『家族ダンジョン』第9話 第八階層 勇気が試される
新たな階層に着いた瞬間、茜は周囲に向かって声を張り上げた。
「みんな、そこから動かないで!」
「俺様の横でいきなり叫ぶな。耳が痛いではないか、シイタケ」
ハムは小さな両耳を伏せて言った。
茜は怒りの目で対抗する。
「誰がシイタケよ、このピンクの豚野郎」
「俺様は野郎ではない。物覚えの悪いシイタケだ」
「栗色の髪だけどシイタケじゃない」
「なんだ、豆乳鍋が恋しくなったのか? そのうち見つけて野菜と一緒に美味しく煮込んでやろう。今は我慢するがいいぞ」
ハムは口で笑いながら横目を冨子に向ける。
「んー、なんてひどい無茶ぶりー。それでなにか動いてはダメなことがあるの?」
「そうよ、それ! 温泉で悪酔いしたハムカツに構っている場合じゃないって」
茜は見えている通路に改めて注目した。全ての床に大きな矢印が記されていた。先端は奥を示し、それは連なって迫り出した石の壁で見えなくなった。四つの通路が同じ状態。右端だけが例外的に矢印の先端をこちらに向けていた。
「……戻っては来れるけど」
どのような姿勢で見ても他の通路の先は石壁に邪魔をされた。
渋い顔の茜は急に笑顔となった。ハムに寄り添ってポンポンと背中を叩く。
「ねえ、ハムちゃん。あそこを見て」
「なんだ、急に」
「ほら、あそこよ。少し見えにくいけど、アレが見えるよね。もう少し前に行かないと無理だよ」
「この先か」
ハムは矢印の端を踏んだ。瞬間、吸い込まれるように奥へと滑り出す。眼前に迫る石壁は矢印の方向で直角に曲がって回避した。
姿が見えなくなったあと、叫ぶような声が急速に流れて位置が定まらない。
「どういうことだ」
直道が茜に問う。
「2Dや3Dゲームの定番ってヤツよ。乗った者を強制的に矢印の方向に移動させる。単純だけど踏んだら逃げられない厄介なトラップの一つね」
「ハムちゃん、だいじょうぶかしら。叫び声がすごいんだけどー」
「デストラップじゃないからいつかは戻ってくるよ。その時に矢印の状態を聞くつもりなんだけどね」
茜は白い八重歯を見せて笑った。
「家族のことを考えてくれたのか」
「別に。あの生意気な豚に、ちょっとした仕返しをしたかっただけ」
「戻ってきたみたい」
冨子は右端の通路に視線を向ける。ハムが上体を揺らしながら半ば放り出されるようにして滑り込んだ。腹這い状態で荒い息を吐く。
茜は中腰になった。
「奥の方の矢印はどうなっていた? 降りる階段は?」
「先に俺様の心配をしろ! もう、フラフラだ」
一瞬、浮かんだ怒りを茜は笑顔で塗り込める。猫なで声となってハムに擦り寄った。
「意地悪しないで教えてよ。ハムちゃんは仲間の盾に進んでなるような優しさがあって、とても賢い女性なんだよね。もしかして、違うの?」
「そんなことはないぞ。その通りだ」
ハムは瞬時に立ち直った。鼻を高々と上げて鼻息を荒くした。
「じゃあ、教えてくれるよね」
「もちろんだ。階段は見かけなかった。矢印はギューンと横に行って、ドーンと真っすぐで、ビューンと逆に曲がって、グルグルで戻ってきた」
「あのさー、そんな体感じゃなくて左右とかの方向で教えてよ」
噴出する不満が茜の眉根を寄せた。微妙に唇もひん曲がる。
「無理だ。周囲を見る余裕がどこにある? 試せばわかるぞ」
「次は私の番だねー。ハムちゃんと同じところなら安心だよね。グルグルが楽しみー」
冨子は元気よく手を挙げた。
「任せた」
直道の肯定に茜が首を傾げる。
「止めないの?」
「冨子は適役だ」
「任せてよー」
軽い一言でひょいと矢印に乗った。ハムと同じで高速移動が始まる。見えなくなった先からけたたましい笑い声が響いた。心底、楽しんでいる様子が窺える。左右に声が流れ、円を描くような強弱の変化を経て右端の通路から笑顔で現れた。
「スピードとスリルが堪らないわー」
「そんな、バカな」
言葉が続かず、ハムはぽかんと口を開けた。
「奥の方の構造はわかったのか」
直道の質問に冨子は指で輪っかを作る。
「ハムちゃんルートはダメでしたー。階段はチラッと見かけたよ。矢印は大きくて全体はわからないんだけど、左のルートからくる矢印の先に普通の床があったよー。あそこに乗って方向を変えるといいみたいね」
「ウソ、だろ。俺様には、全く見えなかったぞ……」
その場でハムはよろけた。自信を喪失しかねない衝撃を受けているようだった。
直道は冨子にちらりと目をやる。
「そうねー。じゃあ、少しだけ。私は十代の頃に『銀閃フォックス』のリーダーをしていました。みんなとバイクでツーリングを楽しんでいたら、いつの間にかスピード狂になっていましたー。はい、終わり」
「……それって、レディースのことだよね?」
「んー」
冨子の糸目が大きく開いた。済ましたような顔に凄みが加わる。
茜は慌てて目を逸らし、ハムの背中をバンバンと叩いた。
「落ち込むことはないって。お母さんは訓練で日頃から目を鍛えていたんだから」
「そう、なのか?」
「そうなのよ。もっと自信を持って。ピンクの悪魔なんでしょ」
「……そうだ。俺様はピンクの悪魔のハムちゃんだ! 些細なことで気落ちするような小者ではないのだ!」
精神的にハムは復活を果たした。
満足そうに頷いた冨子が景気付けにぴょんと跳んだ。
「みんなで左側のルートを試してみよう。こっちも楽しみー」
無邪気に喜ぶ姿に茜は微かに笑う。
「本当にスピード狂なんだね。もしかしてお父さんにも過去に何かある?」
「私は至って普通だ」
「直道さん、またまたー」
冨子のやんわりした指摘を無表情で受け流す。
「……この夫婦、怪しすぎる」
茜は二人を見比べて呟いた。
どの通路が降りる階段に通じているのか。全員があらゆるパターンを試した。その間、絶叫と笑い声が途絶えることはなかった。
やはり、冨子が見つけた普通の床が起点となっていた。集中して試し、一本の正解を導き出した。
久しぶりの感覚を堪能した冨子は笑顔で降りる階段の前に立った。後ろを振り返ると大きな動作で手招きをする。
「みんなー、くつろいで座っていたらダメー。次の階が待ってるよー」
「腰が抜けた状態だ」
直道は乱れた前髪を掻き上げて後ろに流した。
同意と茜が疲れた顔で頷く。
「膝がガクガクだよ」
「……こんなことが、理不尽だ……この俺様が……」
横倒しとなったハムは完全に自信を喪失していた。丸まった尻尾がプルプルと震えている。
「困ったみんなねー」
冨子は腕組みの姿で軽く息を吐いた。
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