日本のロマン・あけぼの・国造り
松の木がある小さな丘が「平城宮の後」だった・・・
むかし、「大極殿跡」といわれた小さな、小さな丘がありました。
地元の人に呼ばれていただけのようでしたが、妙に説得力がありました。
そんなことを知っている人は、故人になった人が多いでしょう!
でも、本当なんです。
「へェー! こんなところに平城宮の内裏があったなんて信じられないなあ」
丘の上から、遠方を見ると、近鉄奈良線の電車が走っています。
その後、数年が経過しました。
小学生になった息子たちを連れて
「この地下に奈良時代の遺跡が眠っているよ。畦道を、歩数を数えながら歩いてみよう」と、雑草の中を行きました。
それから数年後、内裏の後に建てられた宮殿の前に立ちました。
目の前に、整備されつつある宮殿跡がありました。
発掘が進んでいたのです。
藤原京・平城京の「街づくり」は、渡来人の知恵と技術なくしては出来なかったでしょう。現在は、再建された「遺跡址」は公園になっています。
奈良の都は見事に整備された都市
平城宮は、一条から九条まで「碁盤の目」のように整備された設計です。
きれいに大路で「右京」と「左京」に分かれ、官庁・大寺がキッチリ配置される見事な配置です。
西の大寺(西大寺)・東の大寺(東大寺)・藤原氏の氏寺(興福寺)、氏神(春日神社)、唐招提寺や薬師寺・大安寺を「俯瞰」してみると、「アーバンデザイン」に興味を持つ人は、良い参考になると思います。
<チョット寄り道> 他国の都市との比較
ウイーンはドナウ川の河岸にできた街ですから、古くから大きさにそって、三日月のような城壁ができていました。街の拡大に伴い次の城壁。次の城壁ができていて、現在は道路になっています。
パリはセーヌ川の中州にノートルダム寺院ができていて河岸に発達した街です。長安(西安)が、平城宮・平安宮のモデルになったのですが、平地・川・山にそってできた都市の発達は、「個々の建造物」と違った「アーバンデザイン」として興味がありますね。
近現代になって、新しく首都を建設する動きがありました。
ブラジルのブラジリア・オーストラリアのキャンベラ、そしてナイジェリアのアビジャが記憶に残ります。
いずれも、途上国で近代化を進めるための拠点です。特にアビジャは、日本の丹下健三氏がマスタープランをつくり、モダン建築を柱とした計画的な・秩序ある都市建設を目指しました。
私の友人も、この計画に参加して実績をつくりました。
キャンベラは国際的なコンペティーションで都市計画を造りました。
しかし、貧しい地域での近代建築は、貧富の差を強調したり、その後の、モータリジエーションの発達で、イメージした通りにはいかなかったようです。
華やかに展開した奈良の文化
後進国日本は、華やかな歴史・文化をはぐくんだ隋・唐の制度・社会・文化などのあらゆる分野を学び、「時間をかけて独自性のある日本文化」を育成していきました。
その過程である「奈良時代」の70余年間は、非常に貴重でした。
南都六寺とよばれた大寺は、現在の「大学」の役割を果たし,法典の研鑽が盛んでした。都市計画に沿った首都の建設は、現在でも東大寺・興福寺に偲ぶことができますが。足を延ばして、唐招提寺・薬師寺の伽藍や仏像をみると文化の高さを実感することができます。
私は、頻繁に奈良に行きますが、どうしても欠かせないのが、薬師寺と唐招提寺です。後者は、唐の高僧・鑑真を招いて建立した大寺ですが、薬師寺は、白鴎文化の粋を集めたところで、鎮座する薬師如来・月光像・日光像に至っては世界に誇るものです。
<チョット寄り道> 仏像は『祈り』の対象か、美術品か
「仏像は美術品ですか?」と聞かれることが多いです。
盗難にあった仏像がネットで販売されていたというニュースもあるくらいですから。
キリスト教では、ルネッサンス期の絵画を焼き払ったというイタリア・サヴォナローラのような人物も登場しましたから、「偶像崇拝」に繋がるものは認められないという人もいますね。
信仰の対象でなくても「美しいものは美しい」です。「美」は永遠です。
古代ギリシャからの伝統から、ガンダーラで仏像が生まれたという説もありますから、「祈りの対象」であり「より美しく」という観点から美術品であるともいえます。仏像に性別はないですが。(吉祥天は元バラモンの神です。)美術品以上のものを感じられない人は、仏像を「祈りの対象」にできないですね。私は山田寺の仏塔が一番美しいと思っています。
日本文化の最高の発明は「仮名文字」です
何といっても、日本文化の最大の文化遺産は「仮名文字」の発明です。
カタカナ・ひらがなは、日本の文化の方向を決定づけました。
9世記から始まり11世紀には字形が確立しました。
漢字を「真名文字」といいました。「真」とは本物という意味です。
「仮」はアレンジですね。本物ではないという意味です。
が、どうして・どうして、その後の日本文化に残したものは巨大です。
教養人は「漢字」で文章を書き、一段低い扱いの女性が「仮名文字」を使うというわけです。
だから「をとこもすなる日記・・・」という表現から、紀貫之『土佐日記』(934年)を仮名文字で始めるのです。女性になったふりしてね。
「紫式部日記」(1008)「更級日記」(1020)に影響を与える「日記文化」の原点になりました。和漢混合で書く日記が「普通」になりました。
<チョット寄り道> 仏教哲学のイロハ
仏教は非常に深淵な哲学をもっています。奈良時代の南都6宗はそれぞれ高いレベルの仏教哲学を学ぶ場でした。
①東大寺は華厳宗・②興福寺は法相宗・③西大寺は真言律宗・④薬師寺は法相宗・⑤大安寺は真言宗・⑥元興寺は真言律宗と、高い学識を学んでいました。
仏教哲学は「無常」「無我」「苦」「縁起」「空」「業」を柱とした学問として成立していましたから、鎌倉仏教以降のような「葬式仏教」の延長ではありません。キリスト教の「神学」に劣らず、長い思索と伝統の上に成立しているものです。
仏典は「ヤシの葉」「木・竹の板」「動物の皮」(羊皮紙)「石・金属」に書かれていましたが、4世紀ごろ活躍した鳩摩羅什や三蔵法師(玄奘)の頃になると「紙」が少しずつ使われるようになったそうです。
日本の歴史の始まり
よちよちながら、日本の歴史は人々の努力によって積み上げられていきました。本当に、一つ一つです。
一挙に現在が出来上がったのではありません。
仏典の記録が「葉っぱや動物の皮」に記載されて伝わり、新たに発明された「紙」によって爆発的に拡大したように、いまや紙にかわる「IT」により、記録の仕方も伝播の仕方も変わりつつあります。
この影響は、次の世代にどのように伝わっていくのか?
多少の不安がありますが、それが歴史というものでしょうね。
「無明」をいうことでしょうか?