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馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死にしないための方法序説

この間、テレビで市川團十郎白猿、襲名披露というのを仕事に出掛けにふと見たんだ。そしたら、息子の勸玄くんが八代目市川新之助、襲名挨拶の後、インタビューで「どんな大人になりたいですか?」っていう記者の質問に対し「やさしい人になりたい」って答えた。もうこの頃の年齢となれば、世の中のせちがらさなんかや矛盾であるとかを感じていて、すなわち優しいだけじゃ生きていけないということを知ってるわけで、とくに、このような特別な梨園の世界にいればなおさら。だが、知りながらも彼はそう答えた。それに、ちょっとグッときたわけなんだ。正直言うと、ちよっと涙くんでしまったくらいなんだ。それで、駅に向かう途中、どこからともなく思い出したのが、なぜか、庄司薫の小説だった。なんでだろう、自分でもよくわかんないけど。庄司薫って、今、イケてるのかな、そもそも、みんな知らないんじゃないかな。かって庄司薫の小説にどっぷりつかっていた少年少女たちもおそらくはみな還暦すぎ、いや、もっと上の世代。なんせ、学園紛争真っただ中の頃、ゲバルトとか、サンパ・ミンセーとか、ベーテー(米帝ね)とか、ゴーゴー喫茶とか、紀元前の化石化したようなワードがところどころ出土するわけなんだ。それに何より、物語のはじまりが、”ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているんじゃないかと思うことがある。”という文章ではじまるくらいだから。というのは、携帯電話のない時代、彼女の家に電話すると、本人ではなく、たいていは彼女の母親が電話口に現れるということをいっているのだけれど、こんなことを説明するほどやぼなものはないんだけど。

だけど、庄司薫の小説の感覚って、いがいに現代と共通するものがあると思っている。主人公の薫くんは日比谷高校の三年生で東大受験が、その学生運動の余波で受験が中止になってしまった年の受験生。(これだって、昨今のコロナの影響とかぶるものがある)十年ぶりに風邪にかかり(当時のホンコン風邪)使い込んだ万年筆を落とし、十二年飼ってきた愛犬に死なれ、そのうえ左足親指の生爪まではがしてしまった。そんな不幸の連鎖あって、ガールフレンドの由美に、愛犬ドンの死、爪をはがしてしまったこと、そして、大学に進学するのをやめたことを伝えたかったのだけれど、でも、そこにほんの気持ちのすれ違いがあってそれが叶わない。伝わらない。これって携帯電話が普及した現代にも大いに共通する話、普遍性を持つ話でもある。さらに言えば、薫くんはシェクスピアとゲーテが好きで文学仲間から古典派の烙印を押されている。シェクスピアとゲーテって、まてよ、古い、新しいを超えた、そうそれこそ普遍性。それで物語は大きく飛躍するわけでもなく、薫くんは黒いセーターに黒いGパンをはき、黒い皮のジャンパーをひっかけ、爪のはがれた足を古い大きなゴム長靴に突っ込み、その姿、本人曰く、魚河岸の若い衆、そのスタイルで自転車に乗り、なんかこのシーンでぼくは和光高校時代の小沢健二が下駄を履いて通学していた話しを思い出したりして。
玉砂利の道を自転車をこぎながら左足の痛みをこらえて、ガールフレンドがいるテニス・コートに向かうも彼女の反応はすげなく傷ついたり、乱痴気パーティー、(今もあるちょっと名前は違うが)で男性が機能しないそんな経験談を吐露してみたり、ガールフレンドに操を立てている、いや、それともと違うんだけど・・、足の痛みに耐えかねて行った病院で女看護婦さんに誘惑され、結局その機会をモノに出来ずに自己嫌悪に陥ったり、青春の葛藤と焦燥と困惑の日々のなかで自問自答を繰り返す。この小説は薫くんのある意味、果てしない自問自答でできているのだ。

この小説を読んだあと読後感としては爽やかななんだけれども、いろんな意味で考えさせられることになる。そして、これはそんじょそこからの青春小説ではないってことに気づくことになる。ある意味これは、この時代の「君たちはどう生きるか」といってもいいんじゃないか。

ある評論家が自から私ら知識人は、という言い方をしていたのを聞いて、あまり、いい気持ちはしないのだけれど。では、知識人ではない人たちというのはどういう人種、もしくは職業の人をさしていうのだと言いたい。人種でいえば、その反対語は野蛮人か。職業でいえば、魚に詳しい旬の魚を教えてくれる魚屋の大将は知識人ではないのか・・・、でもね、この薫くんの数日の物語、これって、あえて知識人の闘争の数週間の話なんじゃないかって思ったりするのだ。彼が日比谷高校で東大法学部を狙えるほど成績優勝者というだけではなくね。
例えば、こんな話が出てくる。

たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊に広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える、限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないかといったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、(中略)ぼくは(すごく生意気みたいだけれど)ぼくのその考えかたが正しいのだということを、なんていうかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ。そして、それと同時にぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく、他の人たちもをも自由にのびやかに豊にするものだということだった。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』 庄司薫


物語の終盤、街に出た薫くんにアクシデントが襲う。雑踏のなか小さい女の子がその爪のはがれた左足を誤って踏んだのだ。痛みをこらえる薫くんであったが、素直に謝り困惑する彼女、そして、女の子の買い物、本屋さんで”赤頭巾ちやん”を買うを手伝うことに・・・。
その女の子の無邪気な可愛らしさ、やさしさに触れ、薫くんはこの時、突然、何かを感じることになるのだ。
それほどのネタバレではないと思うので書くと、ガールフレンドの由美に、愛犬ドンの死、爪をはがしてしまったこと、そして、大学に進学するのをやめたことを伝えたかった、という思いは、ラストですんなりと解決される。
そして、薫くんはラストでこんな思いに到達することになる。

ぼくは突然のようにぼくが考えていることが分かった。ぼくは溢れるような思いで自分に言いきかせていたのだ。ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。そのなかでは、この由美のやつがもう何も気をつかったり心配したり嵐を恐れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいな楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』 庄司薫

ぼくは、この物語の果てしなく続く、薫くんの自問自答。これってきわめて哲学的なんじゃないかと思うわけなんだ。すぐれた哲学者は、いつでももうこれ以上考えられないというところまで思考を追い詰めて、それを多くの人々に投げかけてきたから。
礼を重んじた孔子、社会契約説を提唱したルソー、なぜ、戦争はなくならないのか、そこには、人類みな平和の前に人間には欲望があるからだとヘーゲルは説いたし、戦争はなぜ起きるのか、戦争を起こさない為には、それを考え続けてきた哲学者たちの歴史が哲学そのものであったからだ。

ぼくはなんとなく、「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死にしないための方法序説」なんて論文を思い出していた。これは(ぼくはあまりしゃべってはいけないと思うのだが)例の下の兄貴が書いたもので、(中略)その中の最後の方に「逃げて逃げて逃げまくる方法」というのがあるのだ。つまり、誰かがもしなんらかの問題にぶっかったら、とにかくまずそれから逃げてみること、特にそれが重大な問題であると思われれば思われるほど秘術をつくして逃げまくってみること、

『赤頭巾ちゃん気をつけて』 庄司薫

ぼくはこれを再読してうんと唸ってしまったのである。
これは、昨今、ストレス社会、言われ始めたことではないか。元祖、「逃げ恥」そんなことさえ感じてしまう。
もちろん、これには結論がないのだが、”逃げるなんて卑怯だ、男らしくないぞ”、が叫ばれたスポ根全盛のこの時代、あえて、薫くん、男らしいの前に、人間らしかったのだ。

人生は上手くいかない、だが、その割り切れなさ、煮え切れなさを、どう悩みまくるか、どう愛おしむかで、この人生の見方は、いや、生き方は大いに違ってくる。薫くんの果てき自問自答、それにはきっと意味がある。
「ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に・・・」
そして、知識人たるものは、知識人を名のるものであるならば、そうでなくてはいけないと強く思うのだ。

朝のテレビの勸玄くんの発言から、ぼくはこんなことを思い出してしまったのです。

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