『家族ダンジョン』第39話 これからも
朝陽を受けた明るいキッチンで三人がテーブルを囲む。欠けた一人の椅子に自然と視線が集まる。
冨子は力なく目を戻した。自身の手前にある大皿のオムライスを眺めた。大粒の涙が零れ落ちる。傍らのスプーンを手に取ると端の部分を掬って口に運んだ。
口を動かしながらグショグショの顔で笑う。
「慶太が、大好きな……オムライス……美味しい、よ……」
「……あんた、本当に」
出そうな言葉を涙と共に呑み込む。茜は大皿を持ち上げるとスプーンを使って掻っ込んだ。
直道は無人の椅子を見つめる。いないことが不思議に思えるのか。目の中の感情が揺れ動く。おもむろに髪に手を当てるとジェルでしっかりと固められていた。スーツのポケットからスマートフォンを取り出す。電池切れは解消されて画面に時間が表示された。
午前七時四十二分であった。見ている間に実感が湧いてきて、戻ってきたのか、と口にした。
関心は周囲に広がる。見慣れたキッチンに食器棚。横端の冷蔵庫の表面にはウサギの磁石で紙が止められていた。遠目でもよくわかる。ゴミの収集日がきっちりと色分けされていた。
身体を回すようにして見ていると、一点に目が留まる。時間に比例して目は厳しさを増していった。
小さな収納箱の上には固定電話が置いてあった。見据えると液晶部分が点灯した。呼び出しを告げる電子音が軽やかに流れる。
冨子と茜は酷く驚き、怯えたような顔で立とうとしない。
直道が立ち上がる。電話のところまで重々しく歩き、一呼吸してから受話器を手に取った。
「はい、木崎です……お世話になっています」
残された二人は食べる手を止めた。直道の後ろ姿を食い入るように見つめる。
「……息子が……」
冨子は両手で耳を押えて目を閉じる。寒そうに肩を震わせた。
「本当ですか!? わかりました、すぐに伺います!」
叩き付けるように受話器を置いた。直道は目を見開いて二人に指示を出した。
「出かける用意だ! 冨子は茜の学校に連絡を入れて学校を休ませろ! 私は車を出す!」
直道は駆け出した。冨子は、え、と声を出した。
「お母さん、早く!」
「え、なんなのー!?」
騒々しい一時を経て三人は車に乗り込み、病院に急行した。ナースステーションの手前で待機していた看護師に連れられ、いつもの病室に入る。そこで改めて声を上げた。
「慶太! 慶太ー!」
冨子が駆け寄ってベッドを覗き込む。慶太は薄っすらと目を開けて、おはよう、と小さな声を出した。
「あんた、なんなのよ」
茜は流れる涙を拭わず、笑いながら側に寄る。その横には同じように涙を流す直道がいた。取り出したハンカチで目を押える。
付き添っていた看護師は声を落として言った。
「目覚めたばかりで体力が落ちている為、短い時間でお願いします」
「わかりました。連絡をありがとうございました」
直道は涙声で一礼した。
「……ダンジョンでは……伝えられなかったけど」
慶太は衰えた表情筋を小刻みに振るわせて歪な笑みを作った。
「ゆっくりでいいのよー。無理だけはしないでね」
冨子は涙で赤くなった目で微笑む。慶太の乱れた前髪を指先で綺麗に整えた。
茜と直道は揃って口の動きに目を注ぐ。聞き漏らさないように上体を斜め前に倒した。
「……これからも、よろしくね……ようやく言えた……」
慶太はぐったりした様子で瞼を閉じた。一瞬、三人に緊張が走る。聞こえてきた寝息に安堵の息を吐いた。
横手の壁からよれよれのスーツを着た痩身の男性が現れた。看護師の前を平然と通り、三人の家族を擦り抜けて前に出た。ベッドで安らかな寝息を立てる慶太に限界まで顔を近づける。
「意識は完全に戻ったようですねぇ」
男性は慶太の顔に自身の頭を突っ込む。首が前後左右に動いた。引っこ抜くと満足そうな笑みを浮かべた。
「ダンジョンは跡形もないですねぇ。まあ、また戻ることもないでしょうし、これで全て終わりなんですが、なにか問題でも?」
男性は朝陽で輝く窓に向かって言った。
近くの電線に一羽の隼が止まっていた。通常の黒い眼ではなく、毒々しい深紫の色をしていた。
「実に面白い試みだ」
「そうですかねぇ」
「俺も試してみよう。実は目を付けている人間がいる」
隼は電線に止まった状態で二度、大きく羽ばたく。その後、迫真の演技なのか。毛繕いを始めた。
「まあ、そちらの勝手ですが、妙な対抗意識は面倒なので、やめてくださいねぇ」
「そちらにも同じことが言える。干渉すれば世界が滅びる。それと気付いているのか?」
「もちろんですよ。窓の向こうに見えるビルの十五階のオフィスに一人いますねぇ。病院の前の歩道でランニングをする中年男性もそうですねぇ。あとは地下ですか。下水溝でクマネズミとは。物好きな神様がいたものです」
「低級な神ではないようだ。安心してこちらも動ける」
全ての要件を済ませたのか。隼は音もなく飛び立った。男性は見送るでもなく、ただ口の端でニヤリと笑った。
「どうでしょうかねぇ。神様の考えは神様ではよくわからないもんで」
釘を刺すような台詞のあと、男性は眠そうな目となって壁の中にひっそりと消えていった。
(了)
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