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私が行田市の関係人口になったわけ

自己紹介的な記事です。
本業の傍ら、今のところ住まいのある都内からNPOメンバーとしてボランティアで毎週末、実家のある埼玉県行田市へ通っていることに関して、しかも7年くらいその生活が続いていることに対して「なぜ?」という質問を受けることがあります。それなのでそんなところを書きます。
ちなみにざっとしたことは、私が主宰している忍(おし)のちいさなしごとづくりの連続講座「オシゴト」の説明会兼無料体験WSの中でもお話しているので、タイミング合ったらぜひそちらにもお越しください。


埼玉県行田市

私の生まれ育った埼玉県行田市は、北部には利根川、西部には荒川が流れている川や沼が多い地域で、江戸時代まではその地形を自然要塞として活かした忍城(おしじょう)というお城が建っていた石高が十万石の小さな城下町でもあります。
その名残である水城(すいじょう)公園があったり、城下町らしい曲がり角の多い路地があったりします。そして埼玉(さきたま)古墳群というさらに古の史跡があるなどします。近年では、ご当地フードのフライとゼリーフライがテレビなどで紹介されることが多いのですが、私の実家では私が子供時代に祖母がフライ屋さんをしていました。具の少ない薄いお好み焼きみたいなものです。私はそんなちょっと変わったものがあるローカル色豊かな行田が好きです。(ちなみにゼリーフライはフライとはまったく別物で衣のないおからコロッケみたいなものです。)


絵を描くのが好きで、なんだかんだでデザイナーになりました

子どもの頃から絵を描くのが好きでした。上手い人はたくさんいるので上手いかどうかは置いといて。
引っ込み思案だったので自分から声を掛けることは苦手だったけど、小学校で初めてできた友達に後から聞いたら、私が絵を描いていたから友達を誘って見に行ったことがきっかけで声をかけてくれたそうです。それ以降、絵に少なからずの需要を感じて過ごしていました。

ただ、絵は好きなときに描けば良いと感じて、市内にあった雑貨屋さん「青い鳥」に憧れて、恵比寿にあったバンタンデザイン研究所の雑貨の学部へ入学しました。
そこではショップ企画を中心に学びましたが、「これからはたとえショップの店員だとしても簡単なPOPやショップカードくらいは作れた方が良い」ということでMacを触る授業があったのです。ちょうどiMacが発表された頃でした。その授業の中で講師の方に「もうちょっと頑張れば仕事にできるよ」と言ってもらえたことで、卒業後の進路としてデザイン事務所への就職が選択肢に上がってきました。

そして私は埼玉県内のデザイン事務所に就職し、そこで印刷データの作り方などを学びました。といっても実は採用理由はデザインではなく企画でした。持っていったポートフォリオにはショップ企画の企画書なども入っていたのでそれで採用していただいたようです。仕事をしているうちにデザイナーの名刺を作っていただき、イラストも描けそうということでイラストを組み合わせたデザインもするようになりました。


NPOとの出会い

仕事は好きでしたが、満員電車の通勤がどうにも気持ちが落ち込んで、そして常時睡眠不足というのも当時のデザイナーあるあるですが、手放したい状況でした。プライベートでも学生時代から少しずつデザインの仕事をいただいていたこともあり、とにかく心と体の健康のために退職することにしました。
以降、都内に住み、現在の夫とユニットを組んでいるのですが、母校の専門学校からの仕事や紹介をいただいたりして、なんとか奇跡的に生活出来ていたようです。(ちょっとうろ覚え…)
ラッキーなことに大手企業や出版社のお仕事をいただき充実していた頃に、大好きだった祖母が急逝したことで行田に帰ることが増え、20代半ばの頃にふと「これからは行田に還元していきたい」と思うようになりました。
そして行田市のことを改めて調べていて出会ったのがカフェ閑居と設立申請中のNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークでした。2004年のことでした。
そこからこのまちづくりのNPOの外部サポーター的な役割としてwebデザインや、活動記録の写真撮影、活動発表用のパネル製作などしてきました。


藍染体験工房「牧禎舎」

月1で行田へ帰省するうちに行田・熊谷での仕事をいただくことがあり、数年は帰省ついでに打ち合わせなどもする生活を送ってきました。
私はその頃、銅版画の製作を始めていたのですが、版画で「雑貨」を作ってギャラリーで展示販売することになりました。どうせなら行田にゆかりあるものを作りたかった私は、行田市内にあった藍染体験工房が移転し、NPOの運営施設になっていることを知っていたので、そこで手ぬぐいを藍染めして版画をプリントすることにしました。販売するのであれば最低限の謂れが知りたいものです。館長さんに根掘り葉掘り色々お聞きしました。
そしてこの展示が終わり、次の年も展示を開催することになったので「また来年もよろしくお願いします」と伝えてから少し経った頃に体験工房の館長さんが急逝されたのでした。藍染体験工房は館長さん以外はほとんど管理の方法を知らず、そのことについては館長さんも継続していくためには今の状態では難しいことを話されていました。
そこから数ヶ月後、このことを発端に正式にNPOメンバーとして加わり、そして約1年後の2015年から藍染体験工房の担当を続けています。毎週末、都内から行田市へ通っているのはこの体験工房をオープンするためです。


わたしがやる理由

私が毎週のように牧禎舎へ通うようになってから約6年半。様々なことがありました。
そのことについてはまちづくりや、地域での活動、コミュニティづくりなどに携わる方たちに少なからずお役に立てそうな失敗談がたくさんあるので、今後記していこうと思います。

うまく行かないことがあっても、それでも続けていけるのは「こうなったら面白い!素敵だな♪」というビジョンがあるからです。やればそれが少しは叶うだろうけど、どうやったらそこまで持っていけるかは試行錯誤です。
「行田が好きだなぁ」と思って動いていると、行田好きのひとたちと知り合うことが多くなり、そうするとどんどん楽しい妄想や話が膨らんで行くので何も辞める理由がないのです。

特にここ3~4年はたくさんの方と知り合うきっかけがあり、そうした活動のなかで空き家をひとつでも開けてみることの大切さを感じて、最初の記事にも書きましたが「もしかしたら自分が空き家を一つ開けるのかもしれない」という少し緊張を伴う現状に、慣れないことへの頭の整理のためにnoteを始めました。
まちづくりについてのこれまでと、いまを少しずつ記事にしていきたいと思います。

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