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サイタマのザリガニ釣り

バケツに入ったたくさんのザリガニ、ザリガニ釣りにコツなどいらない。竹ひごにタコ糸を結び付けその先にサキイカをぶらさげ、池や沼などに垂らせば済むことである。たいていの子供はすぐに飽きる。腐ったザリガニの死骸のバケツの異臭とともに。
しかし、ここから教訓はないのかと、私は思う。

「こいつら、本当にバカだぜ、そのハサミをはなせばいいのよ、」と、釣り上げたザリガニを引き寄せながら子供たちは言う。
ザリガニのハサミは、しっかりと、サキイカを挟んでいる。迷うことなく、恐れることなく、しまった、という感慨すら感じさせない。
子供たちは、それを食うこともなく、ただ、バケツに放り込む。近くからは建築現場のカーン、カーンという音が聞こえてくる・・・。

中学の時に小林○○ってやつがいた。制服をだらしなく着込み、ワイシャツは基本ズボンからはみだして、マジソンスクエアバックのロゴはすっかり消えかかり、ファスナーの閉まらないそれは単なるズタ袋と化し、そこには、ありとあらゆるものが突っ込まれ、つっかけた上履きは薄いせんべいのようになり、ワイシャツは、しばし、女子から「あれ、洗濯してんの?」という疑問の声がつねにささやかれた。その年期の入った黄ばみはワイシャツという概念をはるかに凌駕していた。そこにはもはや歴史があった。16世紀のゴビ砂漠。我々、アジア人はいつ頃から黄色人種と呼ばれるようになったのか、というような。さらには、なぜ、本来、白いワイシャツが、こういった色彩に変化するんだろうというかという科学的ともいえる偉大なるサンプルでもあった。そして、その茶色い黄ばみは、やつの口元と完全にマチッングしていた。その口元からのぞくトルコの古代遺跡のように並んだ歯、それも、やはり同じような色をしていたのだ。もちろん、そんな口元からは下水溝のような生臭い息が匂った。
やつは始終笑みを浮かべていた。別段、面白いことがなくても、ただただ、やつの顔は笑っていた。静かな雨音しかしない月曜の朝の教室、誰の人生においても記憶に残らない一日、それでも、ただただ、やつは表情に笑みを浮かべていた。取り立てておかしいことはなにひとつないのに。

やつは、なにかこう媚びるような視線、うわべつかい、そんな目線で人と話すのが癖だった。それは、クラスの人間も、教師も、近所の人間にもその媚びた視線は変わることはなかった。私は、後にテレビでチャップリンの映画を観て、チャップリンが労働者からパンをちょろまかすシーン、見つかりそうになってパンをそっと戻す、ごまかすその視線が、この小林のものとまったく同じであることに気づいた時は何かを発見したかのような気分になったものだ。

そんなやつだから、クラスメイトから多少いじられはした。やつのマジソンスクエアバックはクラスのごみ箱と化し、飲み残された牛乳パックも容赦なく投げ込まれた。さらには、不幸な運命をたどるマジソンスクエアバックは休み時間、廊下で行なわれるサッカーゲームのボールとされ、これでもかと蹴飛ばされた。そんななかにあっても、やつは、それでも笑みをうかべていた。おかしいことなどなにひとつないのに。そして、廊下の真ん中で中身をこれでもかと店を広げたマジソンスクエアバックに気づいた午後の教師がそれを回収するように小林に命じた時、小林は例の媚びるような視線、うわべつかいで教師を見つめるのだった。

だが、だがだ。やつには才能があった。そう、やつがたかだがしれたやつくらいだったら、ここまで、1,087文字、打ち込む必要などないのだ。
そう、やつはべらぼうに絵が上手かった。
やつの絵は学校のコンクールにおいてもつねに最優勝にかがやき黄色いリボンとともに校内の掲示板に貼りだされた。ある絵は、放課後の校舎を描いたものだった。校舎を夕陽が半分染め上げていた。それを見たPTAの母親たちは、みな感嘆の声をあげたものだった。差し込む夕陽は、最適な明度、彩度、色相の三色で塗分けられていた。そこには、時間によって変化する自然、そのゆったりとしたリズムを感じさせ、そのそれは高等技術と言っていいものであった。それは単純に絵が上手い中学生の範疇を超えていた。
そして、何より、驚くのは、その絵は作者自身の主観が取り入られているところだった。その絵はどことなくさみしく、どことなく暖かさを感じるものだった。そう、それは誰の記憶にも残らないちっぽけなさみし気な一日でも、ただただ、笑みを浮かべているやつ自身そのものが宿っていたのだ。さらに、私が思ったのは、こんな学校生活においても、やつは学校が好きなんだということ・・・。その絵には、放課後みんなと一日を過ごした校舎に別れをつげ、また明日という思いが滲んでいた。

なぜ、やつにそんな絵が描けたのか、いまだ、もつてして大きな謎だ。どこかに習いにいっていたのか、いや、やつはまさしく天才だったに違いない。
もちろん、そんな才能を学校がほおっておくわけがない。言い出したのが教頭だったか誰か忘れたが、まもなくその絵は市のコンクールに出展された。結果、やつの絵は佳作として入選したが、それはなみいるプロ・アマクラスの大人たちにまじっての大健闘の結果だった。だが、それも一週間もするうちにクラスの連中もその教頭の熱も冷めていった。

やつの家はオヤジがペンキ屋をやっていた。オヤジはひどい癇癪もちだった。その癇癪はよくあるように、いや、たいていは決まり事のように家族に向けられた。町の噂で小林塗装のオヤジはシンナー中毒で頭がおかしいと囁かれていた。
ある日、オヤジは仕事現場に、小林に昼食のパンを届けさせた。オヤジが贔屓にしている店のいつもの総菜パンだ。
小林は、例によって媚びるような視線、うわべつかいで、父親にパンを差し出した。
その瞬間、父親は、なんと、ことあろうか、自分の息子の顔面に思い切り平手打ちをくらわしたのだ。
小林の手からパンがこぼれ、体は飛び跳ねたバッタの勢いを持って地面に転がった。
「オマエは、どれだけ頭悪いんだ。オレが頼んだのはこのパンじやねえよ!さっさと行って、パン買い直してこい!」
その場をさらに冷え込んだものにしたのは、休み時間、車座になってめいめいが昼食をとっていたその場所、父親の同僚たちから笑い声がもれたことだ。「小林さん、ちょっとやりすぎじゃないの」と言いながらも、そこには淀んだ空気のひとかけらも感じられなかった。

小林には姉がいた。姉は母親に似たのか器量は悪くなく人柄もよかった。
小学生の頃、町内の犬が行方不明になったことがあった。小林の姉はともだちを集め捜索隊を結成した。商店街で情報を聞きまわり、犬ジョンの特徴を模造紙に描いたチラシを町のいたるところに貼り付けた。もちろん、手書きの時代だ。捜索は放課後、日が暮れるまで続けられた。ある時、空き地の土管でうずくまっている犬を保護したという大学生から連絡があった。数時間後、ジョンは飼い主の元に無事帰還することとなった。
その姉は高校生の頃、突然、姿を消した。
ある時、クラスのやつがオマエのアネキはどうしたと尋ねたことがあった。
すると、小林は、ヤクザもんと一緒になって、どっか遠くの自分の知らない街へ行ったと答えた。そんな時でも、小林はよくぞ聞いてくれたとばかりそれを笑顔で答えたものだった。

小林は成績が悪すぎて、高校には進学できなかった。私はそのことで、絵の方でどこか進学できる道はないのか担任に相談した。美術の教師にも相談した。教頭にも直談判した。だが、教師や学校は結局、何もしてはくれなかった。

それで、小林は自分の家のペンキ屋を手伝うことになった。グレだしたのはこの頃からだ。
私は、ここから、その後の小林のことをよく知らない。避けていたのだ。
だが、それから、高校の頃、街の盛り場で、やつに偶然、つかまった。
「よー、久しぶり。どうしてんの」
派手な色のシャツを着て、肩をゆらしながら、言葉つかいを含め、やつはそのそれになりきっていた。その顔は笑っていたが、あの頃の笑みではなかった。
「ところで、煙草もってない?・・・」やつは言った。
だが、その時、その目だけは、かっての面影を残していた。そうだ、あの媚びるようなチャップリンの目だ。煙草を本当に欲していたのかも知れない。
私は、持っていないと答えた。
それで、かわりにこう言った、「オマエ、まだ絵を描いているのか」と。
おそらく、絵を描く、という言葉、言語、その響きを、ひさしぶりに耳にしたのだろう。
何か、一瞬、静けさ落ち着きがすっと入ってきたような気がした。冬の穏やかな陽が差し込むように・・・。
小林は、地面に唾を吐いた。
そして、振り向いて雑踏のなかへと消えていった。

それが、小林を見た最後だった。
同級の噂では街で見かけた小林の手の指がどうとか言っているものもいたがきっとデマだろう。
長い年月がたって、私は、彼のことを忘れた。
そう、3075文字、これは、ありきたりな、ありふれた話。

世界では今日も、こんな話がやまほど、小林のマジソンスクエアバックのような場所につめ込まれあふれさせている。



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