大きい人にも関わらずに手を出すということは、それだけ人との繋がりを求めているということで、それは本人の居心地の悪さからくるものもあると私は思う。


若者が住み良い街とは何か、ということについてであるけれど、
若者が好きそうなショッピングセンター、カフェ、オシャレなお店、それらを建てればいいという話でもない。

人口構造によって生じてしまう若者のいずらさが、特に高齢化が進んでいる地域では大きいのだと思う。

少子高齢化対策を考えたり、Uターンしてほしいという思いをこめてたてられる対策は各地域にあるけれど、その対策を講じる際に子供やそれを育てる親や、未婚の若者、結婚した夫婦、そういった人達の意見を組み込んでいるのだろうか、という気持ちがある。

若い人の心理状態や生活の実態をよりよく理解した人や、または若者本人が参画しないとより良い方向には進みにくいように私は思う。



また話はそれてしまうかもしれないけれど、女子の進路選択において「手に職を」という考えが如実に現れるようになった。

理系志望の女子が増え、「ピンクカラー」と呼ばれる仕事を選択する人も多い。

一生ものの資格を取りたいと思う人。

1人でも生きていけるように、誰かに依存しないように、経済的にも精神的にも自立できるように、食べていくために、または親に勧められて、様々な理由があるのだと思うけれど、女子にそう思わせるような社会背景があるのだなと思う。

親に勧められた場合は、その子の強い意志ではないけれど、その親は、自分が資格を持っていないことを後悔して子供には持っていて欲しいとか、自分は資格を持って安定した仕事についていて本当に良かったと思えるから子供にも同じ道を進んで欲しい、とか、親にそう思わせる社会背景というのもあるのだと思う。

手に職を求める女の子って、「自由」を求めているのかと思う。

少なくとも私はそうだった。

お金に困りたくないし、誰かがいないと経済的に自立できないというのも嫌だし、仕事に人生が縛られる、一つがなくなれば全てがなくなるという不安を持ちながら生きるよりは生活を保証してくれる“何か”が欲しい。

何が起こるか分からないこの世の中で一つだけでも確かと言える“何か”が欲しい。

そういうとき、資格を持てることは安心材料なのだ。資格を取ればとりとめのない不安や焦燥感から解放される。ある種の自由を得られる。

それでも、思う。

いつからそんな、焦燥感に追われないといけない世の中になってしまったんだろう。

高校3年生なんて自分のことなんてハッキリ分からない時期で、何となくこれに興味があるからこの専攻にしてみた、みたいな考えだって許されていいと思うのに。大学は自分が本当にしたいことを見つける場所であってもいいと思うのに。

同じ国家資格の学校に通ってた友達は、○○学部(ここでは名誉のために控えておく)は行っても意味がない、卒業したって何も得られるものがないのに、どうしてそれにお金をかけられるのか分からない、と言っていた。

私は少しその気持ちも理解できる一方で、その学部の授業を受けてみて、「なんて面白い分野なんだろう」と思った。

勉強が好きな人は、自分の専攻するものでも、専攻していないものでも、純粋に好奇心と探究心で思いの向くままに勉強できるところが大学だと思う。

女子にとっては、その大学っていうものが学ぶ場というよりかは、一生生きていける保証のある資格を取るため、いつか働いた時に必ずつながるもの、そんな場所になりかけている。



またこれも話は逸れるけれど、キラキラした(どっちかというと派手な格好をした)、美容やお洒落にそれなりのお金をかける若い女子もいる。

これは、もちろんご家庭が裕福だからそれらにお金をかけられるという人もいるのだろうけれど、私立の専門学校と国公立大学の女子を比較して思ったことがある。

まずは女子比率の高さが美容やお洒落の情報へのアクセスのしやすさに影響しているのもあるのだろう。しかしそれだけではない。

実家暮らしだと一人暮らしと比べてお金を持っていて、友人関係が狭くサークルとかがないと人付き合いにかけるお金も少なくなる。

遊ぶ時間がない、楽しい授業や他に趣味や打ち込めるようなものがないと、それなりにお高い美容やお洒落(ブランド物のバッグや化粧品、洋服など)にお金をかけやすい。
ストレスが溜まっても遊ぶ場所や遊ぶ方法、遊ぶ人がいないから、唯一思い浮かぶストレス発散方法の美容、お洒落への投資になってしまう。


だから私は思ってしまうことがある。

本人にとっての趣味が美容やお洒落で、それらに投資して自分磨きをすることで、幸せで、満足できているのならいいのだけれど、

本当は周りの環境が、本人にそのような行動をさせてしまっているだけで、本人は他に楽しみと思えることがないとか、人付き合いがしたいけれど環境ゆえにできていないのではないのか、とか。

自分のストレス発散方法や手段が分からなくて、とりあえず女子が喜ぶものを自分に取り入れようとしているのかと思うことがある。女の子が喜ぶ物として洋服や化粧は1番わかりやすいし、高校や大学に入ればほとんどの人は経験する道だから。

着飾ることに一生懸命な人を見ると本当にその人は幸せなのか、他にしたいことがあってもそれが分かっていなかったり知らないからできていないのではないか心配になる。

余計なお世話なのかもしれないけど。

こんなふうにグルグル考えていると、キラキラした女子、大人しそうな女子、ひきこもりがちな女子、暗そうな女子、色んな人がいるけれど、見た目通りの充実さを持ち合わせているのかは分からないと思う。





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