見出し画像

『我が家の新しい読書論』3-3

網口渓太
 とりあえずダーッと書いてみたよ原稿を。いつも通り好きな字数の6000字で。流れはだいたい出来た気がするけど、しばらく一人で作っていたから、一端ふたりに見てもらって、意見をもらおうと思って。

EMちゃん
 仕方がないわねー。いいわよ、私たちの原稿でもあるからね。

ESくん
 ハイハイ、網家の「ハイパー・スコア・リーディング」のプレゼンの物(ブツ)ね。あがってきましたか。ダーッといいつつ、2、3カ月は待ちましたよ(笑)

網口渓太
 他の仕事もやってるから遅くなってゴメンね。じゃあ、早速聴いてもらおうかな。てらいなく意見を下さい。それではお手柔らかに。

ESくん
 コメントはどうしよう。通しでみてからにする? それともあいだに挟む?

網口渓太
 『Fall in Love Again』方式であいだに挟んでもらおうかな。

EMちゃん
 KREVAさんのリアクション動画の奴ね(笑)

ESくん
 Ok.では茶々入れていきまーす。どうぞ。

■前説
 みなさま初めまして。私は、今までにあまり語られてこなかったような新
しい本の読み方を考える「網家」という団体の代表の網口渓太と申します。
どうぞよろしくお願い致します。
 我々は網家らしいと考える読書術に「ハイパー・スコア・リーディング」という名前を付け活動しております。ではさっそく、ハイパー・スコア・リーディングとは何ぞや、というところからお話させて頂きます。

EMちゃん
 まずはイントロ部分ね。さっそく新しい読書術の紹介があって、門をくぐるかどうか躊躇するような、あやしい雰囲気はあるけど、渓太くんがそんな感じの人だから、このままでいいんじゃないかしら。

ESくん
 新しいって言葉は、自分たちが他の誰かよりも先にいると自覚していて、高い視点から世界をみています、みたいな印象を聴き手に与えて、潜在的にね。必要以上に構えさせてしまうのもやりずらいから、余談をうまく挟みたいね。

網口渓太
 そのつもり。雑談はその場の機に応じていくよ。では、続けていくね。

■まずは読書の外の問題を読む
 まずは言葉の意味から調べていきましょう。それではハイパーって何でしょうか? 辞書で引いてみますと、「超越」や「向こう側」という言葉で言い換えられています。こちら側ではなく、あちら側という意味を持っていることが分かります。ちなみに、スーパーには「超」、ハイパーには「極超」という翻訳がされていました。視聴覚で捉えることができる境界の内側で秀でていくことがスーパーなら、ハイパーは、その境界や認識の外側で、つまり既存の見方によって未だ名指されていない対象と、比較するよりも、戯れ合っていくようなイメージです。たとえば何か完成されたモデル像や完成図があって、そのモデルや完成図の通りにできていなかったら不足の点数が加点されてしまうのがスーパーなら、ハイパーはデッサンやらくがきのように対象を大掴みにしていきますから、余白や遊びが残り、スーパーの価値観と比べると好い加減に感じられるかもしれません。でもそれでいいのです。それと面白いのが、このように何かと何かを比較しないでも、私たちはハイパーな人や物や出来事を、美しいとか面白いとか欲しいと感じることができる能力を元々持ち合わせていることです。たとえば恋愛とかまたは直感とか予感とか、言葉にできないけど、そこに自分にとっての必然性を感じる体験ってみなさんも経験がありますよね? まるで重力に引き寄せられるように対象に惹かれてしまうのです。一目見るだけで圧倒されるような、比較対象を必要としない存在。問題集の答え合わせをするような日々よりも、異なる世界から突然やってきた黒船のような人物や出来事との出会いを、私たちはいつも待ち望んでいるはずなのです。
 では相方のスコアの言葉の意味も簡単に調べておきます。辞書によると、スポーツの試合や競技の得点、記録、点数、成績、または切り込み線やひっかいた線という意味も含まれるそうです。スコアとスーパーの意味が近いので、あれっと思われた方もいるかもしれません。そうなんです、読みながら記録して分類することで、ハイパーにスコアが生成される読書。これが「ハイパー・スコア・リーディング」です。詳しくは追ってお話させてただきます。

では、次は「ハイパー・スコア・リーディング」とは何かに迫ってまいりましょう。
 まずは人と本の関係性です。網家では本のジャンルをざっとこのように分
類しています。(→みなさんの「名刺代わりの3冊」はどこに位置づけられたでしょうか?)

 ノーマルな本
  料理、お菓子、縫い物、塗り絵、芸術鑑賞、カメラ、スポーツ、格闘技
  パズル、雑誌、コミック、エッセイ、流行りの文芸書、タレント写真集  

 スーパーな本
  教育、医学、福祉、電気工学、情報、システム、語学、インターネット
  自己啓発、天文学、農業、数学、色見本、デザイン、将棋、鉄道、山岳
  ギャンブル、占い

 ハイパーな本
  社会科学、自然科学、フェミニズム、コミュニティ、思想哲学、スキな
  文芸、アート、芸能(歌舞伎、能、ダンス)、写真、日本史、世界史、
  辞書、辞典、何よりも数寄な本全て。 

 ハイパー・スコア・リーディングは、『多読術』を始めとする松岡正剛さんの読書術を親に持ちます。ですので、親の松岡さんと同じように古今東西に出版されたたくさんのハイパーな本を愛読します。そして、それらの本はそもそも多種多様に関係している、という立場をとります。こうして分類を見ながら、世界を眺めてみると、我々が生きているこの世界と本の世界がだんだんリンクしてきます、近代資本主義によって高度に秩序化しているように見える“この世界”ですが、“本の世界”に目を向けてみるとまだまだ遊べる余地があるような気がします。たとえば、「アートな農業」とか「タレント写真集の思想哲学」とか「天文学とフェニミズム」とか、それぞれの分類からひとつずつ取り出して組み合わせただけですが、もう面白そうではないですか? そうです、想像力という資源はまだまだ余っているのです。資本主義という怪物にとっての労働者、消費者というエサにされている私たちですが、世界がまだ思いもしないような可能性が、私と本の世界のあいだに潜んでいるはずです。
 そもそも繋がっているという本の世界の見方を仮に自然とするならば、仕組みによって断絶が生み出されていくこの世界のあり方は不自然です。資本主義下で象徴的なのは貧富の格差がですね。地球全体に行きわたる水や食材や家があるはずなのに、そうなっていない。
“この世界”のネットワークはどこかが牛耳っていて、そのどこかを中心にして富み、周辺は貧しくなっていく。遊びより儲け、自由より監視。世界はどんどん人間らしさから遠ざかり、固く閉ざされていっているわけです。だから、ハイパー・スコア・リーディングなんです。仕組みの外から世界を見返すために、普段の生活に+1の読書を組み込む。断たれてしまった繋がりを取り戻し、柔らかく面白く新しく、世界と私の位置付け方を変えていく読書術、これが網家が提唱しているハイパー・スコア・リーディング・メソッドです。

ESくん
 いいね。これから伝えたい事全部詰め込んだんじゃないかってくらい熱いね。ハイパー・スコア・リーディングが初見の方にとっても、既知の部分と未知の部分の両方が感じられて面白いんじゃないかな。

EMちゃん
 そうね。ハイパーの対比にスーパーを置いたり、松岡正剛さんの多読術を親に見立てたり、工夫しているのが分かる。私も面白かった。

網口渓太
 ふたりをイメージして書いていたから、ふたりからの面白いは嬉しいな。

EMちゃん
 でも、内容の盛りに対して、スライドの背景のシンプルさはアンバランスな気がするな。

網口渓太
 そうなんだよね、ふたりも好きな『何か分かりずらいチャンネル』を真似て作ったんだけど、もうちょっと素材を探してみるかな。

ESくん
 ヴィジュアルのイメージは大事だからね。手伝うよ。じゃあ続きいこうか。

ハイパー・スコア・リーディングのスライド

■問題は固い
 現在のこの世界よりも本の世界の方が余白が残っており、多くの可能性を秘めていることが分りました。では私たちのもう一つの生活の舞台となっている、SNSを始めとする“ネットの世界“はどんな状態になっているのでしょうか、さっそく読んで参りましょう。
 昨今、電子通信のインフラの発展、X(前Twitter)やInstagramなど、ソーシャルネットワーキング・サービスが発達したことによって、手元に一台のスマートフォンさえ持っていれば、日常的な娯楽であれ災害時の緊急速報であれ、世界中のあらゆる場所で起こっている出来事を、ほぼリアルタイムに入手できる時代になりました(→ちなみに今日のニュースは?)。いつどこにいるのかにも関わらず、会ったことすらないどこかの誰かと自分が並べられます。よく「隣の芝生は青い」といいますが、自分が持っていない高価なハイブランド品や車や家を持った生活をしている人、行ったことのないような場所でバカンスをしている人、これまでの人生で縁がなかった異性や同性と仲良くしている誰かをうらやましく思ったり、知らなかった外の世界を一度知ってしまったことで、自身の生活の現状に対して不満を覚えてしまうのも仕方がありません。そして、その不足の多くが金銭の不足と対になっている。もっと頑張ってお金を稼いで、もっとリッチな生活をしないと、“みんな”から取り残される。資本主義という怪物はインター・ネットと癒着して、インター・ネットの使用者を広告塔として利用し、別のインター・ネットの使用者の不安を煽ることで負の欲望を刺激する。そうすると、ひとりひとりの人間らしさは影を潜め、わたしにも資本主義の怪物らしさが前面化してくる。あなた自身の個性は身を潜め、あなたは典型化した“みんな”の一部と化すのです。“みんな”の欲望は、わたし由来の欲望ではなく、資本主義の怪物が成長するためのまやかし、幻影ですから、ふと本来のわたしが顔を出すとき、世の中との関わりずらさや関わりたくなさを強烈に感じるというわけです。逆に捉えれば、わたしがわたしらしさを取り戻し、わたしにとっての自然を取り戻して、芝生を青く育てることがこの世界との関わりやすさ、関わりたさの後押しとなるのです。
 たとえば、“ネットの世界”でノーマルとスーパーとハイパーの情報がジャンルを行き来して、新しい価値や創造を生み出しているとすれば、インターネットやるなとなるわけですが、そこまでクリエイティブにネットを活用できている人はごく一部でしょう(→誰の“顔”が思い浮かびますか?)。多くの一般ユーザーは、誰かにとって優位になるように範囲が位置付けられた、ごくごく一部の情報を“この世界”と一体化した全体として認識させられています。ドイツの思想家のヴァルター・ベンヤミンはこのことを、我々は「集団の夢」を見ていると言いました。何かと何か、誰かと誰かを比較して、目に見える容姿が良い悪いとか、収入が高い低いとか、心のあり様が正しいとか間違っているとか、毎分毎秒いちいち確認させられる。精神分析の父であるジグムント・フロイトはこのことを、「死の欲動」と言いましたが、そうやって、不安感や競争心を煽って、自意識を膨らまさせる。もっと働かないと、もっと成長しなければいけないと、本人に思わせる。誰が? 誰によって? 誰のために? 資本主義では資本を多く持った資本家がその位置を占拠します。
 このように世界が生きるに価しないくらい歪んでいると感じたとしても、社会や集団や他人を変えようとするのは無理があります。まずは自分です。たとえば、顔も知らない誰かから情報が入ってこないようにして、親しい本や人と深い対話をする機会を作ってみる。自分の現実の認識の仕方が歪んでいないのか疑ってみる。ここまで私もそうしてきたように、お題を立てて、深く考えてみる機会を作ることも大事です。+1で本を読んでいくと、問いにバリエーションが生まれたり、しっくりくる回答に至るまでのサポートをしてくれることもあるでしょう。いつもその欲望が、本来の私と世界の適当な位置にあるのか問うてみる。欲望は無限で無形ですから、時々ふたをして、自分の欲望を有限化することは、ネット時代を生きる私たちを救う方法です。読んだら書いてみる、自分のあたまでよく考える、情報を集めたら分類をしてみる。整理するもよし、入れ替えるのもよし。スコア・リーディングは私のらしさ、顔をつくってくれます。そうやって本の世界を旅したら、この生活に戻ってみる。行って戻るたび、以前の自分がさまざまに固かったことに気が付くことができるのです。

ESくん
 まるで仏教思想×資本論だね。ハイパー・スコア・リーディングはメディテーションをして煩悩を消す方ではなく、むしろ煩悩を表出して使い方を学ぶ方だから、その辺りを勘違いしてほしくないとは思う。
 渓太くんがよく話すけど、インターネットだけで知識を得ていると何でも知っているような気になってくる。なのにいつも不満や不安を抱えている。一方、本と読書の良さは、自分がいかに物事を知らなかったかが分かること。稔ほど頭垂れる稲穂かなじゃないけど、そうすると足るを知ることができるんだよね。

EMちゃん
 SNSの炎上もたとえば情報のCだけを囲んで燃えてしまってるような感じ。炎上に関わる発言の多くがABの文脈が考慮されていない。ましてやDの可能性もない。読書はインターネットより情報のやりとりに時間がかかるかもしれないけど、ABCの文脈を読んで、組み合わせて、新しいDに向かえるものでありたいわね。
 それと「怒り」という感情への認識も最近歪んでるなと思うの。“個人的な怒り”はできるだけ抑えて、政治家に怒ったり、官僚に怒ったり、不景気に起こったり、社会的に公認された“世間的な怒り”をぶつけて、怒ってるふりをしているけど、それはその人本心の怒りではない。みんなと同じ事に対して怒っている分には危険がないもの。あと、怒りの感情の制御不制御にも思うところがあるわよね。

網口渓太
 すばらしいね。むしろ、社会的な怒りと私個人の怒りのズレを正確に見極めようとする事が大事なんだよね。人間の本来と社会の現状を見据えて、ハイパーな読み前でした。

ESくん
 我らが中島義道先生が『怒る技術』でこの辺りの話しに触れておられたから、いい引用文があるかも。

網口渓太
 引用文に差し替えてみるのはいいかもしんない。Ok.じゃあ続きいこう。

  生成AIとか最新の技術力には、人智を超え始めた感じがあってすごいなと思いますが、私は本と本のあいだに流れている時間が丁度心地いいのです。機械が計算した情報をただチェックするだけの役割を担うのではなくて、“この情報”を扱ってみようと選んだり、集めた情報を分類してみたり、またその分類を動かして、新しい軸が生まれないか吟味したり、違っていたら、もう一度違う情報を合わせてみたりとか。つまり、”編集”をする時間ですね。たくさんのレシピや新しい表現の可能性が、本のなかにはまだまだ眠っているはずです。なぜそれらのお宝がほとんど見つかっていないのか。それは、ハイパーな本をハイパーに読もうとする読者がそもそも少ないからです。この世界から本の世界への旅を生活に取り入れてみてはいかがでしょうか。

ESくん
 家では馴染みの「兎と亀」の時間論だね。遅らせて待っているのは何かといえば、目覚めって事が伝わるといいけどね。

EMちゃん
 鹿島茂さんの『「パサージュ論」熟読玩味』とか重ねてみるといいかも。

網口渓太
 察しがいいなぁ、実は後半部分で参考文献として使わせてもらってる。目覚めもまさにだね。この読書は遅らせるの下りまでで、この読書術は面白いぞって、聴き手を前傾姿勢にしたいからね。もう一度読み返してみるか。

ESくん
 でも、渓太くんが語っている内容と、語っている様子が重なっているのは家らしくて、やっぱり外せないなと思った。二次元と三次元の行き来ね。

EMちゃん
 目覚めについて語りつつ、同時にこの場を目覚めさせているみたいな?

網口渓太
 目覚め目覚めってめちゃあやしいやん(笑) まぁ、でもうちらは方法に徹しているだけだから、なってしまったものは受け入れるしかないね。

EMちゃん
 なんか弱らせてしまってゴメン(笑)

ESくん
 ひとつ思ったのは、速い社会のエビデンスは、もっとたくさん収集しておいた方がよさそうじゃない? いかに編集をする時間が自分達から奪われているかのリアリティを感じてもらうために。意外性のある情報が他にある気がするし、比較対象はもっと探しておいた方がいい気がする。

網口渓太
 アドバイスありがとう。ここは図書館にいって参考文献を集めてみるよ。

■私記から超私記へ。
 ではお次は、たくさんの世界からたくさんの私の話しへ移ります。ハイパー・スコア・リーディングでは「世界と私の関係性」をロジカルに目的的にするよりも、アナロジカルに遊戯的に編集していきながら、私というものを限っていきます。限るというのも、いつでも入れ替えが可能な、仮固定に留められて流動的な、ファッションのように軽やかなイメージです。それは、自己実現的でアスリートのように記録を求めるスーパーな自己でも、自己喪失的に大衆に同一化していくノーマルな私を持続させるのでもなく、自己解体的にノーマルとスーパーな私も含んだ、たくさんの私が混じり合った、ちぐはぐな私です。周囲の人からしたら、素の私に対する印象は昔からほとんど変わらないのに、スタイルは常に変化していて目新しくなっていくので、安心と斬新が同時に感じられて面白いはずです。後でみなさんにも言葉と本を使った、たくさんの私になってみるお題に取り組んで頂きます。究極のお手本は、デヴィッド・ボウイやアンディ・ウォーホル。私は最近では、メディアアーティストの落合陽一さんや画家で執筆やいのっちの電話まで色々と活動をされていて坂口恭平さんの様子がたくさんの私ぽくてハイパーだなと注目して見ています。
 ハイパーな私の自己認識はとてもメタです。たとえば、ロックシンガーの矢沢永吉さんが野暮な質問をしたインタビュアーに対して、「俺はいいけど、矢沢がなんて言うかな」といったように。私というものを階層化していて、複数の自己がその場に応じて、それぞれの役割を果たします。家族友人、職場の仲間や取引先の人たちも私の一部ではありますが、ハイパー・スコア・リーディングでは、本の著者や本の登場人物が複数の自己のイメージの原型となります。起点は「好み」です。リアルとバーチャルは関係ありません。記録より記憶に残る人物が私をより複合的にします。その方法は、レヴィ・ストロースのブリゴラージュやシュールレアリスムのコラージュのように、0から1を生み出していくというよりも、すでに存在している物事を読んで、ばらして、より面白くなるように組み立て直す。古今東西様々な世界が混じり合った再編集的な私です。
 本は別様の可能性に導いてくれる地図です。本当にたくさんの出版物が流通していますが、一冊一冊が歴史的で革新的で近未来的なんです。挑戦する人の味方とも、冒険の相棒とも、生活の相方ともなるわけです。本の制作にはたくさんの人が関わっています、世界各国で今は亡き著者の言葉が引用され続け、表紙のデザインもイメージを介することでジャンルを超えます。たとえば現代思想の本の表紙に、室町時代の絵画が使われているとか。
 専門家同士が知恵を分け合って、お互いの領域の知を分け合って一冊の本を作り合っている。この世界では一人前の顔をして生きていける人も、本の世界では中途半端な人です。でもそれがいいんです。本は私の仮姿であり世界の模型ですし、読書は遊びであり宝探しですから。老若男女が仲良くなれるはずです。でも、我々には好みがあり、好みには片寄りがあります。ヤンキーがカッコいいと思える人、ギャルがイケてると思える人、一人で静かに過ごしたい人、外で騒ぐのが好きな人、秩序がないとイライラする人、秩序があるとイライラする人、その度合いは人様々です。精神分析学では去勢といい、哲学では有限性といいますが、この世界では、たくさんある選択肢のなかから、これだというものを選んで、生きていかなくてはいけません。それぞれが片寄っているわけですから、読書中の誤読や、読書後の誤配も絶えないわけです。でもそのデコボコを頭ごなしにフラットにならそうとせずに、それぞれが“仮“であることを認識した何らかの世界観、それが今最も求められている物語なのではないでしょうか。「何々するしかない」からと仕方なくやっているような悲壮感ではなく、「楽しい」から貪欲にこれでもかと一言もむげにせず新しい世界と私のあいだを発見していく。これが、ハイパー・スコア・リーディングをする私です。
 メタであること、自分との飛距離を保つことは大事ですが、あくまで起点は「好み」です。
高揚感のある、関心のあるもの、好きなもの、好きになりたいものを相手にしてください。好きでもない洋服や靴を履いているような日常のストレスも感じつつ、子供時代に好きだった物事は何だったのかちょっとときめいてから、本屋や図書館を歩いてみるとか、いつもいかない棚を歩いて、表紙が気になる本をジャケ買いしてみるとか。好きな人のアドバイスに従順に従ってみるというのもいいですね。こういうちょっとした工夫を挟んでみると、より楽しい読書生活になっていくのではないでしょうか。ハイパー・スコア・リーディングとは、「関係を主語にして、私を述語にする」、世阿弥のお能に当てはめれば、本がシテで読者がワキになれる、読書術です。

EMちゃん
 「関係を主語にして、私を述語にする」って、(→12-2)の時の対話を思い出すわね。あ、あと『私記から超私記』ってベンヤミンの本のサブタイトルね。

網口渓太
 そう初見で食らって。お借りしてる。ハイパーな感じがしていいでしょ。

ESくん
 何かを定めないと物事が起こっていかないけど、定めすぎるのも同じ事。この矛盾した感じがいいね。あと色々な要素を組み込んでいるけど、そのたくさんの要素をメッセージが支えている。スーッと通っていて清々しいよ。

網口渓太
 読む人によってはごちゃごちゃして見えるだろうけど、ESくんの眼でそう言ってもらえるならよかった。まずは自分達が楽しんでいないとね。では、ここから先が後半部分です。よろみ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?