短編小説「夏の影」・前編
今年も夏がやってきた。刺すような日差しは肌を焦がし、湿度と気温が意識を茹でる。必死に鳴いている蝉の声にも耳を傾けてやる余裕はない。
こんな季節なってくると思い出すことがある。あまりいい思い出とは言えないが、かといって忘れたい記憶というわけでもない。ただ思い出すたびに、こんなに暑く苦しい夏でも頭が冷め、正気を取り戻す。そんな記憶である。
その頃の俺は、新入社員として覚えたくもない仕事を必死に覚え、なりたくもない社会人になっていく日々にただ黙々と耐えていた。
自分の社会性を偽装するため気遣いと、やりがいの感じられない業務。それを一日8時間以上こなす難しさに吐き気すら覚えながらも、深く考えないようにしてやり過ごしていた。
この生活を何十年と続けられるのが一人前の人間で、自分もきっとそうなれるはずである、と思い込みたかったのだ。今感じている苦痛について深く考えて、自分はまともな人間ではないのだとわかってしまうことを、心の底から恐れていた。
普通じゃないことは、普通じゃないと思われることは、それがバレることはとても怖いことだから。
そんな生活をしていたある日、俺は普段通りの力ない足取りでアパートに帰り、玄関のドアを開けた。すると見慣れたはずの玄関の光景が何かおかしかった。大きな変化ではないはずだが、どうにも違和感がある。俺は狭い玄関をぐるりと見渡してみた。ほとんど物が入っていない靴箱も、ほこりがたまった段差も、立てかけてある傘も、いつもと全く変わらない。今朝家を出た時のままだ。
「気のせいか」
そういう勘違いや思い違いをするには十分すぎるほど疲れていた俺は、そう納得し玄関へ足を踏み入れようとした。だがしかし、踏み出した自分の足の目をやった時、俺は感じていた違和感の正体をやっと発見し、玄関へ入るのをやめた。
そこには一足の靴があった。
靴が玄関にあること自体は全く問題ない。むしろ玄関は靴のためにあるといってもいい。よほど几帳面なやつでなければ、帰宅したときに履いているもの以外の靴がいくつか玄関に並んでいても驚く者はいないだろう。そんなことはいくら疲れていても忘れたりしない。
俺がやっとの思いでたどり着いた玄関に入るのを躊躇ったのは、今履いているのと「全く同じ靴」が並んでいたからだ。
靴というものはただそこにあるだけで持ち主の存在を強く感じさせる。究極的にはただの物であるはずなのに、おいてあるだけで妙に生々しい気配を発し、脱ぎっぱなしの靴を見れば影も形もないはずの持ち主の姿が確かに見えてくる。
道端に転がってるのならまだしも自宅の玄関に転がっていて、その上それが今朝この玄関で履き今も履いたままの靴なのだから、不気味さも数倍だった。
つい数秒前まであれほど待ち望んでいた我が家に、恐怖で足を踏み入れられない。目の前の状況を飲み込むために、靴を脱いでから入る礼儀正しい空き巣と偶然趣味があっただけだとか、知らぬ間に記憶喪失やら認知症やらになってしまったとか、かなり無理やりな可能性まで考えてみたが、徒に恐怖と不気味さを盛り上げるだけだった。
だがいつまでも玄関前で立ち往生しているわけにはいかない。どれほど睨みつけたところで靴は一歩も動きはしない。
俺は意を決して玄関に入り、ようやくの帰宅を果たした。靴を脱いで中へ上がると、俺の関心は二足並んだ靴よりもむしろ部屋の中に引き寄せられた。物言わぬ靴よりも危険を感じさせるのは、その持ち主のほうだからだ。
俺は慣れない戦闘態勢を保ったまま部屋に入り、まだ見ぬ侵入者を捜索した。いるかどうかもわからないが万が一にもいた場合、まともな奴ではないことは確実だ。
しかしそんな警戒は空振りとなった。部屋の中には誰もいなかったのだ。荒らされたり、物色された後もなく、今朝家を出た時の状態が完璧に保たれていた。
若干の肩透かし感はありつつも、ひとまず直接的な危険はないことが判明し、一応の安心は得られた。ひとまずリビングの椅子に腰かけながら改めて考える。
しかしこれはこれで玄関の靴の謎が一層深まってしまった。いつ、だれが、なぜ、どのように靴を玄関に置いたのか全く見当もつかない。家中探し回ったが何のヒントも得られなかった。だが。
「誰が、か」
「誰が」はわからなくとも「誰の」かには心当たりがある。
あれは俺の靴なんじゃないか?
メーカーや形が同じというだけでない。汚れや傷のつき方、靴紐の結びまで同じに見えた。
もう一度確認したい。それでなくても今回の異変の物的証拠はあの靴以外にないのだから、唯一のヒントとして今一度しっかりと観察する必要がある。
俺はひとまずそう結論付け椅子から立ち上がった。さっきまでの警戒心はだいぶやわらぎ、ちょっとした謎解きに挑戦する気分で玄関に向かったのだが、そこで再び、今度は反対側から俺は玄関の手前で足を止める羽目になった。
例の靴が消えていた。どう見ても靴は一足しかない。俺が脱いだ一足しか。俺が部屋の中の安全を確保し、一息つきながら推理ごっこを楽しんでいた数分の間に、謎の革靴は影も残さず消えてしまったのだ。
次の朝はやけに早く目が覚めてしまった。靴の消失は俺の精神に確実のダメージを与えていたらしい。せっかくだから昨日の事件について今一度考えてみようとも思ったがやめておいた。調査と考察は昨晩で完全に終了している。まだ体から抜けきっていない疲労感がその証拠だ。
靴が消えた後、俺は再びかなり気合を入れて部屋中検めたが、結局のところ一連の謎に関して判明したことはゼロだった。一切の痕跡が残っていない。何も起こってないのとほとんど同じだ。一夜去ってみて本気で夢だったんじゃないかと疑い始めているくらいにはお手上げだった。
できることならこのまま靴の謎の解決を目指したいところだが、そうはいかない。不本意ながらも社会人である俺は会社に行かなければならない。上司に昨夜のことを欠勤の理由として認めさせる方法が思いつかない以上、どうにもするわけにもいかないだろう。
玄関を出る時、ドアを閉めるのを少しためらったが、サラリーマンに選択権はなかった。
幸か不幸か、働いているうちは靴のことを考える暇もなかった。いつものように汗をかき、気を遣い、心も体もすり減らして働き、仕事が終わるころには昨日のことなんかすっかり忘れてしまっていて、家のドアの前についてところでやっと思い出したのだ。
昨日はここでドアを開けたまま立ち尽くしていたが、今日はドアを開ける前から立ち尽くしている。別に靴のことを思い出したからじゃない。ドアを開けるまでもなく、昨日と同様に異変を感じたからだ。
後編へ
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