『Respond to Respond』” レスポンドレーベル・ディスクガイド”
1981年に英国のロックバンド、ザ・ジャムのポール・ウエラーによって、第二のモータウンを立ち上げるべき設立されたインディペンデント・レーベル”RESPOND”レスポンド。「Keeps or Burning」を合言葉に約5年間にわたり若き才能を音楽シーンへと導いたが、結果、大きな成功を手にすることなくレーベルとしての活動は終わる。
地元グループがいきなり表舞台にあがったかのようなビジュアルその垢抜けなさ。レスポンド歌姫トレイシー・ヤングはチャーミングで魅力的であるが、スター性があるかと思えば決してそんなことはない。むしろ、同じ時代、もう一人のトレイシー、トレイシー・ウルマンの大衆性に近い何かを感じる。そもそも、第二のモータウンを目指すことなど実現不可能、遠い夢だったのか。
だが、本当にそうだろうか。確かに売れなかった。地味だった。実力もなかった。レスポンド・レーベルというものはそれで一件落着なのだろうか。ビジネスとは成功という目的なしでは成立しえないが、音楽における成功とは、それすべてではないはず。第二のモータウンを目指すという無謀とも思える呼びかけに集まった英の若きミュージシャンたち、私は、このレーベルが失敗だったとはとうてい思えない。彼らアーティストが持つ黒人音楽愛、そのピュアな心情がこのレーベル大きな魅力となっているともに、不器用ともいえる黒人音楽のにじり寄り方に偏愛にも似た感情、愛おしささえ感じてしまう。
ザ・ジャムの活動を通じてポール・ウエラーが一寛して発信していた。音楽への思い、その情熱がこのレーベルの信念、心情にリンクしていることは言うまでもない。ザ・ジャムがデビユーした時代、パンクの持つDIY精神と共通するのはもちろんのこと、その生き方、哲学、思想、スタイルを共有す者たちのレーベル。スタイル・カウシルが”スタイルの大学”だとすれば、レスポンドのアーティストたちはその”スタイルの予備校”。だが、その予備校のなんとキラキラ輝いてことか。
さらには、このレーベルのジャケットを含めてトータル的な美意識も実に魅力的だ。そして、日本でこのレーベルが再評価されるのは、これまた90年代の”世界同時渋谷化”していた時代の東京だ。そう、この時代、小山田圭吾さんの主催するレーベル「トラットリア」(trattoria)が、1996年にこのレーベルのすべての音源を再発したのだ。すべてと書いたのは誇張ではない。そう、レスポンドのオフィス金庫に眠っていた未発表音源をほぼすべて収録した形においてリリースしたのだった。ここに、小山田圭吾さんと「トラットリア」(trattoria)関係者、ポリスター社に敬意を込めるともに、ディスク・ガイドという形で、今一度、レスポンドの大手のレコード・レーベルにはない魅力を振り返ってみたいと思う。
1981年「ザ・ジャム」は前年1980年にリリースされた通算5枚目のアルバム『サウンズ・アフェクツ』を引っ提げ、ワールド・ツアーを敢行。二度目となる来日公演も果たしている。「ザ・ジャム」にとってツアー三昧だったこの年、ポリドール傘下のもと、早くもレスポンド名義として5枚のシングルが英でリリースされている。
この時点で、どこまでポール・ウエラーが本レーベルに関与したのかは不明だが、少なくともすでにこの年、レスポンドというレーベル名が使われこれら作品がリリースされていた事実である。(シンボルであるバーニング・マークはまだなし)興味深いのは「クエスチョンズ」がこの時点で作品を世に出していること。翌1982年に12インチ・シングルとなって最リリースされた『*Work And Play』には、プロデューサーにポール・ウエラーの名前がクレジットされている。
そして、知る人ぞ知る「ドリー・ミクスチャー」の存在である。1980年頃に英インディーズで活躍した女の子、デブシー・ワークス(B.vo)レイチェル・ボー(g.vo)へスター・スミス(drs)からなる3人組・スリーピースバンドでパンク精神と花柄ワンピース、その特異なキャラと楽曲センスは90年代ネオアコ・マニアたちの間で垂涎の的となっていた。私も、レスポンドから出されたこのシングル盤2枚の存在を知ってはいたものの、探しても探しても見つからなかった記憶がある。しかし、1998年、ここ日本、これまた「トラットリア」から『ドリー・ミクスチャー・ドリーミズム!』というタイトルでミニアルバムが発売される。本CDには、レスポンドからリリースされた『*Everthing And More』が収録されている。解説は仲真史さん、この時点で不鮮明だったこのグループに対する情報は実に得難いものだった。ハンド・ベルに導かれる高揚感のあるまさにドリーミングなナンバー、この曲を所有できる喜びに涙したマニアも決して少なくはなかったと思う。
ポール・ウエラーがレスポンドを本格的に始動するのが、翌1982年だったと考えられる。この年の1982年12月11日、モッズの聖地であるブライトンでのラスト・ステージでザ・ジャムその6年間の活動の終止符をうつ。ポール・ウェラーはこの日を境に、英国に多大なる影響を与え続けたグループを解散、清算することになる。
ザ・ジャムとしての最後のシングル曲は、『ビート・サレンダー』(全英ナチャート首位)そのバック・ヴォーカルに起用されているのが、本記事、レスポンドの歌姫・トレイシー・ヤングなのだ。トレイシーは、ポール・ウエラーが音楽紙「スマッシュ・ヒット」の新人募集の広告に応募して採用されたシンデレラ・ガール。『ビート・サレンダー』の英リリースはブライトン最後のステージの7日前の12月4日。レスポンドの新人募集広告は、その数週刊前、もしくは数か月前に出されたものではないだろうか。
ロンドンから鉄道で約40分、イングランド東部のカウンティ、エセックス州で、トレイシー・ヤングは「スマッシュ・ヒット」に載ったレスポンドの新人募集広告を目にする。平凡な日々のなかソウル・ミュージックを心の支えにしていた地方都市に住む当時17歳の少女、それを見た彼女は、すぐさまデモテープを送る。その数日後、封筒に包まれた一本のカセット・テープが、W45‐53シンクレアロードW14の郵便受けに落ちる時、レスポンド・レーベルがここに本格的に始動するのである。
TRACIE!『The House That Jack Built』(1983年)
トレイシーが送ったテープ、ベティ・ライトの『Shoora Shoora 』のカバーに、ポール・ウエラーはいたく感嘆し、テープが送られてたったの5日目でオーディションが用意される。そこでトレイシーが歌ったのが、フリーダ・ペイン『バンド・オブ・ゴールド』(Band of Gold)フォー・トップス『リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア』(Reach Out I'll Be There)というナンバーだった。まず、17歳の少女がベティ・ライトの『Shoora Shoora 』にはじまり、なぜこのようなソウル・マニアも唸るナンバーを知っていたのかという驚き。そして繋がるのが、マイアミ・ソウルの女帝ベティ・ライト、13歳の時に、ラジオ番組の曲当てゲームに募集したことがきっかけとなり、音楽プロデューサーのウィリー・クラークとクラレンス・リードに声を掛けられ地元レコード会社からデビューを掴むことになる。そう、ベティ・ライトとトレイシー、どちらもティーン・エイジャー、どちらもインディペンデント・レーベル出身。トレイシー・ヤングのデビユーはこのベティ・ライトのデビューどこか重なるものがある。
レスポンドが本格始動してからの最初の一枚目。曲は、クエスチョンズのジョン・ロビンソンとポール・バリーによるもの。80s特有のキラキラとした明朗系ポップスであるが、やはり、売りはトレイシー・ヤングの「あなたの近くにもいるフツーの女の子」ではなかったか。そんな私と同じ感覚の男子がイギリスにもいたのか、リリース後、英の音楽番組「トップ・オブ・ポップス」に出演。まもなく全英音楽チャート最高9位となったナンバー。
B面に収められている『トレイシー・トークス』(Tracie Talks)については、かって小西(康陽)さんがこの曲について書いておられ私自身にとっても印象的な記事を是非とも引用しておきたい。
THE QUESTONS『PRICE YOU PAY』(1983年)
レスポンドが83年に本格始動してからのエジンバラ出身のクエスチョンズの1枚目。ジャケット裏にメンバーの顔写真とパーソネルが記載させている。ジョン・ロビンソン(g.vo)ポール・バリー(b.vo)フランク・ムーニー(drs)ザ・ジャム時代ポール・ウエラーが彼らをスカウトした、いわばレスポンドの契約第一号のアーティストでもある。その最初のコンタクトについて、彼らが語っているインタビュー記事が過去のロッキング・オンにあるのでここに引用したい。インタビュアーは増井修氏。クエスチョンズの発言はポール・バリーのものと思われる。
ギター・カッティグはフアンカ・ラティーナのそれ、これまた80年代特有のキラキラ感はいなめない。高校文化祭的ノリも。しかし、これを駄作というのはどう考えても無理がある。クエスチョンズのジョンとポール(ロビンソン)(バリー)、二人の個性オリジナリティがさえる作品。B1「グルーヴ・ライン」は、米ファンクディスコグループであるヒート・ウェイブ1978年シングル曲のカバー。全英12位。クエスチョンズのソングライター2人はこの曲を書いたロッド・テンパートンに強い影響を受けていることを感じる。
The Main T Possee 『Fickle Public Speakin'』(1983年)
このTポッシーとは何者なのか?彼は、もと「デパートメントS」(Department S)というグループのフロントマン、ボーン・トゥ・ルーズ。このバンドの前身はパンク、スカ系の知る人ぞ知る「ガンズ・フォー・ハイヤー」。
「デパートメントS」というグループ名は1960年代のテレビ・シリーズからとられていてる。日本でも「秘密指令S(特命捜査官キング)」というタイトルで放送されていた。”インターポールの捜査員たちが手をこまねくような事件が起こった時、彼ら、「デパートメントS」の出番なのだ!”というのが謳い文句。このボーン・トゥ・ルーズが、1982年頃からかなぜか「メインT」と名のりDJをやるようになる。そして、1983年に「Tポッシー」名義で出したシングルがこの曲というわけである。ギターでポール・ウェラー、キーボードでミック・タルボットが参加。
ホーン、女性コーラス、アーバン・ファンクな曲調にルーズなTポッシーのヴォーカルが絡むナンバーで、今聴いても、ある意味ダサカッコ良さがある。このビデオを収めたYou Tubeのとあるコメントに「貧乏人のスタイル・カウンシル」というのがあったが、言い得て妙とはこのことである。
『GIVE IT SOME EMOTION』TRACIE!(1983年)
レスポンドにおけるトレイシー・ヤングの2枚目シングル。典型的な80sポップ、地方から出てきた少女が都会に出て働きはじめて、やや垢抜けた感が曲調にも伺える。英の音楽番組「トップ・オブ・ポップス」オーデエンスに囲まれ、バルーンが舞うスタジオでこのナンバーを歌う彼女の姿は、日本の80年代歌番組のお花畑で歌うアイドルのそれとまったく同じ。
しかし、それと別にこの曲のビデオクリップがひどく趣味の悪いもので昔から気になっていたが、その謎を明らかに解明する記事を「ロッキング・オン」誌(1984年7月号)見つけたのでここに引用したい。
『トレイシー・インタビュー』インタビュアーはロッキング・オン社長、渋谷陽一氏じきじきによるもの。
『TEAR SOUP (extended)』THE QUESTIONS (1983年)
レスポンドが83年に本格始動してからのクエスチョンズの仕切り直し2枚目。楽曲、演奏・プレイとも明らかに力強くなっている。うねるベースラインと硬質なギター、ファンク感、80s特のの能天気なシンセがなければ、ギャング・オブ・フォー(Gang of Four)に近いものがある。
しかし、このレコードで皆が忘れている、もしくは、最初から埋もれているのが、B面の「The Vital Spark」というナンバーで、小刻みに入るフルートのリフが最高にカッコいいジャズのグルーヴ&政治的歌詞。これは、やはり彼らがスタイル・カウンシルと活動を共にしていることの証。DJの方は是非、チェックして見てください。
印象的なジャケットのドローイングはモノクローム・セットのセカンドアルバム「Love Zombies」のジャケットなどの仕事でも知られる画家ギル・トンプソンによるものということ。
『LOVE THE REASON』RESPOND A SELECTION of SONGS(1983年)
『LOVE THE REASON VARIOUS ARTISTS』trattoria menu.92(1996年)
レスポンド1983年の集大成といえるV.Aである。英盤にはspecial price特別価格のシールが貼られている。レスポンドのオーデションでが落ちたと言われていたビック・サウンド・オーソリティが「History Of The World」で参加。そして、なんといっても、目玉は、4曲目の「Peace Love And Harmony N.D.Moffatt」チルという言葉がピッタリのアフリカン・フォーキー的名曲。なんだこれはと思いながらも、じわじわとその感傷が利いてくるナンバー。しかし、当時も今もこれに関して、極めて情報が少ない。ちなみに、これ「Peace Love And Harmony N.D.Moffatt」をGoogleで検索すると、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬さんの「私の大還暦祝い」にかけてほしい曲というツイートが検索の2番目に出てくる。に、いいね!
ポール・ウエラーによって、ここに書かれた内容が、レスポンドのすべてを表しているような気がする。
日本盤bookletの川崎大助さん(米国音楽)の解説は、レスポンドの当時を知る貴重な証言とともに裏話し満載。とくに米国音楽誌・レスポンドレーベル特集のさいにポール・ウエラーに試みたファックス・インタビューの話しに共感、涙・・・。
『WEARING YOUR JUMPER』A CRAZE (1984年)
『WEARING YOUR JUMPER』A CRAZE trattoria menu.156(1996年)
A CRAZEとは、女性ヴォーカルのルーシー・バロン(Vo)とクリス・フリー(Compose)二人のユニットであるが、当時は、まったく情報がなかった。いや、今もそれほど変わらないかも知れない。その謎は英国でも同様だったに違いない。なぜなら、ジャケットの裏には「A Crazeや他のアーティストの情報を知りたい方はメールを下さい」とソリッド・ボンドのオフィスのアドレスが記載されているくらいだからだ。裏ジャケットには、A Craze are-Lucy,Chris,Rick+Markメンバーのインフォメーションが軽く記されている程度。Markだけ太文字なぜに。Featuring MR.Michael Talbot on Wurlitzer.ミック・タルボットが参加しているのは分かるが、Wurlitzerが誰だか分からない。ポール・ウエラーの変名なのか。(訂正9/18)ウーリッツァーはエレクトリック・ピアノのメーカー名で、これは、ウーリッツァーの演奏でミックをフィーチャーしています」という意味となります。それとも、爽やかなトランペットが聴こえるがその人なのか?、今もなお謎が多いこの作品。当時のファンは何を根拠にこのレコードを買い求めたのか。それは、やはり、ポール・ウエラーのレーベル、レスポンドからリリースされた1枚だったからであろう。だが、聴けば、そのこなれた卓越したセンスに誰もが納得するはず。
日本では、1992年に小山田圭吾さんが『サバービア・スイート』でこの作品をとり上げる。きっとこの頃より、この作品は認知されはじめたのではないだろうか。
さらに、その4年後1996年ポリスターより、その小山田圭吾氏が主宰するレーベル、トラットリア menu.156として再発される。なんと、2曲の未発表ボーナストラック付きで。世界初CD化、これには海外のファンも驚いたという逸話が数多く伝わる。なぜ、日本で?と。解説は待ってましたの仲真史さん、ここにもまた裏話しが満載。とくに、スタイル・カウンシル初来日時のジョン・ウエラー氏にまつわる武勇伝をほんの少し記載。私もこの日、ジョン・ウエラーさんを2回、コンサートの始まりと終わりになぜかみかけている。そうか、あの後か。(笑)
それにしても、この作品のジャージーな感覚、アニマル・ナイト・ライフ「Native Boy」、ディス・ロケーション・ダンス「Midniht Shift」が本作とともに83年だとしても、ここでの感覚は恐ろしく早い。
その後、彼らの名前を聞かなくなってひさしい。ただ、ひとつ言えることは、インディペンデント・レーベルのイメージにあるお金をかけない貧相なイメージとすれば、この作品にはビンボー臭さが皆無だということ。まさに、仏映画のワン・シーンのようなインディレーベルらしからぬ世界、それがこの作品をいつまでも輝かせる最大の理由だろう。
『TUESDAY SUNSHINE』THE QUESTIONS (1984年)
このシングル曲からザ・クエスチョンズは3人組から、ヴォーカルのモーリーン・バリー(ポール・バリーの妹)が加わり4人体制となる。全英チャート最高46位。16ビートのオーソドックスなまったく飾り気のないナンバー、どこか甘酸っぱい感傷をもっていて個人的に大好きな曲。通い慣れたまさに、トラットリア(定食屋)のイタリアン・サラダの味。音楽産業にあって、奇跡的にビジネスに汚れていない音。世界中探してもありそうでない唯一無の音楽。
裏ジャケットでふたたびギル・トンプソンのドローイングを使用。そのこだわりがうかがえる。
「クエスチョンズ/ビリーブ」日本盤CDのbooklet解説・北沢夏音さんによれと、ピーター・バラカンさんの音楽番組「ウィークエンド・サンシャン」1984年2月でこの曲がプレイされたとある。なるほど、「チュースディ・サンシャシン」、「ウィークエンド・サンシャン」、「サンシャン」繋がりであるにしろ、この曲がピーターさんの琴線にふれたかと思うとただただ嬉しい。
『SOULS ON FIRE』TRACIE (1984年)
まるで、60年代のファッション雑誌のページから抜き出したかのようなサイモン・ハルフォンとポール・ウエラーによるジャケットが素晴らしい。
そんなトレイシーのファッションに関わるような、以下は、『FOR FROM THE HURTING』の日本盤「恋のしぐさ/トレイシー」のライナー解説・小嶋さちほさんによる記述。
本作ジャケット・デザインにポール・ウエラー、名前を連ねているくらいだから、このトレイシーのファッションはポール・ウエラーの美の壺、美的センスにはまったものであろう。曲調は、今までのお嬢さん路線より力強くソウル度高め。
『BUILDING ON A STRONG FOUNDATION』THE QUESTIONS(1984年)
強固な基盤の上に物事を作り出す、というタイトルの意味のもと、切々と歌われるスロー・バラード。この記事を書くために、アナログ12インチに30年ぶりくらいで針を下したが、あまりの素晴らしさに曲が終わるまで、呆然とターンテーブルの前に立ち尽くしてしまった。よく過小評価されている曲云々などというふれこみがあるが、これこそまさに、それそのものなんじゃないだろうか。同年代アーティストであるハウス・マーティンズのヒット曲「Caravan Of Love」をふと思い起こさせる。とはいえ、こちらクエスチョンズB2「Acapella Foundation」アカペラ・ヴァージョンで比較しても、それほど負けている気がしない。(笑)ちなみに、ハウス・マーティンズ「Caravan Of Love」(1985年)全英1位、本作、クエスチョンズ「Building On A Strong Foundation」(1984年)全英最高68位。しかし、こちらの方が一年早い。これだけは書いておきたい。
『(I LOVE YOU)WHEN YOU SLEEP 』TRACIE (1984年)
当時この曲は、キヤッチ―とはいえず、トレイシーのイメージと合わないなぁなんて思っていたのだが、今、聴くと、実に新鮮に感じる。
レスポンド側が依頼したものか、それとも本人自ら願い出たのか分からないが、この曲はエルビス・コステロの手によるもの。1984年、コステロといえば「グッバイ・クルエル・ワールド」の年、より表現の深み新境地を切り開こうとしていた時期。この楽曲もそれにつながるところあるように感じる。かすかにふるえるようなイントロの幽玄なピアノ、どこかに誘われるようなコード進行、不思議な構成、立ち上るその余韻。
ジャケットには、その楽曲提供としてのエルビス・コステロのクレジットが、どこにも見当たらない。これもまたレスポンド的といえるのか。
『NEVER STOP(A MESSAGE)』M.E.F.F. (1984年)
ビバップ時代からの歴史的ジャズ・ドラマ―、アート・ブレイキーに捧げられた若きドラマー、スティーブ・ホワイト(当時17才)のソロ・ユニット。ジャズ・レーベル「BLUE NOTE」に吹き込まれたアート・ブレイキーによる「オージー・イン・リズム」(Orgi In Rhythm)から始まるドラム・パーカッションもの、そのエレクロック化だと思う私の予想がどうあれ、このナンバーをガラージと解釈する人もおり、本作品の可能性は今なを無限に広がっている。
ジャズが忘れさられようとしていた1970年代末期、かのジャズの名門アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャースが、安い出演料の巡業の日々に明け暮れていた時期、1980年6月にトランペット奏者の神童、ウイントン・マルサリスがジャズ・メッセンジャースに加入する。ここから、ハードバップの復興、新たなハードバップ・ルネッサンスが巻き起こる。それは、ヨーロッパからの追い風が強く影響していると言われている。そう、この作品のリリースはその時代とピタリ一致する。
クレジットにあるアリソンは黒人女性ヴォーカル、ゲイリー・ウォラスは、ドラム・パーカッショニストで、ウォーターズ時期のピンク・フロイド、ライブ・パフォーマンスのセカンド・パーカッションとして知られている。パブ・ロック畑で知られるラリー・ウォラスとは従妹の関係であるとのこと。
『恋のしぐさ/トレイシー』アルファ・レコード(1984年)
『TRACIE/FAR FROM THE HURTING KIND』trattoria menu.85(1996年)
1984年この年、スタイル・カウンシルは初来日する。ウエラー自身にとってはザ・ジャムを通して4度目の来日。東京での公演は、新宿厚生年金ホール、4月29日(日)と4月3日(月)東京はこの2回だったと記憶する。
ポール・ウエラーは弦をかきむしり、確か、弦を切った場面があったのではないかと記憶する。唾を飛ばしてシャフトしまくり、一日目のアンコールで喉がかれていた。ミック・タルボットはオルガンを揺らしまくり、ジャージーな楽曲とは不釣り合いなパフォーマンスを繰り広げたことは今も伝説に残っている。つまり、ロック・バンドが日和見になってジャージー音楽をやっているわけではなく、ジャージーな楽曲もやるスタンスとしてのロック・バンド、それがスタイル・カウンシルだったのだ。
さて、そのライブのオープニングアクトを務めたのが、このトレイシーだった。当時のチケットにも「with TRACIE」と表記されている。思えば、このトレイシーの「FAR FROM THE HURTING KIND」は1984年に発売されているが、スタイル・カウンシルの「カフェ・ブリュ」も同年なのだ。ポール・ウエラーは、このトレイシーのアルバムをプロデュースしながら、自身のアルバムを作りあげていたことになる。
したがって、『恋のしぐさ/トレイシー』アルファ・レコードの帯には来日記念盤という表記がある。
私は、この時のトレイシーとバックを務めたクエスチョンズのパフォーマンスに今も好感を持っている。トレイシーは派手さのないもののその存在感は堂々としたものだった、クエスチョンズの演奏は緊張感などなく完璧にこなれていた。恐らくは、どこでやろうと同じことをやる。売れる、売れないべつにして、その百戦錬磨それまでのライブ経験のたまものだろう。この来日時でのトレイシーのライブは「A Girl From London」というVHSビデオにもなり当時発売されている。
その後、12年後、1996年トラットリアから再発された「TRACIE/FAR FROM THE HURTING KIND」trattoria menu.85は、なんとボーナストラック7曲入り。ブックレット解説の「I Shall Be Reissued…TFC レスポンド始末記」
(TRATTORIA FAMILY CLUB)さんのなかで、「14と15が未発表かと思われる(中略)この2曲について情報をお持ちの方はご一報を」と書かれている。
当時、それについて英国人の知り合いがいるわけでもなく、調べるあてもなく、ただそのまま通り過ぎてしまったのだが。今も、その発見にはいたっていない。だが、2014年にチェリー・レッドからリリースされたトレイシーのアルバム「No Smoke Without Fire」(火のないところに煙はたたない、でいいのか?)のなかに、同タイトルが収録されていることに気がついたのだ。
クレジットを見ると「 Finger Crossd」は、ケビン・ミラーとトレイシー・ヤングの共作、 「I Think You're Lucky」は、Don Snowなる人物の手によるものだった。この人は、ヴォーカリスト、ハモンドオルガンスト、ギター・リスト、ベース、サックス奏者、要はマルチプレイヤーで、1989年に「Ordinary」というユーロ・ポップ曲をリリースしているらしい。
と、してもだ、この時代、ポリスターでは、こんなトレイシー全活動の決定版ともいうべきCDをリリースしていたという大いなる事実である。
『BELIEF』QUESTIONS(don't give it Up)(1984年)
両A面シングル、但し「Month Of Sundays」は、AA面とされている。
どちらも、クエスチョンズにとっては勝負曲だったのだろう。事実、どちらも名曲といっていいと思う。「Month Of Sundays」の爽やかな躍動感、当時最新の技法で作られているにも関わらず、そこにはノスタルジックな感傷がつきまとう。3人のヴォーカルにからむホーンのアレンジは絶妙。ソフト・ロックの趣きも感じる。「Belief (Don't Give It Up)」は、「”never”、”never”、”never”、(決してあきらめるな)」の繰り返しが印象的なホワイト・ソウル、白人が真面目にソウル・ミュージックを作ったらこうなりますという好見本。これが、ブルー・アイド・ソウルの歴代名曲ベスト20に入らなければ絶対におかしい。きっと、クエスチョンズサイドとしてもこの2曲がダメなら、もうしょうがないという思いがあったのではないか。そして、彼らにとっては、唯一のフル・アルバムが発表される。
『BELIEF』QUESTIONS(don't give it UP)ADVANCE 12"(club mix)
『ビリーフ/クエスチョンズ』アルファ・レコード(1984年)
『BELIEF』THE QUESTIONS trattoria menu.91(1996年)
クエスチョンズとしての初めてのアルバム、そして、クエスチョンズとしての最後となったアルバム。プロデューサーがそれまでのブライアン・ロブソンから、ロイ・カーターに代わる。裏ジャケット及びライナーに写る彼らの雰囲気もそれまでとは違い洗練されたものとなっている。ある意味、それまでのレスポンドらしくない。恐らく、心機一転を図ったのだろう。それだけこのアルバムに賭けた彼らの思いが伝わってくる。
レコード・ジャケットには、米の公民権運動を指導したマーティン・ルーサー・キング牧師のメッセージが記されている。それについて、彼らはロッキング・オン誌のインタビューに答えている。インタビュアーは増井修氏。クエスチョンズの発言はポール・バリーのものと思われる。
ここで私の感じるのは、ポール・ウエラー譲りの音楽・メッセージ性への生真面目さである。彼らの音楽は一見、爽やかな印象だが詩に込められたメッセージ性はある意味重い。70年代から引きずっている英国病、インフレ、失業率の悪化の一途をたどるイギリスにおいて、このようなクエスチョンズのメッセージは英国の若者たちに、どこまで届いたのかということが気になる。だが、彼らは、ネアカ能天気なポップ・ソウルなど到底、歌えなかったということなのかも知れない。
『I Cant' Leave You Alon』Tracie Young (1985年)
1986年レスポンド最後の年、その1枚目としてリリースされた作品。ストリートで黒人の少女が歌っても似合うような溌剌としたヤング・ソウル。だが、その社会的メッセージ性はやはりここでも濃い。
ウイッカム19とは、王立科学研究所の動物虐待に抗議し投獄された活動家19人のこと。おぞましい動物実験、この事実に対し、トレイシー、レスポンドはその怒り、講義のメッセ―ジを自身の表現としての曲作り、音楽活動に反映させなければ気がすまなかったのだろう。クエスチョンズ同様、それらはレスポンド・レーベルの大いなる特徴といえるのではないかだろうか。
『CRUISIN’ THE SERPENTINE』VAUGHN TOULOUSE (1985年)
この項にかぎり、私がかって読んだか、誰だかに聞いたかしたこのボーン・トゥ・ルーズ氏についての情報というとこになる。したがって、曖昧な記憶、真偽のほどはハナハナ確かではない。「デパートメントS」(Department S)というグループのフロントマン、ボーン・トゥ・ルーズであることは前の項で触れたが、記憶によると、このルーズ氏、ロンドンのナイト・ライフ、あらゆるクラブ顔を出し、顔がひろく社交的な有名人であったらしい。DJでもある彼は、あるクラブでポール・ウエラーと会う。ルーズ氏が「どうだい、オレのレコード・コレクションを見に来ないか」と誘い、二人はたちまち意気投合したと。彼のそのレコード・コレクションは数千枚を超し、ノーザン・ソウル、スカ、レゲエ、ジャズ、と広範囲に及びポール・ウエラーを驚かせたという。
また、ポール・ウエラーして、彼には詩の才能があって、その才能は過小評価されているんじゃないかとも語る。
この時代のボヘミアン的風来坊、ボーン・トゥ・ルーズ氏は大変魅力的な人物だったようだ。
ポール・ウエラーもその出来には満足したというディスコ・ソウル・バレアリック・サウンド。
『INVITATION』TRACIE YOUNG (1985年)
洗練された都会的なジャージー・ポップス。日本の80sのシティ・ポップの雰囲気も感じさせる。ギターの繰り返すフレーズに今までになかった気持良さがある。ようやく最後にして何かを掴んだか。
A面のミックスはこの手のものが大抵そうであるように、それほど面白くない。
トレイシーとしてもレスポンドとしても事実上、最後の1枚となった作品。本作のリリースを持っていて、レスポンドその約5年の活動の終わりをつげることとなる。
『RESPOND12"SINGLE COLLECTION』VARIOUS ARTISTS (1996年)
disk-1
1Tracie Talks/Tracie
2The House That Jack Built/Tracie
3 Same Feeling(wihout the emotion)/Tracie
4 The Vital Spark (extended)/Questions
5 Soul s' on Fire (long version)/Questions
6 Saved by The Bell(extended)/Questions
7 Never Stop(A message)/MEFF
8 Moving Together(club mix)/Tracie
9 Price You Pay /Questions
10 I can't Leave You Alone(pick'n'mix)
11 Someone's Got to Lose (extended)/Questions
12 Tear Soup (extended)/Questions
13 Nzuri Beat/MEFF
14 Acapella foundation/Questions
disk-2
1 Tracie Rap's
2 Give It Some Emotion(extended)/tracie
3 Non-Stop Electro/MEFF
4 19(the wickham mix)
5 Fickle Public Speakin'(extended)/Main Possee
6 Belief(don't give up)(extended)/Questions
7 The Groove Line (r.temperton)/Questions
8 Cruisin' The Serpentine (club mix)/Vaughn Toulouse
9 The House That Jack Built/Questions
10 Invitation(rspv mix)/Tracie young
11 You See The Trouble With Me(extended)/Vaughn Toulouse
12 Tuesday Sunshine(sass mix)/Questions
13 Work' N' Play(extended)/Questions
こうして、レスポンド・レーベルの歴史を振り返ってみたのだけれども、やはり彼らはいい意味で若かったと思わざる得ない。こ実直さは、いや、バカ正直さは、どこからきているのか、厳格、几帳面、生真面目、遅刻なし、定刻通り、休暇返上の英国人の気質そのものではないか。
私は、このレーベルにはそういった人たちが、ポップ・ソウルを演奏したらどうなるかといった意味で、最良の見本であるとも思っている。レスポンドのアーティストは商業的には成功しなかった。ワムにもなれなかったし、カルチャー・クラブにもなれなかった。さらには、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの「カモン・アイリーン」のようなヒット曲もなかった。さらにいえば、ジョー・ボクサーズの「just Got Luky」のような作品さえも生み出すことはできなかった。
だが、一言でいえば彼らは活動期間中、一度もブレなかった。売れようと、売れなかろうと、音楽スタイルを変化させることはなく、そのスタイルのままやり続けた。音楽紙のインタビユーでは、自分を大きく見せることはなく、地そのままの自分たちの立場を明確にした。そんなことがやれたのは、5年間とはいえ、ポール・ウエラーのお膝元であったという事実は言うまでもない。だが、それで、音楽ビジネスの手が触れられていない、音楽ビジネス市場最も純粋なレーベルが存続したのだ。
私は、煌びやかな星の下に生まれたスターでもないごくごく普通の人間が黒人のソウル・ミュージックに励まされ、生きる希望を見出し、さて、それをいざ、自分自身のものとする、した時の、その音楽(ソウル)に興味があるのだ。なぜなら、そこには普通の人間の純粋な魂と困難が立ちふさがった時の希望があるからだ。
本記事をレスポンドに関わったすべてのアーティスト、サイモン・ハル
フォン、ピーター・アンダーソンに捧げる。
かって数々の情報を私に与えてくれた『米国音楽』誌の川崎大助氏はじめスタッフ、1996年の「レスポンド・レーベル」を再発したポリスター社それに尽力したとべての人に敬意を表したい。
また、ポール・ウエラーが、レスポンドとともにあった日々のことを、たまにでも思い出してくれることを心から願う。
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