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「まち並みが寂しくなった」ってどんなことだろう?

1月にGYODA FUN MEETING(お楽しみーティング)をお試し開催した際に、私のこれまでの流れをお話しする中で「"街並みが寂しくなってきた"っていうのはどんなところで感じたの?」という質問がありました。

正直にいうと「街並みが寂しくなってきた」という説明は私にとって結構難しくて、常にもっと言い得ている言葉があるんじゃないか?と常々思っていることなのです。何より当時の記憶もどんどんおぼろげになってきているし…。
せっかくなのでこれを機にちゃんと考えてみようかと。

実際本当に「あぁ好きだった景色が変わってきたな…」と感じたので、足袋蔵を活用しながら残せるなんて良い取り組みだな!と思い、そういった活動をしているNPOに協力したいと思ったことは確かです。

路地が好き

私は子どもの頃から路地を通るのが好きだったし、友人宅がそういう道にあったということもあるかも。
朝、学校へ行く時にはそんな路地裏には蔵があり、その隣には祠があり、その祠に手を叩く音が聞こえました。
向こう側が見えにくいクランク、細い道沿いは映画のセットかのような昔ながらのお店や長屋、夜通ると長屋の玄関前にささやかに咲く淡いピンクのバラに電球のあたたかい色の光の当たるのが写真集の写真のように美しくてわざわざ路地裏を通りました。

当然のように存在した料亭の魚七や柳の湯はいつの間に閉店したっけ?小学生の頃だったか、中学生の頃だったか…。このふたつは田山花袋の小説「田舎教師」に出てくる料亭と銭湯なのです。

趣ある建物が好き

私が専門学生だった頃、HIROMIXさんがインスタントカメラで何気ない風景をかっこよく切り取っているのが流行っていて、ポラロイドがリバイバルし、蜷川実花さんも現れて、一大写真ブームだったと思います。私もカメラが欲しくて、アルバイト代でカメラを買いました。まず撮影したのは、行田の路地裏でした。写真はまったく下手でしたが、記録して残したいって気持ちがあったので、路地や中将湯の煙突とかも撮影した記憶が。

わたしは都内の専門学校へ行っていたのですが、都内でも好きな場所は路地裏が面白い場所であり、建物も同潤会アパートや、古いアパートや倉庫、古民家、新しく整備された場所とは真逆の場所に魅力を感じてました。代官山も好きだったけど、アドレスが出来てからめっきり足が遠のきました。

わぁ!こんな場所にこんなワクワクするお店がある!っていうのが好きなんですよね。

人、建物が減り、駐車場が増えた

魚七、柳の湯がなくなり(おそらく後継者問題やライフスタイルが変わったことによる顧客減少と修繕などの費用がかかるタイミングなどで)、加えて火事など残念な理由で映画のようだった道は建物が新しくなったり駐車場になったり。そして何より人の往来が減りましたね。減ったのは自転車や歩く人ですね。人の往来って客観的に見て血が通っているかんじがしませんか?往来がなくなると停滞感が漂います。

だんだん思い出してきました。
牧禎舎のあるあたりも友人宅があり子どもの頃に行っていたので、牧禎舎裏が駐車場になる前のことも記憶のどこかに潜在的に残っているのかもしれません。蓮華寺通りも元は学校の先生宅(美容室)があって、そこもいつの間にか6軒分くらいあった一帯が駐車場になり、そして今は立派なおうちが1軒建っていますね。

心が動く風景を残したい

どこが変わった、とパッと言えなかったけど、きっとそうやって子どもの頃に見てきた景色がところどころ駐車場になってしまったり、私にとっては味気ない風景に変わってきてしまったことはたしか。それが私にとってはですが魅力がなくなっていってるように映っているんだと思います。
味気ない風景とは、私にとってはおそらく他人の心を動かさない・寄せ付けない風景のことかもしれません。
私は自分ではひとりで没頭することが大好きなのに、それと同じくらい他人が心を動かされて介してくることが面白くて意義があると思ってるんです。

日本人はある意味自由なんだろうなぁ。エリアとしての景観については何も考えずに家を決めて建てる人が多いんじゃないでしょうか?自分の家なんだから、って。そりゃ誰もがセンスがあるわけではないので、そのあたりは工務店などが地域を俯瞰するセンス次第なのだろうと思いますが。
他人の持ち物にとやかく口を出すのはおかしなことで勝手なことだとは思うんですが、でも街並みには公共性もあるような気もして…。街並みひとつで、人はワクワクしたり、また行きたいと思ったり、誇りを感じたり、結構精神的にも影響与えてると思うんです。

そこが住んでいる場所であればなおのこと、毎日目にする風景がワクワクする景色であれば、自然と毎日ちょっと気持ちよく、まちに愛着もわくと思うのですよ。毎日のことだから大げさでなくて良いんです。ちょっとで。だけどそれは、そのちょっとを維持していく努力は必要なんだと思います。

いつの間にか自分自身が当事者の年齢になった

たまに帰る行田の景色がすこし寂しく感じるようになったとき、20〜30年前に30代〜50代だったひとは何を見て何を考えていたのかな?と思いました。その年齢のひとたちがやってきたことの結果が今であり、私もまた今、まち並みを考えることやまちを面白く使わせてあげられる立場になってきている、と考えるようになりました。

話がちょっとずれましたが、使われなくなった建物が増え、味のある建物が減り、人の往来が減ったというのが「寂しさ」を感じさせたのでしょうね。

ただ、単に人が多ければ良いとも思っていません。「心が動かされる」という意味も人それぞれあると思いますが、少なくとも「消費欲が掻き立てられる」とはイコールではないです。「想像力が掻き立てられる」はありと思います。顔が見える、ちょうどいいコミュニティがそこにあるのが良いんでしょうね。
このあたりもまた主観的でもあるので、後で深掘りしていきたいです。

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