グラディエーター
「何かを得るために歩き出す。何かを失えば止まり出す」
止まらぬように進まぬように、君だけを見れたらどれだけ幸せなんだろうか。
「プオーン、プオーン」
何万人の観衆の音が背中を強烈なほど掻きむしってくる。
何億人もの視線が頬を引きつねってくる。
生と死をかけた、いつ死ぬか分かりきったようで生きる道も与えられた、そんな仕事の中で、僕は生を謳歌する。
剣闘士。
これが僕の仕事であり、生きるために課せられた小さくて大きな役割なんだ。
そうやって見えなくなった苦しみを置いてけぼりにするためには、可笑しくなるほどに自己暗示という効果の浅い麻薬を塗りたくるしかなかった。
「おい31番、準備しろ」
蔑すんだ程に、冷たい眼差しで剣を携えた、一般階級の骸が私の名を呼んでいた。
もう現実逃避に耽る間も無く、未来の楽しみに手を染める暇も無く、周りからは涙と嘆きと笑いが合唱のように耳に入り込んでくる。
もう終わりかもしれない。
もうこの憎しみは携えられないかもしれない。
考えが幽体離脱していくかのように「死」という一文字が、鮮やかに愛おしいほどに目の前の意識を凌駕する。
「入れ。さっさと死んでこい。」
そんな罵声のような応援を脳裏に投げ込んで、とうとう死路に歩みを進めて行く。
そんな進み行く歩みの前には、血だらけになりながらも、どの虫も気づかぬような小さなか細い酸素を吸う同志の姿が目に見えた。
「行くのか」
「喋るな、寝てろ」
「・・・」
「死ぬなよ」
「・・・黙ってろ、」
小石が目の前に転がり落ちて、アスファルトの粒子が零れ落ちるほどに、猛々しさを失ったその目を、私は記憶することができなかった。
「カシャン、カシャン、カシャン」
まるで、急所を目掛けて切って来いというような表面的な鎧を肌に擦りつけながら、生身の相手の前で足を止める。
周りを見渡す。
苦しいほどに、可笑しいほどに、大きな大きな空白の上に立つ二人に、小さく非常に大きな狂人達が目を向ける。
その中には、自分の視界の真横には、ただ座り、何の声も上げず、何の感情も入れず、ただ不敵な笑みを浮かべる、君主らしき能面が佇んでいる。
そんな風に見えたのだった。
同じように、恨みの混じっているまともな感情を抱えた目をしているのか。
それとも早く闘志に生を植え付けたいのか。
見なければいけない相手の目は見れる間もなく、私は走り去っていた。
相手が気付いたときにはもう遅く、まるで罪人に制裁を与えるように、試合に終焉をもたらした。
そんな事実と同時に苦しい程にとてつもなく強烈に湧き上がる情念が僕の心を蝕み始めていた。
それに気づいた時には、剣を天高く携え、上げながら、血走る目を味方に、あの君主の面をした能面へ向かって走り出していた。
その時、空気の変わる民衆の感情も、危機を感じる君主の護衛の目も、全てが消え去るようにただ一人の人間に向かって、走った。
時間が増えていくように、空気の色彩が変貌するかのように、見たこともない世界にただ一人、取り残されるような感覚が私を襲った。
その瞬間、私という異常者は天高く掲げていた剣を投げた。
「ーーーー」
「ヒュン!」
その剣は、誰にも届かぬほどに、どの音よりも速く、どの希望よりも強く、華やかな軌道を皆の記憶に残して、能面野郎の肩を透かしながら、玉座の角の存在を消すかの如く突き刺さる。
はずした。もう終わった。
そんな思いの種が苗木になる間も無く。
「おーーーーー」
「ダダダダダダ」
「殺せーーーー」
後ろからどこからともなく聴こえてくるその声の主達は、その顔を見ずとも味方だということを生存本能が雷のごとく直感に発破をかけた。
一斉に皆が走り出す。
剣闘士という肩書きから足を洗うように、見せ物から、籠の中から脱却してくるかの如く、何かを抱え、何かから目を瞑っていた者達が、生気に満ちた目でこちらに走ってくる。
しかし、素早かったのは私だけで、会場の袖から武装した国家の兵士達が押し寄せてくる。
全面戦争だ。
もう止まらない。
誰にも止めることはできない。
何かが壊れるまで。
何かが変わるまで。
何かに終わりを告げるように、終わりの目が開き始める。
「ガシャーン」
一人の兵士と薄汚れた十人力の剣闘士が、最初にぶつかる。
その背中を見た剣闘士の心はさらに燃え、一斉に兵士達を道連れにするかの如くのしかかっていく。
その剣闘士達の目は、死気どころか、生気で満ちていた。
素早くもない足と、洗いきれぬ罰を負ったものも、国家から逸脱するかの如く、剣を向けて行った。
この思いを受け入れるのは、受け止め、その火を消そうとするのは、紛れもなく兵士達だが、この兵士達もどこか妙な顔付きをしているように私は感じた。
どこか儚げで、本当は後ろに向かって走り出したいような。
本当は火花を散らすよりも、大きな川を作りたいような。
そんな思いに共鳴するかの如く、私の感性は兵士の心に向いていた。
この直感の是非はともかく、この仮の回答を持っていれば、理解できるかのような、無気力に剣闘士の喰い物にされている兵士の姿が印象的であった。
こんな思考に耽りながら、私は私を取り囲む剣闘士の勢いに身を委ねて歩みを進める。
そして、我が眼差しは常に逃げゆく能面の気配を感じ取ろうとしていた。
目の前の兵士を一人、また一人と慣れた覚悟で其奴の人生に、終止符を打って行った。
剣闘士の渦は大きくなり、この勢いも上流の如く強く速くなっている。
もう一人、そう決意し、剣を振り被ろうとした瞬間、横にいた同志が標的の兵士を葬った。
それと同時に、高貴な金属を纏った左腕が私の利き足の動きを奪った。
この力強さは、どこか強い意志を伝えるように、私の動きを静止させた。
とどめを刺そうと、下にのさばる兵士の顔に目を向けた。
しかし、この兵士からは不思議と敵意を感じ取れなかった。
私は一秒だけその兵士の目を見た。
そんな時間など刹那的で、無いに等しいが、私の直感は鋭い。
潜在意識が何かを感じ取ったのだ。
その目は、どこか同じ方向を向いたような色合いであった。
しかし、この兵士はここで息絶えてしまった。
私は妙な疑念を抱えながらも、振り返り、静止させてていた足を再動させた。
けれど、その足取りはどこか妙で、何かに後押しされてるような感覚があった。
「止まれ、止まれー」
大きな声で、兵士らしき人物が声を荒らげていた。
しかし、そこの安全地帯もじきに剣闘士の渦に飲み込まれるだろう。
そう思いながら、驚くことに私も声を上げていた。
「聞け。聞いてくれー!我々は敵ではない。むしろ君達と同じ道を歩く同志なのだ。」
自分でも何を言っているのか、混乱しそうではあったが、納得したような意思を持っていた。
「誰だ貴様は。もう一度言う。止まれー」
兵士の長が、図太い声色を空白地帯にいる我々に投げかける。
「兵士達よ。聞いてくれー」
「誰だお前、調子に乗るな。」
叫ぶ私に向かって、高貴なドレスを見に纏った兵士達が、自分に声という弾を打ってくる。
「私は革命児だ」
自分でも何を言っているのか全くと言って良いほどわからなかった。
しかし、この声は不思議と場を支配できるような予感が漂っていた。
「兵士達よ。敵は我々ではないだろう。」
「なんだお前黙れ!」
「兵士達よ。もう一度言う。敵は我々ではない。」
「敵はあいつだ!」
その革命の産声とともに力強い指は、一筋の光を国家の主に飛ばしていた。
「はっきりと言おう。敵は王だ。」
「耳を貸すな、あいつを殺せー!」
兵隊長が兵士達の闘魂を掴もうと必死に足掻く。
「何度でも言う。敵はあいつだ!我々の敵は一人だ!」
その瞬間、電撃が走るかのような集合意識が革命児を見る者達の胸に響いた。
兵士は少し留まりながらも、
「何をやってんだ。前を見ろ。」
気持ちを切り替えようと必死に迫り来る剣闘士に意識を戻す。
「行けーー行け、あいつを殺せー!」
長が何度でも声を荒げる。
その瞬間、一人の兵士が声を上げる。
「俺はやる。お前らなんてどうでも良い。ただ、あいつを殺したい。」
その意志に突き動かされ、上げられた刃は私だけを標的にしていた長に向けられた。
先程まで感じていた視線は虚しく消えていた。
その兵士は、背後から長の寿命を今にしてしまった。
その光景は、兵士にとっても、剣闘士達にとっても異様なほどに闇で満ち溢れていた。
少し驚き、身がすくんだように数秒の間、動きが静止した剣闘士達であったが、また生気を取り戻し、目の前に立ちすくみ迷い、動きが鈍い兵士たちに飛び掛かっていく。
その中で、一人の兵士が覚悟を纏った表情で剣闘士達に背を向けた。
そして、能面の方へ向かって走り出した。
その閉塞感を打ち破るような異質な背中に感化された兵士が、霧が晴れたのように、一人、また一人と向きを変えていった。
前から後ろへと、剣士の背後を剣闘士に見せていく。
そんな姿を見た剣闘士達も、兵士達と同じ方向へ向かって闘魂を向けていく。
「あそこだーあいつを殺せー」
面白がっていた観客達も思いは同じで、憎き能面野郎を逃さずにこの戦場へと放り出した。
能面野郎はひどく醜い顔をしていた。
能面のように見えていたその表情はひどい有様であった。
まるで、可愛げと愛おしさを毒抜かれた醜い赤子のような面をしていた。
面白がる表情をする民も。
憎い顔をする国民も。
目的は同じで、この王を殺めたい。
私利私欲にコントロールされる国家の長を殺めたい。
それだけの思いで、国民たちは王の行く末を見守っていた。
そこで、進行方向を変えた兵士たちは、ある者に道を開けた。
自分である。
望んでいた能面のような面をした一人の人とは思えないような男に鋭い刃を向ける。
「やめてくれ、やめてくれー。」
毅然とした態度を選択する余地など、一寸も無く、ただ泣き叫び、命乞いをする姿にはある種の尊敬の念が見えた。
ここまで自分の命が惜しいのか、これほどまでに周りの気持ちが見えていないのか。
その穢れた能面の自我を見た私の中には、息苦しさの混じった憂が発現した。
「もう終わりだ」
そう一言を告げ、剣を振り被ろうとした。
しかし、私はこの能面を前にしていとどめを刺すことはできなかった。
それは、これほどまでの経験と色についた数時間をくれたのは、紛れもなくこの男のおかげでもあると微小に感じてしまったからである。
そう思うと、なぜか愛おしく、感謝の念さえ湧き出てきてしまっていた。
あと一撃、この一撃で全て終わるのに、何が僕を止めるんだろうか。
「早くやれ。やってくれよ!」
後から誰かの声が聞こえてくる。
その声は聞きたくならないほど、自分の本心に共鳴していた。
僕もそうしたかったからだ。
それでも脳内に反して、私の利き手は上がることを知らないままだった。
「お前がやれないなら俺がやる。小心ならば立ち去るがいい。」
少し前まで対峙していた鎧の男が声を出す。
「今まで散々こき使ってくれたな。もう終わりだ。お前は。愛することを知らず、人を道具のように扱ってその成果はお前の私利私欲に溶けていく。そんな王に誰が従う。あの世でしっかりと学べ。終わりだ。」
そう告げ、一人の兵士が剣を振り上げた瞬間、その刹那的な閃光が瞼を写した時に、僕も剣を振り上げた。
「ガキンッ!」
その剣は、兵士が王に向けた刃を振り払った。
「何をする?」
「邪魔をするなら、お前を殺すぞ。」
「おい、やれよ。さっさとやっちまえ、そんなやつ生かしてんじゃねーよ」
「そうだ。そうだ。やれ、やれー」
周囲の黒煙のような感情も最高潮に達していた。
「俺にやらせろ。」
「いや俺にやらせろ」
「いや俺だ」
押しつぶされるように剣を携えた屈強な男達がこっちに寄ってくる。
その瞬間、赤い血飛沫が走った。
驚愕の感情と共に、異様な苦しみの表情を抱えた能面が見えた。
すべては終わった。
でもその瞬間、幸せの光も消えた気がした。
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