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『我が家の新しい読書論』7-3

ESくん
 最近気になってるのは、将基面貴巳さんの『従順さのどこがいけないの
か?』かな。結局自分たちは誰のルールに縛られて生きているのかを再検
討したいと思っていたし、ま、その誰ってのは単体ではないんだろうけど
ね。目次はこんな感じ。

 【目次】
 第一章 人はなぜ服従しがちなのか
 第二章 忠誠心は美徳か
 第三章 本当に「しかたがない」のか
 第四章 私たちは何に従うべきか
 第五章 どうすれば服従しないでいられるか
 第六章 不服従の覚悟とは何か

網口渓太
 背景理由提案と続けていて、いい章立てだね。

EMちゃん
 従順さとか忠誠心について書こうと思ったら、日本だけでも武士道とか
天皇制とか、西洋だったらキリスト教とか植民地制度、あと黒人の奴隷制
度とか、軍隊と会社の成り立ちとか色々な目配せが必要になりそうね。新
書だから使いやすいように、文明論的な見方はあるとしてもコンパクトに
まとめられているんだろうけど。

網口渓太
 そうね。よくやりがちな読書のように、著者の読みに合わせすぎて、従
順になり過ぎて読んでしまうと、本末転倒だからね。いまのEMちゃんよ
かったね。

EMちゃん
 たまたまよ。

ESくん
 そうたまたまだよ。

EMちゃん
 怒るわよ(笑) でも社会を成り立たせるとか、共同体をつくるとか、
分かるんだけど、なんかちょっと引っかかっているのも本当のとこなの
よ。

ESくん
 EMちゃんは組織人だしね。ぼくはこれからも個でやっていきたいね。

網口渓太
 ESくんはまるでエピクロスだからな(笑) 気が付いたら、異ジャンル
とコラボしていたり、その個がちょっと逸れて螺旋を描いていく様子が本
当面白いよ。

EMちゃん
 ESくんはそう遠くない未来に何らかのAI技術ともコラボしてそう。
派手めに(笑) ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」の再現かな。

網口渓太
 あぁ、『猿と女とサイボーグ』の310と311の見開きは壮観だよね。

 サイボーグーサイバネティックな有機体ーとは、機械と生体の複合体で
あり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である。

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

EMちゃん
 ジェンダーの対象化とかもそうだけど、全体的なイメージの拘束からは、
できるだけ自由になっておきたいわよね。なんだか気持ちが悪いもん。

『猿と女とサイボーグ310・311ページ』

ESくん
 スマホを肌身離さず持っていないと不安になるっていうのもそうだよ
ね。打刻とか速くて機械が身体と一体化しているみたいなのは凄いんだ
けど、結局人間の側が容量オーバーを起こしてうまく使いこなせていな
くて、周りからみたら痛いなみたいな。やっぱ『動きすぎてはいけない』
だよ。

 ドゥルーズ哲学を一般に特徴づけるのは、「同一性」の批判と「差異」
の肯定である。
 多くの場合、私たちが差異と呼ぶものは、二つ以上のものたちの比較可
能な差異のことである。例えば、ある石ころと他の石ころは、それ自体は
変化することのないつねに同一的な「石」の概念を共通の参照項とするこ
とで、はじめて互いに差異あるものとなる。この不変の同一性の媒介なし
には、それらのものたちは比較不可能で、それゆえ「同じ」も、「似てい
る」も、「異なっている」もなく、無差異にとどまるのである。しかし、
このとき差異は、同一性の前提によって可能となる二次的で派生的な差異
でしかない。このような、同一性を第一に置き、中心に据え、それとの関
係において物事を捉えるような思考様式を、ドゥルーズは「代理ー表象」
と呼んで批判する。私たちの日常的な知覚や判断においては、差異は、代
理ー表象の思考様式に従属させられており、差異それ自体としては思考さ
れていないのである。
 これに対してドゥルーズは、同一性に媒介されることのない、つまり代
理ー表象されることのない、それ自体における差異を、同一性に先立つも
のとして、真に実在的なものとして思考しようとする。代理ー表象された
ものたちからなる世界の下で/なかで、代理ー表象されざる微小な差異が
うごめき、すべての多様なものたちが互いにコミュニケートしているーそ
んな世界を思考し、肯定することが、ドゥルーズ哲学を一般に特徴づける
のである。そのような世界は、代理ー表象されざるものであるがゆえに、
「現働的なもの」ではなく、「潜在的なもの」である。ドゥルーズにとっ
ては潜在的なものこそが真に実在的なのである。

                 『動きすぎてはいけない』千葉雅也

網口渓太
 ドゥルーズは“不服従の覚悟”があったんだね(笑) 静的で固定されたも
のに対して動的で絶えず変化するものを高く評価したか、格好いいね。境
界を曖昧にする快楽と境界を構築する責任。

EMちゃん
 機械はまるで生き物のように社会に広まってきているけど、まだ神話の
ような起源の物語を持っているわけではないじゃない? バラバラで。で
もそれがよくって、だからこそもし私たちがサイボーグ化したら、男根的
な現代社会をどう塗りかえることができるんだろうって考えるのは楽しい
わね。

ESくん
 嫉妬するくらいキレキレの批評じゃん。

網口渓太
 「現代社会を塗りかえることができると思う」って言ってしまわないと
ころに、EMちゃんが話している内容のリアリティを感じていることが分
るよ。 

EMちゃん
 いえいえ、アイデアの元はハラウェイよ(笑)

 冒瀆は、背教とはちがう。アイロニーとは、たとえ弁証法をもってして
も、より大きな全体へと回収されることのないような矛盾に関わるもので
あり、互いに相容れないもの同士を、その双方、すなわちすべてが必要で、
また本当なのだという理由でまとめあげる過程で生じる緊張に関わるもの
である。アイロニーとは、ユーモアに関わるものであり、そして、まじめ
な遊戯に関わるものである。アイロニーとは、レトリック戦略であり、ま
た、政治手法でもあるのであって、社会主義フェニミズムでは、こうした
存在にもっと栄誉が与えられてしかるできである。私のアイロニックな忠
誠、私の冒瀆の核心には、サイボーグのイメージが位置している。

              『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

網口渓太
 参考文献に入れておいてよかった(→2-1)。ちなみにさっきの、千葉
さんの『動きすぎてはいけない』は、ボクは序の切断論を『情報の歴史』
を引きながら喧々諤々するのが好きだね。 

ESくん
 並読ね。アイロニーとユーモアの話しが出たならこことかも面白いかも。

 まず、切断Aー権力の強いるしがらみからあなたを切断すること、それ
と正面から闘わないこと。そして、接続ーしがらみの側方に、勝手に接続
されていく関係のリゾームを見い出す。のみならずさらに、切断Bーその
リゾームをあちこちで切断すること。リゾームを「有限」にすること、様
々に部分的な「無関心indifference」ーこれが「意味をもちすぎない」こ
とだろうーの刃によって。その上で、再接続し、そしてまた切断し、再接
続するのである。
 切断Aは、ツリーからリゾームへの切断であり、切断Bは、リゾームそ
れ自体の切断であると言える。切断Aをするならば、切断Bも必須である。
逃走は、だから少なくとも二度、加速されなければならない。一度目は、
しがらみを笑い飛ばすイロニー的な初速として。二度目は、そこから伸び
るリゾームを、この加/減でよしと、笑って済ませるユーモア的なトップ
ギアとして。

                『動きすぎてはいけない』千葉雅也

網口渓太
 肌身から離せないくらいスマホと接続してしまった彼彼女のような人た
ちに読ませたいよ。目を覚ませって。奥田英朗さんの『イン・ザ・プール』
の「フレンズ」とかまさにそんな話しだったな。

EMちゃん
 たしかにあの治療の方法はアイロニーとユーモアにあふれているかも。
あたし伊良部先生の隠れファンなのよね。

ESくん
 「秘するが花」ね。嗚呼大きい紙にまとめたい! その前に腹ごしらえ、
ねえねえ参考文献持ってロイホに行こうよ。クラブサンドイッチが食べた
い。

EMちゃん
 いいわよ。あたしはローストビーフのサラダとオニオンスープとアイス。

網口渓太
 自由だな(笑) 行こう行こう。 

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