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「空からの便り」シベリア 抑留体験記  

                           青木 龍雄
プロローグ
この手記は、私の『シベリアに捕虜として抑留された体験』記録である。
『空からの便り』は、第1章 「シベリア」へ 第2章 「帰国」からなる。
エピローグに、私の履歴を記している。
すでに故人になっている私だから、子孫に残した便りを「空から伝えよう」と考えたのである。日本の子孫たちに伝えたい戦争体験のメッセージである。 

 第一章 『シベリア』へ


奉天の近郊「二台子」を引き上げて、千代田公園で解散という言葉を信じ、夕闇の迫る頃足どりも軽く、奉天へ向かったのは、終戦、武装解除後二週間位してのことであった。
途中、突然現れたソ連軍将校の案内で、北陸の通信部隊に収容された。
翌日 明るくなって気が付いたのだが、兵舎、営庭を含む広大な地の周りは有刺鉄線でかこまれ、三十メートル位の間隔でソ連兵が自動小銃をもって立っていた。
瞬間 顔から血のひくのを覚えた。千代田公園での解散などもはや考えられない。
 

強制労働に就く日本兵


捕虜になる
大変なことになったと悪い予感に呆然とした。流言・飛語が乱れとぶ。
「大和民族を抹殺するため、男はみんな南方へ連れていかれる」「睾丸をぬかれて…」根拠のないことだが、みんな不安におののいた。
食糧が乏しいため、昼食はなく、朝夕は僅かな米に梅干、たくあんの類だけだった。奉天上空の黒煙を見たり、近く銃声の響きを聞いたりするにつけ、留守の家族を想い、ひたすら無事を祈って、数日が過ぎた。
そんな或る日、ソ連将校の伝達として、「満洲国は、ハルピンが境いとなり、以北はソ連領、以南は中華民国に分割されたので、和明日部隊はハルピン以北へ移動し、ウラジオストックを経て、日本へ帰ることになった…」この声明にみんな悲喜交々ながら活気づいた。
人は藁をもつかむ逆境の時、甘い言葉を冷静に判断分析する余裕をもたない。
若しかしたら,ウラジオ通過でと天佑を念じた  

シベリアで捕虜になった


貨車が動き出した
翌日午前、北陵から皇姑屯へ,午後長い有蓋貨車が到着、千名の歩兵部隊は一車輌に五十名位ずつ詰めこまれた。
中央には大きな扉があり、ほかに四ヶ所小窓がついて、明りには不自由はなかった。貨車が動き出した時、誰が音頭をとるともなく、「さらばラバウルよ またくるまでは…」を[さらば奉天よ またくるまでは、しばし別れの涙がにじむ…」とかえて合唱になった。
悲しく、切ない思いを際に気をまぎらせたのもしばらくで、みんな無口でこれからの先を案じ不安の夜を迎えた。汽車はノロノロと進み、三十分位動いては止り、二十分走っては止るといった進みようだった。

副食物は、塩と梅干
九月に入っての満洲の夜は冷えてくる。が、人・貨車の中はゴザや葉が敷いてあるのと、集団で居るので苦にはならなかった。汽車が昼間長く止る時は、ソ軍将校の指示で一斉に飛び下りて分隊、毎飯、食炊さんをした。米は各自支給された僅かなものを出し合うのだが、この時ばかりは嬉しかった。副食物は塩と梅干位だがうまかった。飯盒半分位の飯を三食にも四食にも分けて食べるのである。
飯盒炊さんのあとは厳重な人員点呼が行なわれ、逃亡は難しかった。
大・小便については、貨車が止った時、「三十分止るから用をたせ」とソ軍の指示があり、みんな一斉に飛び下りて用を足す。約1000人が線路の両側に並んで尻をまくる風景は異様だが壮観である。用を足してみんな生生した顔で車に乗り込んでくる。
勿論ソ連兵は銃を向けており、最後に一車輛毎屋根に乗る。

ハルビンまでの汽車の中で
皇姑屯を立って、四平街を過ぎ、新京を越して十日余り、ようやくハルピンに着いた。以前、スンガリーやキタイスカヤで遊んだ記憶もあり、少しは懐かしく、貨車の窓から注意深く周囲を窺ったが、領土を境にするような気配は少しも感じられなかった。
矢張りハルピン以北は、作り話だと思ったが、兵隊達には言わなかった。
みんなウラジオを経て日本に帰るのだと思い、はかない夢に託しているのだ。
ハルピンを発車した頃、学生時代国語の時間に出てきた漢字で「落莫」という語を思い出した。
この何とも形容しがたいもの淋しい気持、これが「落莫」というのだろうと思った。以後ノートの題名に「落莫」と名付け、少しずつ日誌のようなものを書き綴ったが約二年位してから、記録を書いたものが見つかると処罰されるというので、残念だったが焼いてしまった。

兵隊さん「悔しい!!」
たまたまその頃、止っていた吾々の貨車の横をノロノロと南下して来た無蓋車に出会った。長い車輌の何れにもぎっしり人が乗っている。驚いたことにみんな上半身は裸体にちかく、女の人は上腰に麻袋を巻き付けている程度である。みんな絶句し息をのんだ。
前にも何度か南下してくる避難車は見かけたが、こんなひどいのははじめてだ。
「兵職さんくやしい!」と呼ぶ声にみんな思わず手をにぎりしめ、涙ぐみ、背のうから、靴下、手拭、石けん、仁丹など思い思いに投げ込んだ、こんなみじめな切ない思いをしたのは始めて、戦争のむごさを改めて知り昼をかんだ。   

「脱走しよう!」という誘い
「北安」を過ぎた頃、
同乗の第二分隊長の梶原長が、思いつめた顔で、「青木斑長逃げよう! たまらないんだ、捕膚だ、永久に帰れないぞ」と説くような押し殺した声で熱っぽく呟く。
「今度止って動き出したら窓から飛び下りる」と言う。
夕闘は迫っているが、一車輛ずつ屋根にソ連の警戒兵が銃を持って見張っている。暗くなれば、或いは見つからないかも知れないが、ハルピン以北まで来てしまっている。もう遅い。
「よせ、みんなで群れているから安全なんだ。今は集団でいるのが一番安全だ」と諫めるが、形相は異常だ。思いつめて目がすわっている。
「住民の襲撃も予想される、夜は狼もいる、食糧もない、丸腰で武器もない、逃亡は無理だ」とかんでふくめるように諭すがきき入れない。
「ハルビンまで行けば何とかなる」という。
同乗の隊長に知られたら大変なことになる。
然し、思いつめた梶原伍長の意を変えることは出来なかった。
車がゴトンと動き出した。外は闇だ。
先きに、梶原伍長が、そして次に若い衛生兵があとに続き小窓から抜け出た。
周りの者は息をのんだ。銃声に気をつけたが どうやらその気配はなくホッとして無事を祈った。
四年後舞鶴に帰還し、百三十旅団歩兵部隊の復員者名簿を調べたが、梶原伍長の名も衛生兵の名も見あたらなかった。
翌朝の停車時の点呼で二名の逃亡が発覚、隊長はひどく警戒兵に殴られた。

ウラジオストックへ
満洲の北端、黒河に着いたのは九月も下旬の夕暮れ時だった。
黒河の街は砲弾で破壊された跡も生々しく無惨だった。黒龍江は大河だった。河岸に野営の天幕を張った。大河の向う岸にブラゴエチェンスクの街の赤い明りが光っていた。夜はもう寒く薪を集めて焚火し暖をとった。
黒河で二泊し、三日目の昼、両側に水車のような水かきのついた「原始的な船」でブラゴエチェンスクの河原に着いた。
素裸にされ、DDTを真白になる位かけられ、タ刻貨車に詰め込まれた。
ソ連領に入ってからの汽車は速く、余り停車することはなかった。問題は、翌朝太陽がどの位置にあるかである。背中にあれば西に向っているが、前方にあれば正しくウラジオへ向っていることになる。

メイファーザーズ:なるようにしかならない
みんな一縷の望みを抱いたが、汽車は太陽を背にして西に向ってひた走りに走っている。これで決まった。はっきりした。「捕虜」だ、何年位だろう。
疑心暗鬼におののいたが、結局は「メイファーズ」。なるようにしかなるまいと諦めた。分隊の兵隊達に、これから何年になるか判らないが、何時かは故国の地を踏む時が必ず来る。それまで辛抱して、みんな助け合って生き抜こうと励まし、「人間万事塞翁が馬」 「禍福は縄のあざなうが如し」と故事を面白く語ってみんなの気を紛らせた。

手ぬぐい・フンドシの布が喜ばれた
汽車は、ひた走りに走った。
食事は高梁の粥が僅か配給され、止って飯盒炊さんをするようなことはなかった。各車輌の中央にストーブがあり、石炭も充分で寒さはなかった。
たまに止ったところで、一斉に用をたし、ソ連人と物々交換で黒パンを僅か手に入れた。布切れを欲しがった、手拭いやフンドシは交換率がよかった、子供達の服装も悪く、ソ連も戦争で乏しいんだなと思った。

バイカル湖のほとりで捕虜生活が始まる
ブラゴエシェンスを出て六日目の夕方汽車が止り、みんな荷物をもって下りろと云う。前は大洋?で、岸が寄せている。いつウラルを越えたんだろう、てっきり北海へ出たと思ったが、誰言うとなく、「バイカル湖」だと判った。
山はだは、夕日に映えて、キラっと光り、まさか金山ではなかろうかなどと思った。収容所は駅から七、八百メートルのところにあり、あとで判ったが雲母工場であり、地名はスルヂヤンカとか。(ロシヤ語で雲母のことをスルダーという) 

極寒のバイカル湖

以後ここで「足掛四年」苦しい捕膚生活を過すことになる。

第2章 帰国「シベリア抑留」の終わり


終戦後、シベリアでの捕虜生活は四年に及んだ。
最初は千人の抑留者がいたが、転属や死亡により現在は五百五十人となった。
最も過酷だった最初の一年を乗り越えた後、食糧が不足する厳しい生活が続く中、帰国の希望を抱き、互いに励まし合いながら、故郷の話で心の余裕を見せるようになった。

抑留生活にも慣れて

毎日の作業もすっかり慣れて、適当にゴマかす事も覚え、左程、苦にすることもなくなった。
零下二十度、三十度にもなる過酷な冬を過ごした五月、六月のシベリアの春の新緑。バイカル湖の水に映えて、眩しい程に輝き異郷の淋しい生活を僅かに慰めてくれる。
岡の上の作業場から湖畔に沿って東へ走る汽車を眺めては、今年こそは自分達にも帰還の時が訪れるだろうと、希望に胸を熱くした。
イルクーツクへ作業に行った兵隊の話に、どこそこの収容所はいつ帰還したとか、駅で帰還列車に食料の積み込みをしているのを見たとか、いろいろの情報に湧き立った。

6月8日のことだった

そんな六月八日のことである。この日もよく晴れ気持ちの良い日、雲母選別の作業場の仕事も順調に捗り、兵隊達の顔色もよかった。
午後二時頭の事である。
作業長として特に気をつかうこともなく、ぶらりと工場の外へ出た。
と顔馴染みの雲母の外掘り作業をしていた笑顔のマローシャ(中年の婦人)が、弾むような声で話しかけてきた。
「アオキ、東京ダモイ(帰る)」という。
一瞬ドキッと心臓の凍る思いで、口ばしった。
「ヒートラー、ガバリー(ウソ言うな)」。
マローシャは真顔で「プライナ、プライナー」と繰り返す。
そして、守備の隊長が、馬で事務所に走ったとか、各作業所の責任者が事務所へ集まって大変だとも言う。
そう言えば、いまさっき雲母選別場の責任者カピタリーナも慌てて出ていった。
本当だ、こりゃ本物だ、近くの朝夕の集合場所の小屋へ走った。
際長の与那峯少尉が居る答だ。
小木曽通訳が走ってくる。「班長殿、帰還命令が来たようです。隊長はいま事務所へ走っていきました。」と叫ぶように言う。
間違いない。きた、遂に来た、待ちに待った帰還命令が来たのだ。
体が震え思わず両手を堅く握りしめ頭上に突き上げた。
選別工場へ走った。
選別台に飛び上がるなり、「みんな作業をやめて集まってくれ]とどなった。
三十余名の隊員がすっとんできた。
以心伝心とはこのことか、常の作業指示伝達と違う、もしや帰還命令ではといった面持ちでじっと私の顔をみつめる。
騒々しい作業場も静まりかえり、十名程いるロシヤ人作業員も手を休めて何事かといった面持ちで見ている。
「みんな聴いてくれ、帰還命令が来たようだ。」
「うおう!」  何とも形容しがたい「うめくような押しころした声」が上がる。
緊張、興奮して声が喉につかえる。

立つ鳥あとを濁さず

みんな励まし合って今日まで頑張って来た甲斐があった。
「作業も今日の五時で終る。立つ鳥あとを濁さずと言う。各持場の整理整頓をきちんとして選別工場と別れよう」みんな笑顔で領き、持場へ散った。五時、第一作業場全員が何時ものように集合整列、隊長から改めて帰還命令があった旨話があった。
収容所へ向かう途中、谷を隔てた山麓に眠る収容所に来て以来、病死、事故死の英霊の墓に向かって、深々と頭を下げ、冥福を祈って黙祷した。
シベリアのこの地に永遠に眠るのかと思うとその無念さにやり切れない思いで切なく、誰もが暫くは無言で歩いた。
収容所に着くとすぐ収容所長(ソ軸軍大隊)が来て、整列した吾々にモスクワから帰還の通達があったこと、明日の昼頭の汽車に乗ること、自分がナホトカ(ウラジオストックの東方にある港)まで引率していくこと。最後に今から名前を言うものは残留すること、等通訳を通じ話があった。「エーツ!」残される者もいるのか、大変なことになった。みんな息を呑んで通訳の口許を凝視した。

帰還するものと、残留するものと


結果、将校全員とその他兵合わせて五十名が残留となり、すぐ収容所の一角に移された。非情である。将校達は覚悟していたようだったが、一般の兵はあっけにとられ、気の毒でみていられなかった。どうやって選別したのか、哀れ、悲しくいたましかった。泣いている者もいた。
各隊へ新しい軍靴軍足に褌などが配られた。
夕食は七時、何時も通り飯盒に半分ほどコーリャンを煮た飯、いつもはガツガツ綺麗に一燈も残さず食べるのだが、どうしたことか、胸が一杯で食べる気がしない。
自分ばかりでなく、周りの者みんな同じ、嬉しくて 嬉しくて喉を通らないという。こんなことは生まれてはじめてのこと。
その夜は、車輌編成やら諸注意やらで、夜中までかかったが、みんな浮き浮きして苦にならなかった。

戦争が終わったんだ


十二時過ぎ寝たが、終戦以来今日までのこと。
妻子は無事で奉天から引き揚げることが出来ただろうか。それからそれへと思い尽きず、なかなか寝つかれなかった。
翌朝は早く目を覚ました。みんな早起きしてそわそわ、僅かな品物を背嚢に出したり入れたり落ちつかない。
収容所出発は九時過ぎ、駅まで歩いて三十分ほど。
昼頭の乗車というのに、早い出発である。私は第三車輌長、兵隊三十四名引率、予定の線路わきに位置して汽車を待った。
汽車の来たのは午後五時頭、また騙されるのではないかとビクビクしていたが、乗車し、東方に向かって動きだした時は、やれやれ本物だとみんな胸をなでおろした。

さらば、バイカル湖よ!

さらばスルジャンカよ、バイカル湖よ、収容所が、そして丘の上の作業所が遠ざかっていく。
初めてみたときのオーロラ、そして白夜のシベリア、凍てつく真冬の夜、手のとどきそうな近くに光り多く北斗七星等々なつかしく想い出され、感無量である。
有蓋貨車の中央を除いて、左右が二段になっており、私は上段の小さな窓のついた所に位置したので、シベリアのどこまでも続く針葉樹林を眺め、時折点在する丸太を組んだ家屋の小落に、その昔ツアー政府により、またスターリン等により多くの人々が政治犯として追放されたというこの地シベリアに感慨深く思いを寄せた。

もう強制労働はない


もう強制労働もない、みんな嫌がった思想教育もない、毎晩夢みた帰国の実現に、唯々嬉しくウキウゥウキ話ははずみ、楽しく唄った。
「見よ 東海の空あけて…:」の愛国行進曲に始まり、麦と兵隊の「徐州徐州と人馬は進む…」「私十六満洲娘:…」等合唱、中でも「同期のさくら」・「さらばラバールよ」は人気があり、合唱は飽かず繰り返された。
食事は黒パン二百五十グラムに小匙一杯の僅かな砂糖、それに飯盒に少しのスープといっても塩湯に野菜の入ったものが主で、時にはコーリャンの飯が支給された。

大・小便に困った

体を動かしていないので食事はそれで足りたが、大・小便には困った。小便は貨車の大戸を押し開けて落ちないようにしっかり片手でつかまりながらの放尿だが、大便はそうはいかない。
日に一度ぐらい信号待ちか、なにか判らないが、三十分位停車することがあり、「降りて用を足せ」と指令がくる。みんな待ちかねたように一斉にとび降り、線路から三十米離れたところに五百人が並んでしゃがみこみ、隊列をしいて用をたす。
規模は大きく実に壮大なながめである。やがてみんなせいせいした顔で戻ってくる。
手は洗うところもないのでそのままだったが馴れっこで平気。苦にしない。
こうして、十日程過ぎたころか、ハパロフスクに着いた。
よく晴れた日で一時間半ほど停車したが、突然どこからともなく「木曽のナーなかのりさん、木曽の御賭山はナンジャラホイ」と拡声器から歌声が流れてきた。みんな息をのみ、熱いものがこみあげた。

収容所に入った

六月二十一日の夕刻、終着ナホトカ港に到着後、収容所に入った。
ここでは日本からの船の入港するのを待つだけで、何もすることなく三、四日を過ごした。
六月二十五日の朝、突然乗船が伝えられて集合。
歩いて港へ、様橋で一列になりタラップを上って船内に入った時、本当に帰れる、嘘じゃない、さんざん騙されてきたが、こんどこそ本当だ。本ものなんだと、嬉しさの余り体から力が抜けていく思いである。

迎えの船は「第一大拓丸」

迎えの船は「第一大拓丸]。三千三百トンと聞いた。
午後三時頃、ようやく離岸した。だんだんナホトカが遠ざかっていく。
この頃からみんな威勢よく威張り出し「コンチクショー、もうここはソ連じゃねえゾー。矢でも鉄砲でも持ってきやがれ」
どんなにソ連の悪口を言っても恐れることはない。
もう強制収容所へ連れていかれることもない。「ざまみろ」と甲板から陸地に向かって小便をするひょうきん者もいる。
 
対照的なのは、数人のアクティブ(思想教育に名を借り、凪をきかし、威張り散らしていた活動家)達である。片隅によって不安そうにしている。いつ吊しあげにあってもおかしくない雰囲気に気の毒なほど小さくなっている。
この人たちは舞鶴で一人一人呼び出され激しい吊しあげに泣いて土下座し謝罪した。
私は全員の本籍と氏名をローマ字で一覧表にし、提出するように船員に依頼され、ひとり一人面接して書いたが、冗談を云ったりして楽しくて仕事にならなかった。
演芸会も開かれ、お国自慢の民謡や落語などの芸達者も現れ賑やかな船旅だった。

舞鶴がみえるぞ!

六月二十八日の早朝、誰かが大声で「舞鶴が見えるゾ!」と叫ぶ声に、みんなとび起きて甲板に出た。遠く舞鶴の松原の縁が目にしみる。
ジーンとしたものがこみ上げてくる。
帰って来た。日本に帰ったのだ、夢じゃない、本当に帰ってきたのだ。
さまざまな感激が胸にせまり「うーん!」とこぶしを堅く握りしめた。
岸壁に復員局の方々が並びマイクで「元気でお帰りおめでとうございます」と出迎えて下さった。タラップを降りて、暫く歩いたところで素裸にされ全身DDTをかけられ入浴場に案内された。
久しぶりにドボンとつかる入浴は気持ちよく、「本当に帰ったんだなあ」と実感が湧いた。夕飯は白い米の飯に小さいが鯛のおかず、いろいろの事が一度にこみ上げて来て、見ているだけで、嬉しく喉につかえる思いで食べた。
舞鶴には四日間。復員の手続きのあとはすることもなく、久しぶり頭を刈って貰い、髭もきれいに剃ってみんなこざっぱりした。乗車証明書交付に、「どこまで乗車されますか」と言われ、「佐賀までお願いします。」と答えた。

舞鶴帰還

ふるさとへ

いま日本は非常な食料難で大変と聞かされ、給料生活の長野市の実家に三人の子供を連れて、妻が身を寄せている事は考えられない。
と言うことは、妻の実家は佐賀市の近郊で大きな農家。家も広く食うにこと欠くことはないだろうと思ったからである。
現金で六百円支給され、当分生活には困らないだろうとうれしかった。
自分が召集された時の月給が百十円だったから半年分だ。
あとで判ったことだが、ヤミで煙草ピース一箱四十円、佐賀の駅前で、親子五人で食べたうどんや氷水などであらかた消えて、がっかりし、驚きもした。
 

別れと帰郷

電報は無料で、「アス、ヒルサガエキニツク、タツオ」と打った。
六月三十一日ひる頃、復員局の方々に見送られて舞鶴駅へ。
婦人会の方々がにこやかな笑顔で湯茶を接待してくれ心温まる思いだった。
以後大きな駅では停車するたびにこうした湯茶の接待をいただいた。
西の方へ帰国する者がまとまって二、三車輌に乗った。
私は責任者ということにされたが別に用もなく、これからの生活に一抹の不安はあるものの唯うれしく、戦いには敗れたが、車窓にうつる美しい野山の風景は今も変わらず、心なごむ思いで過ごした。
京都で七、八人下車、弾んだ声も明るく、「班長殿お世話になりました、さようなら」と言う。「おう、元気でな!頑張れよ、また、いつか会おうぜ」
 
こうして、大阪で神戸、姫路……と何人かずつ、別れが続いた。
翌朝、下関で婦人会の方々から握り飯やや湯茶の接待を受けた頃まではよかったが、いよいよ九州入りとなる頃から、嬉しい反面、大きな不安が胸にわだかまって妙に落ちつかない。
 
福岡、鳥栖で下車した兵隊の「斑長殿、お元気で!」の声にも「おう、達者でなあ」と、うつろに応じる自分だった。と言うのは、今迄余り考えず当然のことのように思っていたのだが、万一、妻が奉天から帰っていなかったらどうするのだ。
自分だけがおめおめ「只今」と、妻の実家の門口に立てるだろうか。
終戦時、奉天の暴動、火災、ソ隊兵の乱暴の噂等々を思い今さらながら茫然とする。そんなことに悩まされ、打ち消しながらもまた想像し車窓の景色もうわのそらだ。

不安・怖れ・再開・感動・涙

「佐賀、佐賀」の車内放送に予想していたが、一瞬ビクッと緊張した。
階段を上がって廊下を渡り、降り口まで来たところで足がすくんだ。ドキドキしながらソーッと改札のところを覗きみた。
居た、居た、出口の先頭に「幼い女の子」を抱いた妻が男の子と一緒にこちらをじっとみている。よかった、よかった。揚りしめた手がじっとり汗ばんでいる。
あとはどうして歩いたか覚えていない。走ったような気もする。
目頭がばうっとかすむ。「只今!」「お帰りなさい」妻の目から大粒の涙がこぼれ、六歳になった筈の長男が「おとうちゃん」とすがりついて来た。
 

エピローグ

これは私の家族の記録である。文中の「幼い女の子」が私の妻である。
故青木龍雄氏は、大正5年生まれ、長野市出身。帰国後、長野県で教員生活を復活し、豊科高校では「ソフトボール全国大会」で優勝、長野県立伊那北高校・静岡県立清水東高校の野球部を率いて甲子園大会に4回監督として出場し、静岡県立浜松城北工業高校の校長として勇退した。
その後、94歳まで地域のスポーツ振興に貢献し、多くの人に敬愛されつつ「空」に帰った。
 
                     <文責・投稿者 安達昌二>    
  


#創作大賞2024 #エッセイ部門

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