共産主義絶滅は中国解体から

共産主義絶滅は中国解体から
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」301/通算732 2024(令和6)年6/20/木】「福翁」こと福澤諭吉先生を尊敬している。明治の文明開化に際して先生の「学問のすゝめ」は日本人に多大な影響を与え、今でも良書として読み継がれている。小生が愛読している産経新聞に寄稿している識者なども福翁ファンが結構多いようだが、逆に言えば否定的な人々、政敵も多いということだろう。産経2024/6/11、鵜野光博・産経東京編集局文化部次長の「東大が『真っ先に共産主義を唱える学校』になると予言した福澤諭吉 『反・東大』の思想史」を以下転載する。

<日本の学歴社会の頂点に立つ東京大(帝国大)に対し、慶応義塾を創設した福澤諭吉、早稲田大など在野の対抗勢力は、いかに対抗し闘ったのか。5月に出版された『「反・東大」の思想史』(新潮選書)が、東大を巡る複雑かつアンビバレント(二律背反)な感情を描き出していて興味深い。特に福澤は帝大を批判しつつ、息子2人を帝大に通わせようとし、さらには帝大への共産主義の侵食を予言もしていた。同書の一部を紹介する。
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◎冷遇に態度硬化させ: 『「反・東大」の思想史』筆者の尾原宏之さんは昭和48/1973年生まれ。早大出身で、NHKに入局して芸能番組などを手がけ、退職して現在は甲南大学教授を務める。同書については「東大を中心とした構図で日本の近現代史を見てみた」と語る。

同書などによると、福澤が開いた慶応義塾は安政5/1858年に創設した蘭学塾を起源とし、明治4/1871年設置の文部省より歴史は古い。開塾5年の文久3/1863年から明治4/1871年までの入門者数は1329人を数え、「日本中苟(いやしく)も書を読んで居る処は唯慶応義塾ばかりという有様」(「福翁自伝」)という存在だった。

しかし、明治10/1877年に東京大が創設、明治19/1886年に帝国大へと再編される一方で、慶応義塾は政府に特別扱いを拒否されるなど冷遇が続いた。それとともに福澤は態度を硬化させ、教育に国がカネを出すことを否定する論陣を張り、さらには官学の全廃を求めるようになる。

一方で、東京大が創設された翌年、福澤の長男一太郎と次男捨次郎が東京大学予備門に入学した。尾原さんは「現代でも私大教員が自分の子女を勤務校ではなく東大に進学させることがたまに話題になるが、福澤はその先駆けであった」と書く。しかし2人とも退学しており、大きな理由は健康状態にあったとみられる。

やがて福澤は「富家の師弟は上等の教育を買ふ可く、貧生は下等に安んぜざるを得ず」(「官立公立学校の利害」)として、金持ちの子弟が高度な教育を受け、貧乏人は低いレベルの教育で満足するのが当たり前だと断言し、官公立学校が学費を安くして「貧家の子弟」に門戸を開いていることを批判するようになる。

その理由の一つが、「学問を修め精神を発達させると、どうしても社会の不完全さが目につき、不満を抱くようになる」(同書)からだった。「天は人の上に人を造らず」とした自著「学問のすゝめ」を否定するような主張だが、福澤が同時期に周囲に語り出したのが、共産主義への懸念だったという。

尾原さんは「知識を得てもポストを得られない人が不満を持ち、結社集会や新聞演説といった手段に走り、暴れだす。それをあおる思想が西洋で出てきていることへの福澤の気づきは、非常に早かった」と指摘する。

ある者が「真先に立って共産主義を唱える学校が日本にあるとすれば、それは慶応義塾でしょう」と尋ねたのに対し、福澤は「それは違う。将来真先に立って共産主義を唱える学校は政府の学校・帝国大学に決りきっている。今に見ろ、この学校が共産主義の根強い根拠になり、学生は勿論教授の間にも共産主義を沢山出し政府は非常に困るに相違ない」と答えたという。

◎「マルキストと手を握り」: ここで『「反・東大」の思想史』の終盤にある「小田村事件」に触れてみたい。昭和13/1938年、東大法学部の学生、小田村寅二郎が東大での講義の実態を外部の雑誌に論文として書いて明るみに出し、最終的に退学処分となった「事件」だ。
論文で小田村は、日中戦争で多くの日本軍将兵が血を流しているさなか、法学部の国際法講義で他国との条約の拘束を免れるためにはどうすればよいかという試験問題の答案に教授が「自国が当事国以外の第三国に併合せられればそれでよい」と書いた者が10人以上いたことを笑いながら紹介し、学生を爆笑させたことに憤激した。
また、小田村の手になる「昭和史に刻むわれらが道統」(日本教文社)によると、別の教授は「我々(自由主義者)は今こそマルキストと手を握り、共に人民戦線として右翼に砲弾を打ちこまねばならぬ」と熱烈な口調で述べたという。福澤の「予言」は、的中していたことになる。

小田村は仲間と日本学生協会を設立するなどして学風改革に取り組んだ。『「反・東大」の思想史』はこれを「反・東大」の文脈の中に置くが、小田村たちの行動は、東大が日本最高学部でなければならないとする自負と一体でもあった。尾原さんは「東大に対する反逆ということでは大きい運動だが、愛校心の塊のように見える」と話す。

◎露骨な学歴差別の時代: 同書では、早大の創設に東大学生らが関わっており、官学廃止を唱えた福澤のような東大批判の明快さはなく、アンビバレントな東大観が特徴的だったこと、「官吏の東大、実業界の慶応、新聞記者・政治家の早稲田」といったカラーが明確にあったこと、学問で東大を凌駕しようとした一橋大、東大への対抗心を燃やした京都大などの動きが、当時の文献を基に描き出されている。

尾原さんは執筆の動機に絡み、「今ほど学歴差別が露骨に語られる時代はなかったのでは」と話す。ひと時代前ならインターネットの掲示板に書かれた陰口は、交流サイト(SNS)で一般に可視化され、テレビで「東大生」を看板にする番組も珍しくない。本書の執筆で学歴差別意識の源流を追って調べていく過程で、「東大に対するリアクションで世の中ができあがっていることに改めて気づいた」という。

幕末にあった私塾は、明治の近代化の中で大半が姿を消し、慶応義塾も翻弄された。「あと100年時間があれば、私塾も慶応も違った発展の仕方があったのでしょう。しかし、とにかく高速近代化に対応するしかなかった。その辺のいびつさが、今のいろんな問題の源流にあるのかなと感じました」と尾原さんは語る>(以上)
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「東大」・・・1969/昭和44年の「東大安田講堂事件」で入学試験が中止され、本来は東大を目指す学生の内、懐具合がパッとしない家庭の英才が、小生の目指していた横浜市立大学に押し寄せたのにはビックリした。
なぜ小生が横浜市大志望なのか、と言うと(外語大と上智大に振られたことはさて置き)、子供の頃から父が商売柄、日経を購読しており、小生は人気シリーズの「私の履歴書」で森ビル創業者の森泰吉郎(もり たいきちろう)氏を知ったからである。当時、氏は横浜市立大学の商学部長・教授を務めていたのだ。
ところが横浜市大商学部に入学して簿記の授業で思い知ったのは「俺は商売、銭勘定には興味がない!」で、それなら当時若者に人気だった「反資本主義のマルクスの経済学・哲学を学ぶべし」となったのが失敗の始まりような・・・まあ、失敗があったからこそ今があるような・・・今でも複雑な気持ちである。
当時、大学教授にはマルキストが珍しくなかったから、森先生も随分イジメられたようだ。WIKIによると《森泰吉郎: 横浜市立大学で商学部長・教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果、学内抗争に巻き込まれ、地方公務員法の兼業禁止違反として退職した》

口出しするな、我こそ正義だ、パージするぞ!・・・左巻きの日本学術会議の常套手段だが、学者も教授もピンキリだ。天下国家の利益より自分の利益を優先しがちなのだろう。油断大敵、私利私欲に流されないように常に警戒しないと立派な「戦老ヂヂイ」になれはしない。

かつて東大生は卒業すると公務員になる人が結構多かったようだ。「政治家は選挙でいつ消えるか分からない、日本を安定的に統治するのは我々だ!」という気概があったのだろう。《日常会話において「官僚」ないし「高級官僚」と言う場合、霞ヶ関の中央官庁で政策に携わる国家公務員、中でも国家公務員Ⅰ種試験や総合職試験等に合格して任官したキャリア公務員を漠然と指すことが多い》(WIKI)

城山三郎著「官僚たちの夏」(1980/11/27、新潮文庫)を思い出した。解説によると《「国家の経済政策は政財界の思惑や利害に左右されてはならない」という固い信念で通産行政を強引、着実に押し進め、次官への最短コースを疾走する“ミスター・通産省”風越信吾。高度成長政策が開始された1960年代初めの時期に視点をすえ、通産省という巨大複雑な官僚機構の内側における、政策をめぐる政府・財界との闘いと、人事をめぐる官僚間の熱い闘いをダイナミックに捉える》(以上)

官僚は「俺が日本を支えているのだ!」という矜持がみなぎっていたのだろうが、毎日新聞2024/1/6 「深刻化する霞が関離れ 東大生が官僚になりたがらないわけ」という時代になってしまったよう。以下一部転載する。
<霞が関に多くの人材を輩出してきた東京大学。東大から官僚になるのが典型的なエリートコースともいわれたが、今はそんな学生が激減した。なぜ「公共」の世界を忌避するようになったのか。
◎減り続ける東大出身官僚: 「東大が官僚養成機関? いつの時代のことですか?」。昨年10月下旬、東大・本郷キャンパス。安田講堂近くの東大新聞編集部で、教養学部3年の金井貴広さん(20)は当惑した表情でこう語った。
金井さんは記事を書くために東大出身の官僚たちをよく取材する。その多くは「仕事に誇りを持っている」という。一方で、世に発信されるのは「ブラック霞が関」ともいわれる過酷な労働を強いられる官僚像。金井さんは「自分を滅して公共のために頑張る覚悟がないと、霞が関には足を踏み入れづらい」と話す。

2023年度の国家公務員試験で総合職(キャリア)の合格者は計2450人。このうち、東大出身者は367人(前年度比47人増)で、出身大学別では2位(京都大169人)以下を引き離してトップだ。しかし、10年前の529人からは(修一:政府の政策もあり?)激減しており、合格者に占める割合も28%から15%に下がった>(以上)

「滅私奉公」「清貧に甘んじる」「天職と心得て努める」といった官僚志向の時代はやがて消滅し、「楽して儲けるのが一番、汗水流すなんて愚の骨頂」という人ばかりになるのかも知れないが、その先にあるのは亡国ではないのか。その際は「カネを持って他国へ移住すれば良い」という手があるが、難民を受け入れる国は減るばかりだろう。少なくとも先進諸国は有象無象の自称“難民”や不法移民にウンザリしている。
国家は、たとえ資源に恵まれていなくても国民が「富国強兵、命懸けで祖国を守り抜く!」という勇武の精神を共有していれば強靭だろう。一方で裕福であっても愛国心のかけらもない私利私欲の人々ばかりでは速攻で無血開城を選択するに違いない。

習近平・中共はどうするのだろう。14億の人口を抱えていても、かつてはゴーストタウンで一儲けしていた「銭ゲバ派」は今や勢いがすっかり衰えて青息吐息。大卒の若者は求人が激減して戦意喪失の「横たわり族」ばかり・・・このままでは亡国は避けられないからトウ小平流の「改革開放」で経済を立て直すべきだと多くの識者は思っているだろうが、習近平には馬耳東風。台湾、日本、アジアを制圧し、毛沢東と並んで歴史に名を刻みたいという私利私欲の「戦狼外交」でひたすら亡国一直線だ。

産経2024/6/20、「石平のChina Watch:経済問題に乗り出す公安警察」はこう結んでいる。
<公安部が地方債務や金融などの経済領域の問題対処に乗り出そうとしている。中央政府が、それらの問題を解消することを半ば諦めており、「最悪の事態が生じることを想定している」ことを意味するのではないか。最後の頼りは結局、警察という暴力装置以外にないということだ。
暴力装置を用いて経済危機に対処しなければならないことは逆に、政権にとっての「最終局面」が近づいてきていることを示しているのではないだろうか>

中国を複数の国に分断し、自由民主を教え、二度と戦争できない国にする・・・米国GHQ式去勢手術の効き目は抜群だ。 自由陣営は団結して中国解体に当たるべし。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」ryochan@polka.plala.or.jp
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