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跳べないウサギ

目をつぶると、目の前に暗闇が広がった。

会場中の声援をどこか遠くに感じる。

体がふわふわする。
でもって頭の中心は冷静。

トントンっ。小さな2回ジャンプ。

これが私のルーティン。

私はどこまでだって跳べる。

ゆっくりと目を開けると、会場の音が戻ってきた。
地面まで震わす声援は、走り高跳びの期待の星と
言われている私に降り注いでいる。

よーい、スタート!

心の中でそう呟くと私は力強く駆け出した。

右、左、右っ!

もちろん歩幅はぴったり。

私は跳んだ。
上へ上へ。

1m70cmの壁。今日は、超える。

その時、着地のマットレスに穴が空いた。
ぽっかりと大きな穴。

私は、その穴に落ちていく。
下へ下へどこまでも。

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嫌な夢だった。

ぐっしょりと湿った、吸水速乾が売りのTシャツを素早く着替えリビングに向かうと、焼き魚の匂いがした。

「あれ、千夏。土曜日なのに7時に起きてくるなんて。部活?」

「バイト」

「バイト? あんた、見学でも部活には顔出しなさいよー」

「……うん」

「その言い方、行かないんでしょ、どうせ。
ほら、朝ごはん、食べちゃいなさい。
魚はタンパク質とDHAよ」

「ごめん、いらないや。行ってきます」

バイト先は街のショッピングモールだ。
郊外の小さな街で、唯一、人が集まる場所。

家族連れの多いこの場所で、千夏は着ぐるみを着て風船を配る仕事をしている。

着ぐるみの中は暑い。

ロッカールームは22度の冷房だというのに、体部分を着ただけで汗ばんでいる。

頭部分を見つめた。

着ぐるみは、いつもと変わらない笑顔。

「お気楽だね」
嫌味を言われてもウサギは表情ひとつ変えない。

土曜日のバイトは疲れる。

元気の有り余った子供達がチャックを探したり、
覗き込んだりしてくるのだ。

可愛くない子供、
千夏は笑顔のウサギの下でそう思った。

そして、そんな自分が1番可愛くないなと思った。

「おい、風船くれよ!」

そう声をかけてきたのは、5歳くらいの男の子だった。

ぷくぷくとしたお腹と、ざらざらした坊主頭。
典型的なガキ大将。
ちびジャイアン。
可愛くない。

「風船!!」

思わず観察していた千夏に痺れを切らして、
"ちびジャイアン"はもう一度叫んだ。

キック付きで。

ちびアンは、千夏の左足を蹴飛ばした。

本来、5歳児のキックなんて大したことはない。
しかし、千夏にとって左足は急所だった。

蹴られた場所からぶわっと汗が噴き出してくる。

夢で見たあの県大会。

バーに左足が当たった。

跳んだ時に左足の腱が切れかけたのだ。

それでおしまい。

医師からはしばらくのリハビリを言い渡され、
千夏は2ヶ月前、高二の途中で部活に行けなくなった。

跳べない自分に、価値を見出せなかった。

蹴られた左足に、鋭い痛みが走ったわけではない。感じたのは多少の違和感。

しかし、左足の刺激はそのまま心に刺さる。

私の急所は左足じゃなくて、それを考える心だ。

荒くなり始めた呼吸を落ち着けようとしゃがむ。

ちびアンは、急にしゃがんで近づいてきたウサギの笑顔に動揺したようだ。

「な、なんだよ。 痛かったのかよ」

うるさい。どっか行け。
千夏は、半ば押しつけるように風船を渡した。

「あ、ありがと。」

ちびアンは、風船を受け取り去っていこうとした。
が、振り返った。

「おいウサギ、いつまでしゃがんでんだよ。
ウサギはさ、1回しゃがんだあと、どこまでも跳ぶんだぜ」

その言葉に、乱れていた呼吸が落ち着いた。

私はまだ、踏み切りの途中だったのか。

ゆっくり立ち上がったウサギに安心したちびアンは、今度こそ去っていこうとしたが、人とぶつかり風船を手放してしまった。

プワプワと上っていく風船。

「あ……」と泣き出しそうなちびアン。

それを見た千夏は、トントンっと2回ジャンプして駆け出した。


そうだ。


私は、


どこまでだって


跳べるんだ。

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