見出し画像

あの日、アストラッド・ジルベルトが歌わなかったら

『ゲッツ/ジルベルト』1964年グラミー賞4部門受賞。もはや夏の必須アイテム。夏の風物詩。結論からはじめれば、この作品のキモってアストラッド・ジルベルトが歌ったということにあると思う。もし、この日、アストラッドが歌わなかったら、としても今日におけるボサノヴァそのものの評価は変わらなかっただろう。だが、その音楽は、ある意味、趣味人、通人の聴くような、シックな趣味の良い音楽、そういった範疇で聴かれたのではないか。しかし、アストラッドが歌ったことで本作品、いや、ボサノヴァそのものが大いなる知名度と幅広いポピュラリティー獲得したことは間違いないだろう。

シングル盤『イパネマの娘』はジョアン・ジルベルトが歌う場面がカットされたヴァージョンであるが、「なにこれ、ジョアン・ジルベルトが歌っていないなら、”ゲッツ/ジルベルト”そのタイトルに偽りありじゃないか」と思った私も、そういえば、アストラッドもジルベルト。タイトルに偽りなし。彼女が生涯にわたってジルベルトを名乗っていたことを思い出す始末なのだ。

このセッションが行われたからちょうど60年。今このアルバムを改めて聴くとき、不思議な感慨をおぼえる。そう、それは、”アストラッドが歌う”という現象、ある意味ハプニングが、初めからそうなるような行雲流水その感覚。そして、その事実における真の意味とはなにか、コルコバード丘のキリスト像からの神託、あたかも、アストラッドがミューズとしてのボサノヴァ親善大使としての神託を受け取った瞬間だったといえるような。

1963年3月18日、ニューヨークA&Rスタジオ。最初にスタジオに入ったのは誰だったかというのは、ボサノヴァ・ファンならず誰しも興味のあることではないだろうか。何しろ、二大スターは、音楽以外はサイテー男と囁かれ遅刻魔スタン・ゲッツと若い頃より数々の奇行、常習的なすっぽかしで知られるジョアン・ジルベルトのこと。

ちなみに、この日の主要人物と当時の年令は以下の通り。
ブラジル組、ジョアン・ジルベルト(32才)、アントニオ・カルロス・ジョビン(36才)ボサノヴァ三聖人の二人、それら堅実なボサ・リズムを定義するリズム・セクションとしてのセバスチャン・ネトとミルトン・バナナの二人。この日、通訳として参加したジョアンの妻アストラッド(23才)それに対する米組、スタン・ゲッツ(36才)そして、プロデューサーであるクリード・テイラー(34才)

かくてその予想は真実となる。マーク・マイヤーズ氏サイト『Jazz Wax』のクリード・テイラーへのインタビューによると、レコーディングの初日、そこにジョアンの姿はなかったとされている。だからこそ、ジョビンはスタン・ゲッツに、クリード・テイラーに、アストラッドを紹介しなければならなかったのだと。クリード・テイラーは、この時までアストラッド・彼女が、誰かさえ知らなかったと答えている。アストラッドの最初の幸運はまずここにあったと思う。例えば、歌手を夢見るアメリカの片田舎の女の子が、音楽業界トップのアーテストやプロデューサーに会うことは至難の業である。だが、ジョアン・ジルベルトの妻であったとはいえ、アストラッドにとってその機会はすんなりと運ばれてくる。

ここで、滞在先のホテルに引き籠っていたジョアンを説得するするためにスタン・ゲッツの妻モニカがその滞在先のホテルに向かう。モニカは3時間以上かけてジョアンを説得し彼を車に乗せこのスタジオに運ばせる。つまり、セッションはめでたく成立する。アストラッドにとってもこの日二つ目の幸運。
同じく、『Jazz Wax』クリード・テイラーのインタビューによると、スタジオに到着したジョアンはまるで時間どおりに到着したかのように演奏をはじめたとある。
ジョアンがチェアに腰掛けギターを抱える、口元にマイクがセッティングされる。トム・ジョビンはピアノにスタンバイ、スタンも同じようにチェアに腰掛けるとサックスのストラップを肩にかける。
さあ、これから後は皆さんがご存じのとおりだろう。その音源はスタンと同じニューヨーク・ブルックリン育ちのエンジニアであるフィル・ラモーン(29才)によって、当時最新である秒速30インチのテープ・スピードの録音機器に記録される。結果から言ってアストラッドにとってもこの日三つ目の幸運。

リラックスしたボサノヴァのリズムを刻むジョアンのギター、囁かれるヴォイス、ゆらゆらと反射する夏の光りのようなトム・ジョビンのピアノ、それら音上に身をまかせるようにして、スタン・ゲッツのサックスはソフトで内省的で陰影に富むフレーズをからませていく。まさに、極上のコントラスト。
セッションの最後のナンバー、『VIVO SOHAN DO』は、リオの洞窟の奥底から聞こえてくるかのような神秘的なジョアンのヴォイス、その歌詞の余韻にスタンのソロが情緒的な印象をそえる。

曲が終わり、その余韻にスタジオ中が酔いしれ静まり返る。

その沈黙・・・、

しばらくして、ブースから「オッケー」のアナウンス。

ここで、プロデューサー、クリード・テイラーが提案する。そう、自らがプロデューサーであることを、あったことを思い出すように。
「このアルバムからのシングル用の曲のために、なにかキャッチーな曲を録音したいのですが・・・、」(数行想像によるもの)

ここで、この物語は、スタン・ゲッツが、アストラッドに歌で参加することを提案する、ということになる。

この提案にブラジル勢、ジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンは当初反対したとされている。そりゃそうだと思うわぜるえない。ブラジルからわざわざ、ボサノヴァ三聖人の二人を呼んでおいて、歌唱の訓練を受けたこともない素人のアストラッドを参加させる・・・。何よりこの伝統的なサンバとジャズとの邂逅というべきセッションの質、ランク、価値そのものをさげてしまわないかと。

だが、アストラッドにとって、ここでこの日、四つ目の、いや、生涯最大の幸運が舞い降りる。そう、アストラッドを『イパネマの娘』ほかセッションに参加させるという事実が。ただの専業主婦が、ただの通訳としてこのスタジオにあらわれたはずだった彼女に・・・。

その結果として、この曲は米のみならず世界中でヒットしたことはいうまでもない。『イパネマの娘』はその月のポップシングルのチャートで五位に上がり、アルバム『ゲッツ/ジルベルト』は8月のアルバム売り上げで最高二位に達した。なぜ二位なのかそれはビートルズの『ア・ハード・ディズ・ナイト』に正面からぶつかり合ったからだ。だが、これで『ジャズ・サンバ』から火がつきはじめた米国のボサノヴァ・ムーブメント決定づけるものとなった。そして、何より、ボサノヴァその新たなる音楽ジャンルの存在を決定づけることとなった。

『GETZ/GIBERTO Juke Box 7inch Van Gelder』
『GETZ/GIBERTO Juke Box 7inch Van Gelder』


米ジャズ界で最初にボサノヴァを発見したのはギターリストのチャーリー・バードだがスタン・ゲッツはそれにいち早く敏感に察知し、チャーリー・バードらとともに本セッション以前に数枚のボサノヴァ作品を発表している。スタンにチャーリー・バードとともアルバムを作成するように提案したのが、クリード・テイラーである。また、クリード・テイラーはかねてよりアントニオ・カルロス・ジョビンの高い音楽性を評価していた。
そして、何よりそもそもボサノヴァは、母国ブラジルの伝統音楽サンバ・カンサウンをルーツに米国のクール・ジャズのニュアンスが合わさったものだとされている。クール・ジャズの定義とは難しいが、恐らく、それはレニー・トリスターノとその弟子リー・コニッツたち、トリスターノ・スクールのそれではなかったろう。ウエスト・コーストで洗練されたジャズをやっていた、ジェリー・マリガン、チェット・ベイカー、そして、イースト・コーストではクール・スタイルの第一人者、スタン・ゲッツ、ここにいるその本人、その音楽だったに違いないのだ。

それを裏づけるようにてして、ジョアン・ジルベルトはこう語っている。「何年か前、まだ若くて、自分の国で模索していた頃、私はスタンを知った。向うは私のことなど知らなかったがね。(中略)我々は、何度も彼の演奏を聴いて心を揺さぶられた。私の国の音楽を演奏しているのを聴きたいと思うアメリカ人は彼のほかにはいないね」

当時、若き日のジョアン・ジルベルトはスタン・ゲッツの「Tis Autumu」の郷愁に自国のサウタージを重ね、また「Cool Sounds」に自身思い描こうとするクールネスを重ねた。このことからやや乱暴な発言をするならばボサノヴァとは母親をサンバ・カンサウンとするらならば、父親は米国のクール・ジャズだというようなことになりはしないだろうか。すなわち、スタン・ゲッツはボサノヴァ、自らの遺伝子をこのブラジルの新しい音楽から感じとったのだ。よって、スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ボサノヴァがいずれ邂逅するの必然のことだったということになる。

そして、あまり知られていない二人の共通点がある。スタンは13才の誕生日に父親からサックスをプレゼントされる。練習場は自宅のアパートの風呂場、そこでゲッツ少年は日がな一日、サックスの音を響かせていたという。そして、一方、若き頃のジョアン・ジルベルトは仕事での常習的な遅刻癖、リオの山より高いプライド、親身になってくれる友人たちにさえも時に傍若無人なふるまいによって仕事をなくし街を追われる。しばらくして彼は姉の住む田舎町で自身の音楽を生み出すきっかけを掴む、その場所がバス・ルームだったと言われている。そう、かねてより二人は風呂場つながりとしてタグづけされていた(笑)

そのスタン・ゲッツはジョアン・ジルベルトの妻、アストラッドにセッションの参加を要請した。

そして、その成功のカギとなったアストラッドが歌うことになった要因には、このセッションにまつわる人間模様その要因が大きくかかわっていることは間違いないことだろう。

それぞれの自国の音楽その伝統とプライドをかけて、そこにややこしくも魅力的な女性が1人加わる。かたや、重度ジャンキーの多重人格者、かたや、数々の奇行で知られる人でなし。トム・ジョビンというある意味人格者と、クリード・テイラーというある意味レコードを売らなくてはならない男。
だが、ひとつだけ確かなことは、誰もが他の追随を許るさないアーティストであり、それぞれが相手の音楽を誰よりも強くリスペクトしているということ。

その後、アストラッドがボサノヴァのミューズとしてのボサノヴァ・親善大使として米を中心に活躍したことはここに書くまでもないだろう。
ボサノヴァの世界的なヒットはブラジルにどれほどの外貨がもたらせたか、ここではそれはちと調べる気がしなかったが。
母国ブラジルでは、ボサノヴァ音楽としてのアストラッドはまったく無名であるという。私は思う、彼女はボサノヴァを世界中にひろめるべき貢献したのだ。だからそれらは評価は、母国ではなく当然、世界に向けられていて当然なのだと。

アストラッド・ジルベルトは今年2023年6月5日にアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアの自宅で亡くなった。83才だった。

もちろん、ブラジルでもそのニュースは伝えられたがその訃報記事は他の一般記事と変わらないほどの写真付きの小さなものだったという。そして、それら記事には、政界や芸能界からも弔辞のようなものは見あたらなかったという。

彼女は一夜にして、ボサノヴァの女王、スターダムにのし上がった。やがて、夫、ジョアン・ジルベルトとの破局、売れれば売れるほど押し寄せてくる米ショービジネスのある意味病魔・・・・、
そして、彼女が自身のソロ・アルバムで、『Dindi』を歌う時、その思いは母国ブラジルに向けられている。いるはずだと思う。
もちろん、それは純粋たるブラジル音楽ではない。ないが、この疑似ブラジル音楽において、本家ブラジル音楽でいわれるところの意味と同じ、サウタージを作りだしているということは私がここに書くまでもないことだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?