我が師「小塚光治先生」の生涯(2)

我が師「小塚光治先生」の生涯(2)
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」270/通算701 2024(令和6)年2/13/火】このところ終活で忙しい。父の形見の大きな金庫は開け方を忘れてここ5年ほど閉じたままだが、暗号数字の記憶を頼りに2時間かけてようやく開けゴマ! 2度とロックできないようにした。大体、金庫に隠すほどのカネや貴金属がないのだから、カミサンの酒蔵にした方が余程いい。並行してキッチンのブラインド掃除。随分汚れていたが、造りがとても柔(やわ)なので4時間かけてマジックリン・ハンディスプレーでそーっと掃除し、かなり綺麗になった。

整理整頓やこまめの掃除、修理・・・分かっちゃいるけど人は安きに流れるから、切羽詰まらないと腰を上げない、危機にならないと動かない。これまでも、これからもそうなのだ。「艱難汝を玉にす」、ひどい目に遭って初めて反省する、反省してもそのうち忘れる・・・危機を肝に銘じたタフな人がリーダーになるが、それもいつかは消滅する。諸行無常、盛者必滅の理、ま、それでいいのだ、そういうものだ、と割り切った方がラクチンだが、有事、災難に備えてシェルターとか別荘とかキャッシュとか、そこそこの備蓄は必要なのかも知れない。子曰く「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」、それくらい難しい事、悩ましい話だ。考えただけで頭が痛くなるからみんな何もしない?・・・笑うしかないな。

承前。小塚光治先生の「やさしい川崎の歴史」第5版(1990年発行)を読み始めたら、小生が知らなかった「もう一人の小塚光治先生」が縦横無尽に「志」「主張」「歴史観」を唱えていてびっくりした――と前回書いた。その背景には川崎市の地政学的な歴史があり、ちょっと長いが説明しておきたい。

東京と神奈川県の間を流れる多摩川。今は橋の中央に「←神奈川県 東京都→」と看板が出ており、両岸には頑丈な土手が築かれているが、それ以前は日本有数の「暴れ川」だった。国土交通省・関東地方整備局によると――
<多摩川は江戸時代から周辺に多くの人が住むようになり、洪水の被害も大きくなっていった。多摩川は本来「あばれ川」だったのだ。急勾配の川で、洪水時の流れが強く、その強い流れとともにたくさんの砂利が混ざって流れてくるので河岸が削られやすい。最近ではめったに大きな洪水は来ないから良いようなものの、もし来てしまったら、実際ひとたまりもない>

暴れ川・・・1958年の台風で多摩川支流の二か領用水が氾濫して7歳の小生は避難する際に深みにはまって溺れかけたが、中学生の頃でも自宅のすぐ近くに沼地があった。今でもその先には平地から3メートルほど高いところに不自然な道があり、何だろうと思っていたのだが、ナント昔の土手だったのだ。大雨になると多摩川は「ここまで来ていたのか!」とビックリ。鎌倉時代の1232年に堤防破壊の記録あるから人々は1000年以上も氾濫に苦しんでいたわけだ。1911/明治44年に地元の人々が多摩川の堤防強化につながる工事を帝国議会に請願、翌年4月に法が施行された。これが明治帝による最後の仕事のようで、この年の7月30日に崩御された。小塚光治先生はこう記している。

<1912/明治45年9月14日、天皇の御霊柩が京都に送られ、お召列車が東海道を下りました。大勢の川崎町民が悲しみのうちに見送りました。明治に生まれ育ち、明治国家の発展とともに生きてきた人々にとって、明治天皇はオールドニッポンの代表者であり、心の支えでもありました。そして時代は、これまでと違って、民衆の自覚が歴史を動かすようになり、新しい大正の時代を迎えることになりました。

【政党内閣を作る運動】 このころから新しい動きが内外で起こり始めていたのです。明治時代の日本の政治は藩閥や官僚と言われる一握りの元老によって行われたことに国民の不満がだんだん高まっていきました。そして大正元年から2年にかけて、憲政擁護運動が尾崎幸雄たちによって進められました。世論の支持を受けないで作られた内閣に反対する6000人もの人々が議事堂を取り巻いてデモを行い、このため内閣はついに倒れたのです。これは「大正政変」と呼ばれ、民衆や世論の力が政治を動かすようになった点が注目され始めました。

【第一次世界大戦と日本】 19世紀(1800年代)の終わりころからヨーロッパの国々は盛んに植民地を支配しようとしていたので、大国同士が鋭く対立し、ちょっとしたきっかけですぐに爆発するような危険状態でありました。
1914/大正3年6月、バルカン半島のサラエボでオーストリアの皇太子がセルビアの青年に暗殺されたことから、ヨーロッパ全体が戦争に巻き込まれ「第1次世界大戦」が始まったのです。
大戦が起こると日本はイギリスと同盟を結んでいたことや、中国に進出する考えがあったので、連合国側を支持し戦争に参加しました。そしてドイツが根拠地にしていた中国の青島(チンタオ)やドイツ領南洋諸島を占領しました。
これをきっかけに日本の指導者は1915/大正4年1月、「21カ条の要求」を中国に突き付け、いろいろな権益を認めさせようとしました。中国は強く反対しましたが、やむなく受け入れました。しかし中国の人たちはこの5月7日を「国恥記念日」として、いたるところで排日運動を進めるようになりました。

【戦争景気】 日本は第一次世界大戦に加わりましたが、ヨーロッパの国々と違って、あまり大した戦争をしませんでした。しかも、各国からの軍需品の注文がたくさん来たので、工業や貿易がすごい勢いで伸び始め、日本中は戦争景気に浮かれ、にわか成金がたくさん現れました。
しかし労働者の生活は少しも良くならず、ロシアでは1917/大正6年、労働者・農民たちが革命を起こし、民衆の生活を苦しめてきたロマノフ王朝を倒し、共産主義政府を作りました。
日本はこの革命をつぶすために、イギリスやアメリカとともに1918/大正7年、シベリアに出兵しましたが、うち続く戦争のために物価は大変値上がりし、特に商人の買い占めでコメの値段は毎日のように上がったので、人々の生活は苦しくなりました。1918/大正7年8月、富山県の漁村の主婦が起こしたコメの安売りの要求をきっかけに米騒動は全国的に広がり、日本中を揺り動かしました。
このため内閣は倒れ、代わりに政友会の原敬が新しい首相になりました。これは日本で初めての政党内閣で、また、世間は彼を「平民宰相」と呼びました・・・>(以上で引用終わり)

1917/大正6年の「ロシア革命」・・・遡れば1904/明治37年2月~1905年9月の日露戦争(満洲/中国東北部と朝鮮半島の支配権を巡る戦争)で新興の日本に敗けた(勝てなかった)老舗のロマノフ王朝は弱体化していくばかりになった。
<不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、対日戦敗北を機に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカン半島に向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。
このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの進出を要求するオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。また、戦時中の国民生活の窮乏により「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの叛乱」などより「ロシア第1革命」が発生することになる>(WIKI)

かくしてレーニン、トロツキー、スターリンらによる1917/大正6年の「ロシア第2革命」でロマノフ王朝は抹殺され、内戦を経て世界初の「マルクス流共産主義国家」ソ連が誕生する。当時の先進国のインテリはこの共産主義革命に欣喜雀躍、日本では「大正デモクラシー」の起爆剤になった。
<「大正デモクラシー」は、その定義内容はいろいろだが、いずれも(清朝を倒した中国の)辛亥革命から(共産主義を警戒する日本の)治安維持法制定までの時期を中心として、1917/大正6年のロシア革命や、1918/大正7年のドイツ革命、米騒動を民主化運動の中核と見なす点においては共通している。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である>(WIKI)

大正デモクラシーは日本では実に多くの「マルクスボーイ」を産み育てた。小塚光治先生も「共産主義こそ正義、最高の政治形態」とのめり込んでいったようだが、当時の先進国のインテリは皆似たようなものだった。米国が「ソ連は危険だ、世界を共産主義化しようとしている、このままでは自由民主国は乗っ取られる、レッドパージ、アカ狩りすべし、冷戦だ!」と目覚めたのは終戦から5年後の1950年からである。米国占領下の日本でも共産党員は解雇され、アカと認識されたインテリは公職追放された。共産主義国家を目指していた日本社会党でさえGHQには逆らえず、非武装中立と日本労働組合総評議会(総評)の結成でレッドパージを進めた。これ以降、日米を含めた先進国の共産主義者は「社会主義者」と唱えるようになったが、暴力革命を放棄しただけで「平等・バラマキ福祉」を良しとする中身は今の“立憲共産党”でも大して変わってはいない。

そう言えば最近、思い出したのだが、小塚光治先生は1965年あたりに川崎市の市長選か市議会選で社会党から立候補するつもりだったが、党の支持を得られず無所属として出馬し、党から除名されたらしい。純粋に共産主義革命を絶対善として目指す小塚光治先生は穏健路線の社会党主流派にとっては“異端の教条主義者、時代錯誤のやっかい者、危険人物”に見えたのかも知れない。

川崎市麻生区の地域情報紙「メディ・あさお」(2018/11/25)がコロナ禍で商売あがったりでバックナンバー紹介をしているが、1959/昭和34/12/1号で小塚光治先生の言をこう紹介している。
「多摩文化学園は子供のすぐれた特色、天分を尊重し、充分の実力を養い、あわせて精神教育も重視して有為の人材を養成するために生まれました」

その後、別の記事「桐光学園創立者の原点『多摩文化学園』」で記者は「多摩文化学園は教育者としてすぐれた業績を持つ小塚光治氏の永年の念願が具体化したといえるもので小、中、高校生の学習を指導補習」「場所は宿河原駅前の浴場ぎわで、三教室と事務室からなる採光の完備した近代的校舎」などと、こう紹介している。
<「多摩文化学園は今の桐光学園につながる、小塚光治の夢と目標が感じられる言葉ですね」と現理事長の小塚良雄さん(小塚光治氏の養子)。「創立者(小塚光治氏)は19歳で教壇に立ち、先の大戦で召集されたものの『自分のやるべき生き方ではない』と戦闘に加わることを拒否。戦後高校教師、大学講師、県議などを務めるうちに自分の学校を作るという思いを強くしていきました」

実際には「多摩文化学園」ではなく、中学生対象の英語・数学に特化した私塾「多摩英数学院」として開設。「私塾では『学園』と名乗れない、また明確に内容を打ち出した方がいい、ということで名称を変えたようです。私も生徒として授業を受けましたが、吉田松陰の松下村塾のように、次代を動かせる人材を輩出したいと熱く語っていました」

現在の「みどり幼稚園」はこの塾を改装して1965年に開設。1972年には「学校法人桐光学園」を設立し「寺尾みどり幼稚園」を開園、1978年には栗木の地に高校、中学(桐光学園中学校・高等学校)、小学校も開校し、念願の一貫教育を実現した。小塚良雄さんはこう振り返る。「小塚光治が私塾開設から貫いた思いは校訓の一つ『天を敬い世の一隅を照らす』に込められています」>(以上)

この記事で小生が気になったのは小塚光治先生が「先の大戦で召集されたものの『自分のやるべき生き方ではない』と戦闘に加わることを拒否」ということ。WIKIにはこうあった。
<徴兵制のあった戦前日本の「兵役法」によれば、兵役を免れるために逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなす者は3年以下の懲役。現役兵として入営すべき者が正当の事由なく入営の期日から10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮。戦時は5日を過ぎた場合に1年以下の禁錮。正当の事由なく徴兵検査を受けない者は100円以下の罰金に処せられる(74条以下)と規定されていた。敗戦後のポツダム命令により兵役法は1945/昭和20年11月17日をもって廃止された>

体が弱い、病気がち、とかなら兵役免除になるのだろうが、小塚光治先生のような優秀なアカは確信犯的に兵役を拒否するだろう。そのマインドはこうである。
「帝国主義国家は支配階級の利益のために版図拡大を目指して民を徴発し戦争を繰り返している。その一方で世界は人民の人民のための人民による『戦争なき世界』を目指して共産主義革命へ向かっている。諸悪の根源、帝国主義による戦争に駆りだされて死傷するくらいなら、兵役を拒否し、共産主義社会実現のために命を保存すべし」

しかし、大東亜戦争で日本が完敗し赤色革命の好機が到来したものの、アカ勢力は1950年には「レッドパージ」で大打撃を受け、さらに1960年代は高度成長で民の暮らしは向上、1970年代には共産主義はすっかり「科学から空想」になってしまった。吶喊小僧の小生も独房で学ぶうちに共産主義の洗脳から少しづつ離れていき、今ではすっかり反共孤老になった。晩年の小塚光治先生の座右の言葉は「克己・気力・誠・奉仕・敬天」だったよう。

共産主義は「一度アカ、一生アカ」が普通のピラミッド型階級制世界である。党員はエリートであり、幹部となれば殿上人だ。一方で庶民はほとんど家畜、奴隷で、24時間365日監視され、生殺与奪を党にしっかり握られている。この異常で狂気的な世界から離脱し、「天を敬い人に尽くす敬天・奉仕」へのコペルニクス的大転換が今なお進んでいる・・・そこに辿り着くまで小塚光治先生も悩みと葛藤の連続だったろう。小生にとって小塚光治先生は今なお「先生」「良き先輩」である。(以上)
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