書けそうで書けない片岡義男の文章スタイルについて
片岡義男の文章スタイルは書けそうで書けないと思っている。
著書「僕は珈琲」のなかにリチャード・ブローティガン「芝生の復讐」に収められた5ページたらずの”コーヒー”という作品が出てくる。
かって別れた女性・二人の家をそれぞれアポイントなしに尋ね、”とくに用事もないがせめてコーヒーでも”と願う男性の話しだ。
ひとりの女性からは、なかば義務的にインスタント・コーヒーを頂き、もうひとりの女性は「明日早いのでもう寝なきゃいけないの台所にインスタント・コーヒーがあるから勝手に飲んでいって」のひと言を残し、寝室に入ってしまう。
何か、この文章を読んだときにふと感じたもの、それは、この文章のリズム、呼吸はどこか片岡義男氏の書く文章に似ているぞということだった。
そして、思うこと、リチャード・ブローティガン「芝生の復讐」はもちろん、訳者・藤本和子氏によって翻訳されたものである。それで、気づくのは片岡さんの文章とは、頭に浮かんだ横書きのイメージを縦書きの日本語に置き換えたものではないのかと。
片岡さんの御祖父さんは戦前にハワイに移住した方である。アメリカの市民権を持つ片岡さんのお父さん定一さんは日系二世ということになる。私のあてずっぽうな予想に、そうしたことが関係しているのかわからない。だが、定一さんは家庭のなかでは英語しか話さなかったと言われている。幼少の頃より、片岡さんのイメージのなかには、父、定一さんの言葉、横書きを、縦書きのイメージとして受け取る感覚、訓練があったのではないか。そんなこと思う。
「僕は珈琲」は、コーヒーにまつわる文章をまとめたものだ。
だが、それは、コーヒーそのものというより、コーヒーをきっかけにした文章たちである。
ブローティガン「芝生の復讐」に登場する、別れた女性を訪ね歩く男性の、せめて一杯のコーヒーでも、という思いも、きっと、きっかけにしか過ぎない。ペーパー・フィルターからしたたり落ちるコーヒーの一滴、長い年月の男性の思いのしずくの蓄積は、インスタント・コーヒーにとって代わる。さらには、インスタント・コーヒーさえも、ままならない。
そして、「僕は珈琲」それらのエッセイにも、完全なオチはない。
それは、まるで、一杯のコーヒーを頂く時間のようである。
その一杯によって、我々はリラックスし、ある意味、交感神経を刺激する。
そして、人生と同じ、苦みを残して仕事に戻る。
美味いコーヒーだったな・・・。
そう、だけど、このコーヒーは、そんじょそこらでは飲めないはずだ。
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