見出し画像

なぜ、いま『洋酒天国』なのか

まず、この表紙がなんともカッコいい。これをカッコいいと言わずしてなんという。「洋酒天国」といえば、表紙は柳原良平さんと決まっているが、この昭和34年5月25日発行の36号の表紙も実にクールである。
仏映画のヌーベル・バーグの1シーンは、もしくは、のちのATGの映画パンフレットのようだ。

モデルは、若き日のコメディアン由利徹さん。冊子には、写真・杉木直也・坂根進となっている。おそらくは、この斬新なレイアウトは「洋酒天国」でアート・ディレクターを務めた坂根進さんの感覚だろう。

夕方、仕事終わりに駅ホームのベンチでピーナッツをつまみにチューハイを飲る。コロナ関連、飲食店がアルコールを出さなくなった頃から、つい、こうした機会が増えてしまった。一度、やると、クセになる。
気持ちは同じなのか、この時間、お酒の缶を持った駅呑みの同士を多く見かける。よく、よく、観察すると、自分を含めた自営業、もしくは工場勤務の方らしき人たちは、チューハイを。そして、スーツ姿のサラリーマンは、缶入りのハイボールを飲んでいる。もちろん、職業差別ではないが、これはちと面白い。チューハイの方がやや安い。だが、これは値段の問題ではないだろう。
そう、サラリーマンは、ウイスキーのハイボールと「洋酒天国」の時代から決まっているのだと。

「君は、トリス・バーを知っているかね、」と、私の義父がいう。
義父は、昭和九年の生まれであるから、1934年の生まれということで、「洋酒天国」を作ってき偉大なる先輩方、開高健、坂根進、柳原良平、山口瞳さんらとほぼ同世代だということになる。
「ナニ、知らんのか、つまらんな・・・」
ここで、若い方々の為に、このトリス・バーとはなんぞや、ということで触れておくと、サントリー・ウイスキー「トリス」をソーダで割ったハイボールを飲ませるバーのことで、これが、当時のサラリーマン、学生にヒットした。全盛期、昭和30年~40年にかけて、全国で2000軒もの店があったと言われている。

そんなトリス・バーにまつわる義父の貴重な証言を紹介する。(笑)
東京で営業として働いて義父の時代、キャバレーとは、現在のそのイメージ姿とはまったく異なり、なんでも、男性のお相手をするホステスさん300人、収容客数500名、計800名収容。マジ(笑)醍醐味は、本格的なショー、生ジャズ・バンドによる演奏によるダンス・ホール・フロア完備と。まさに、驚愕の異次元の空間であったらしい。生ジャズバンドには、今の和ジャズ・ファンが泣いて喜ぶ、錚々たるミュージシャンがずらりと並んだという。

そのなんというか、この世の桃源郷のような場所に、義父はほぼ毎晩入り浸たっていたという。それも、会社の接待費で。

だが、何より、義父は、そのキャバレーに行く前に、所謂、景気づけに、その「トリス・バー」にて、ハイボールを飲むのが何より楽しみだったという。私が想像するに、キャバレーの方は、もちろん、二十歳そこそこの若い義父にとって刺激的で楽しいところだったろう。でも、それは、やはり、接待という仕事の明暗を分けた、これもまた、気が抜けない仕事だったわけなのだ。
だから、「トリス・バー」とは、義父にとって得意先の相手がからまない、落ち着ける場所だったのだろうと推測する。
義父はここで、キャバレーが開店するまでの間、誰にも邪魔をされないひと時を過ごしたのだ。

義父は続ける・・・、
「そこで、君、ウイスキーのソーダ割を注文するだろ、(義父は、決してハイボールとは言わない、そういえば、銀座の有名なお店でハイボールを飲んでいたら、隣にふらっと現れた老紳士も、やっぱり、ウイスキーのソーダ割を、というオーダーしていたのを思い出す)
するとだ、皿にのったピーナッツがいっしょに出てくる。これが、いいんだ・・・」

そう、義父は忘れているかも知れないが、ここで、無料配布されたのが、サントリー、壽屋のPR冊子、「洋酒天国」だったわけなのだ。
そう、それを何気なく手にとって、ハイボールをちびりちびり、またはゴクゴク、ピーナッツをポリポリ、そして、その「洋酒天国」の冊子をパラパラとやったわけである。まさに、昨今の「酒のつまみになる話」ならぬ、「酒のつまみになる冊子」である。
そうだ、今度、この小冊子を義父にプレゼントしょう。きっと、喜んでくれるはずだ。

そして、私が今、改めて思うのは、この「洋酒天国」の都会的ダンディズムにおける、ポリシー、スタンスの独特、いや、奇異というべき独自性である。まず、この冊子は、壽屋のPRの為に、のみ存在するわけだが、とはいえ、その解釈はあまりにも広く、無限なのである。
ここに、小玉武さんによる”『洋酒天国』とその時代”から、プロローグの部分を引用する。

コマーシャル色は徹底的に排除し、香水、西洋骨董、随筆、オツマミ、その他、寿屋製品を除く森羅万象にわたって取材し、下部構造、委細にわたらざるはなく、面白くてタメになり、博識とプレイを兼ね、大出版社の雑誌の盲点と裏をつくことに全力を挙げる。(『日々に新たにーサントリー百年誌』)

『洋酒天国』とその時代 小玉武

ここで、凄いのが、寿屋製品を除く森羅万象にわたって取材し、
とあるのだが、寿屋製品、つまり自社の商品は後回しである。とりあえず、どうでもいいという姿勢である。
その最たるたるものが、上記36号の冒頭の記事であろうと思う。
「酒と煙草」というタイトルで、寿岳文章(甲南大文学長)という方がエッセイを書いておられるのだが・・・、
ここを抜粋してみればだ、

私は煙草をすわないし、酒も家庭では用いない。そのためか私をごりごりのクリスチャンだと思う人がある。しかし私は何も宗教的な信念から禁酒、禁煙を守っているわではなく、貧乏なくせに飲までもの酒、すわでもの煙草というのが、いつのまにか習慣になってしまったまでのこと。

『洋酒天国』昭和34年5月25日発行36号 「酒と煙草」寿岳文章

これなどは凄い、つまり洋酒のPR誌において、巻頭ページに、”私は、酒も煙草もようやらん、”という人のエッセイをのせているのである。

まあ、これを読んだ酒飲みたちは、「アハハ!、この大学のセンセ、人生の半分は損してるよ!」とくるのを編集部は大いに予想していることは間違いないが、それにしても面白い。

このことから、自社製品の広告を一切なし、いや、他製品の広告、広告そのものもが存在しない。雑誌というのは広告料で成り立っているという話もあるくらいだからして。この「洋酒天国」という冊子がいかに広告宣伝という域を凌駕していることに気づくことになる。

きっと、そこにある使命たるものは、目先のちっぽけな利益なぞには目もくれない、その向こうに広がる大海にこそ意味がある。酒飲みたちの文化レベルの底上げ、哀しい酒ではなく、楽しい酒、上品いや、上質な時間、それ、すなわち、寿屋、サントリー社の願うところでもあったのではないか。

文化、云々などというと、何やらNHKの特別番組のような高尚なイメージを持つが、何も、一部の特権階級の生活をいうのではなく、今ある社会全体を通してこその文化である。そう、それは街の酒飲みたちから始めなければならない。なぜなら、その時代、時代、そこには本音で語るリアルな文化があるはずなのだから。

重くもなく、かといって軽くもない。昨今、重いか、やたら軽いかかのどっちかの時代。ウイスキーを語りながらも<思想>をも語るという。この雑誌に名を連ねた作家、文化人たちの嗚呼、筆の妙・・・。

なぜ、いま『洋酒天国』なのか、分かるような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?