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『我が家の新しい読書論』5-3

ESくん
 最近何に凝ってる?

EMちゃん
 メイクとコスメ集め。それとレベッカ・ソルニット。

網口渓太
 んー、北野映画、バンライフ。あと路上の本集めかな。

ESくん
 へぇ、ついに路上の本を集め始めたんだ。ヨウジヤマモトだな。新宿な感
じ?

網口渓太
 もちろん。新宿つながりでいえば、森山大道さんとか北大路翼さんもだし、赤瀬川源平さんと都築響一さんはマストだよね。あとはざっと、

  • 村田あやこ 藤田泰実『はみだす緑 黄昏の路上園芸』雷鳥社

  • 石川直樹『STREETS ART MINE 路上は俺のもの』大和書房

  • 国友公司『ルポ路上生活』彩図社

  • 宮田珠己『路上のセンス・オブ・ワンダーと=かなるそこらへんの旅』亜紀書房

  • 春増翔太『ルポ歌舞伎町の路上売春 それでも「立ちんぼ」を続ける彼女たち』ちくま新書

  • 高木瑞穂『ルポ新宿歌舞伎町路上売春』鉄人社

  • 乗松殻 『風景の見え方 路上観察』創風社出版

  • 藤井誠二『路上の熱量』風媒社

  • 中野陽介『路上ワークの幸福論 世界で出会ったしばられない働き方』CCCメディアハウス

  • 影山祐樹『あたらしい「路上」のつくり方 実践者に聞く屋外公共空間の活用ノウハウ

  • 奥田若菜『貧困と連帯の人類学 ブラジルの路上市場における一方的贈与』春風社

 まだ読み始めてないんだけど、目次をちらちら読みながら「路上」の入り口をうろうろしているところ。そろそろ読むかな。

EMちゃん
 著者も出版社もかぶってないのが興味深いわ。みんな興味あるのね路上。  

ESくん
 “好き”に従って本を集めていたら立ち上がってきたキーワードが「路上」。坂口恭平も小川さやかも鹿島茂も宇川直宏も岡崎京子も村上龍もそうだったし、浅田彰の“逃走”も、網野義彦の“非民”も、点と点がつながるね。しかし、最近出版の本を集めたね。

網口渓太
 ケルアックの『路上』とかいれてないしね。新しめの本から入って、さか
のぼって読んでいこうと思ってね。今年の上半期はしばらく路上に遊ぶよ。

EMちゃん
 ラップとか古着とかのカルチャーもそうね。アメ村にいく頻度が増えそう。

ESくん
 ただでさえよくいるのにね。ボクらの活動拠点は大阪市立中央図書館だか
ら。まぁ、でも現行の資本主義社会の世界の見方を塗り替えれそうな世界観
ってイメージするの本当に難しいね。それはすでに誰かが試みているばっか。

網口渓太
 やることをやって待つしかないよね。われわれは本棚をアートし続ける。
デーツ食べる? 

ESくん
 頂戴。それぞれのカルチャーでやることやってる人たちは古今東西たくさ
んいるし、違うカルチャー同士がつながる試みもなされている。新しい世の
中に変わるのに、何が足りてないんだろう? 

EMちゃん
 違うカルチャー同士がつながる試みがされてはいるけど、飛距離はまだ近
い気はするけどね。アメ村だったら、ラッパーと服屋とレコード屋とハンバ
ーガー屋とタトゥーとグラフィティがコラボとか。

網口渓太
 コラボをしなくても元ラッパーのKOHHの千葉雄喜みたいに一曲で業界の
価値観を崩せる人もいるよね。飛距離は確かにみてみたい。

EMちゃん
 はいはい、『チーム友達ね』(笑) 路上だったらレベッカ・ソルニットの
『ウォークス』も必読書かも。たとえば、

 さまざまな意味で、歩行の文化は産業革命がもたらす速度と疎外に対抗す
るものだった。産業化以後に、あるいは近代以後の空間・時間・身体性の喪
失に抗って歩きつづけるものがいれば、それは対抗文化あるいは副次文化と
いうことになるだろう。この種の文化の大半は過去の実践ー哲学者の逍遥、
歩行による詩作、巡礼や仏教の行ーに学び、あるいはハイキングや遊歩とい
った前例に依拠している。ところが、一九六〇年代には芸術としての歩行と
いう、歩行の新しい領域が開かれた。
 いうまでもなく芸術家は歩いた。一九世紀、写真技術の発展と戸外での絵
画制作が一般的になると、歩くことはイメージの制作者の重要な手法となっ
た。ただし、彼らはひとたび望む光景に遭遇すると歩きまわることをやめる。何よりその光景を彼らのつくるイメージに永遠に留めるためだ。歩行者の姿を描いた素晴らしい絵画は枚挙に暇がない。山岳をさまよう隠者を描いた中国の版画から、たとえばトマス・ゲインズバラの『朝の散歩』、あるいは傘を差した人びとがパリの石畳を行き交うギュスタヴ・カイユボットの『パリの通り、雨』など。しかしながら『朝の散歩』に描かれた上流階級の若い夫婦の精一杯の歩みは凍りついているかのようだ。思いあたる作品のなかでは十九世紀の浮世絵作家・広重による『東海道五十三次』だけが、立ち止まることではない歩みそのものを感じさせる。これは十字架の道行きと同じようにシリーズによって、江戸から京都までの三一二マイルの旅路を再現するものだ。浮世絵が示しているように大半は徒歩だった。道が歩く者のためにあり、映画が木版画であった時代のロード・ムービー。

                『ウォークス』レベッカ・ソルニット

網口渓太
 いや、流石はレベッカ・ソルニット。歩くことと絵画を分けて、そして広
重まで古今東西の絵画のあいだを縫う書きぶりがいいわ。あと、歩きまわる
ことを止めて、イメージを永遠に留めるって箇所は(→5-1)の中沢新一さ
んの『森のバロック』の引用と視点が重なるね。やっぱ路上だな。

ESくん
 レベッカ・ソルニットの文章は本当方法が利いてるね。いい方法こそが大
事なんだな。EMちゃん続き読ませて。 

 道と似て、言葉を一挙に捉えることはできない。聞かれるにせよ、読まれ
るにせよ、言葉は時とともに開かれてゆく。この語りという時間的要素によ
って、書くことと歩くことは互いに似たものとなっていた。それは芸術と歩
行のあいだには生じなかった関係だったが、ヴィジュアル・アートという大
きな傘の下ですべてが変革されあらゆることが可能となった一九六〇年代に、それが変わる。どんな革命にも無数の先祖がいる。この革命の始祖のひとりは抽象表現主義の画家ー少なくとも彼の「子どもたち」のひとりはそう呼んでいるージャクソン・ポロックだ。その「子ども」のひとり、自身もパフォーマンスや多分野にわたる重要な作家であるアラン・カプローは、ポロックの重点は美的対象としての絵画から「日記体の身振り」としてのそれに移行した、と一九五八年に書いている。一義的なのは身振りで、絵画は副次的なもの、いまやその主題となった身振りの形見に過ぎないのだと。この年長の画家が果たしたものの帰結を検討するカプロー分析は熱を帯び、予言的でさえである。

  ポロックによるこの伝統の半ば破壊というべきものは、芸術が、我々が
 過去の姿として知っているものよりも積極的に儀式や魔術や生活に関わり
 あっていた地点への回帰でもあるだろう。……ポロックは、身体、衣服、
 居室、あるいは必要とあらば広大な四十二番街まで、日常生活の空間や事
 物にかかずらって眩惑さえ強いられる、そんな地点に我々を置き去りにし
 た。我々はそれ以外の諸感覚へ訴えることの可能性で満足せずに、見える
 もの、音、動き、人びと、匂い、触れることそれぞれが有する内実を利用
 せねばならない。

 カプローが素描する可能性に応えようとする芸術家にとって、芸術はモノ
をつくるための技術に立脚した分野ではなく、何ものの拘束も受けずに理念
と行為と物質世界がとりもつ関係性を探る活動となる。画廊と美術館、それ
らのために作成されるオブジェという制度が崩壊の瀬戸際にあったときに、
新たな活動の場と、芸術創造における新しい直接性を探し求めていたのがこ
のコンセプチュアルで脱物質化された芸術だった。芸術家がカンバスへ向か
う画家というあり方をはるかに凌駕する身振りの可能性を拡げようとすると
き、彼らの範となりうるのは科学者、シャーマン、刑事、あるいは哲学者で
あり、芸術品はそうした探求の物証か、鑑賞者の探求を助ける小道具でしか
なくなるのかもしれない。芸術家の身体自体もまたパフォーマンスの媒体と
なった。美術史家クリスティン・スタイルズは、「芸術としての身体に重点
をおいたこれらの芸術家は、制作された作品ではなくプロセスの役割を拡大
し、事物の表象性から行為の演示性へと関心を移していった」という。現在
からみると、こうした芸術家の営みはもっとも単純な物質・形態・身振りへ
立ち戻り、身振りのひとつずつ、物体のひとつずつによって世界を再創造す
る試みだったようにも思われる。そして、そうした身振りのうち、平凡なが
ら並外れた可能性を秘めていたのが歩行だった。

                『ウォークス』レベッカ・ソルニット

EMちゃん
 ESくんの好きなポロックがきましたよ。それにしても、そんなにすごい
のか、歩くことって。

ESくん
 特に『五尋の深み』が好み。誰でも歩けるには歩けるもんね。まぁ、見方
で“別”の何かがひらけるんだろうけど。うわ、このリチャード・ロングって
人の『歩行による線』最高だな。まるで森山大道じゃん。カッケぇ。

網口渓太
 「死者は留まり、生者は旅する」

ESくん
 急になによ(笑) ポロックごっこか!

網口渓太
 いや、時代劇が好きだから、昔の人は歩きながら旅をしたんだったと思っ
てね。一説では「たび」の語源は「賜ぶ」で、「もの賜べ」と食事や宿を乞
いながら旅をした。何かが欠けていたから、物乞いをしながら諸国を歩いた。ポロックのアクション・ペインティングは平時のなかで有事を思い出させる方法なのかもね。

EMちゃん
 (→5-1)のESくんの部屋の片付けのときに、どこから手を付けるのか
を決めたけど、そのどこからの方法を色々と検討してみるのは面白いかもし
れない。問いと答えもそうだし、表玄関と裏玄関とか、コース料理の手順と
か、待受けとか本の表紙とか。あ、あと手と足も。

ESくん
 自宅がインサイドだったら、地元はアウトサイドになるし、地元をインサ
イドに決めたら、他の都市はアウトサイドになる。自分と世界の位置付けを
定めてみると、事態がいきいきしてくるね。方法で旅をするか。

網口渓太
 いいじゃん、方法で旅をする。だから、歴史と年表と地図を携えれば、路
上はインターネット空間にもなりえるんだよ。森山大道さんの写真を眺めて
たら、特にそんな気がしてくる。

 「森山さんの写真は、いつ撮られたものなのか、時代がまったく分からな
い」
 多くの人が、ぼくの写真を見てこんな感想を漏らす。つい先日撮った東京
の路上スナップなのに「令和の日本とは思えない、少なくとも21世紀の東京
には見えない」と。
 それは、そうなのかもしれない。上京してきて、感じ入るまま見つめ、夢
中になってシャッターを切った1950年代末、昭和30年代の東京。さすがに、
いま現在の僕の眼に当時の光景そのものが、オーバーラップしてくることは
ない。それでも、ぼくはどこか体質的に、いや性癖として、新しい時代とか、新しい世紀の街並みよりも、あの日のときめきを追い求めている。

 そして、ときに外国や地方に出かけてこの街に帰ってくると、いつもしみ
じみと思うのだ。東京はいいな、と。
 それは、これほどまでに様々な要素が渾然と、集合している都市というの
は、世界中どこを探しても見つからないと思うからにほかならない。
 もちろん、ニューヨークにはニューヨークの、パリにはパリの、それぞれ
の都市にはそれぞれ捨てがたい魅力はある。けれど、東京ほど巨大で、すさ
まじい猥雑さを目の当たりにできる都市は、ほかにないと思う。
 新宿も、池袋も、渋谷も、上野も、浅草も、銀座も、そのどれもが二つと
ない特徴のある街を形成している。ぼくは新宿の街だけで何冊も写真集を作
ってきたけれど、浅草や銀座でだって、濃密な写真集を作ることはできると
思っている。
 東京とは、そんな、個性際立つ街々の集合体、得体の知れない混成都市だ
と、ぼくは思う。

                    『TOKYO』森山大道

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