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『我が家の新しい読書論』10-1


網口渓太
 ほな、輪読を始めていくね。今日は前回の続きの177ページから。

 情報技術が画期的であるところは、かつてそれが情報として成立していな
かったものを、情報様式として成立させるところにある。
 紙の上のツブツブの突起点はそれだけでは意味がない。それをタテヨコ6
個ずつならんだマトリックス点とし、これに六三通りの文字コードをあては
めて、初めて点字情報としての意味が出る。トン・ツーの音もおなじこと、
それをモールスが符号にするところに情報技術の発声がある。
 すなわち情報技術は、未信号状態から信号をとりだし、これをなんらかの
符号にして、その符号を読めば元の信号が理解できるようなシステムをつく
ることが出発点になる。理解のためにはさまざまな記号がつかわれる。最も
一般的な記号はやはり言語である。また符号化のシステムは、それがそのま
ま本のようなメディアになることもあれば、そのシステム自体は裏にかくれ
て、テレビのように再生ー復号ーされるばあいもある。今日にいう情報技術
はむしろその方が常識的である。これがひとまず原型だ。

『情報と文化』情報文化フォーラム編

 どうかな、どっか気になる箇所あった?

ESくん&EMちゃん
 ん~……、

EMちゃん
 そうねぇ、もっと詰めてみたいのはこの箇所かしら。「未信号状態から信号をとりだし、これをなんらかの符号にして、その符号を読めば元の信号が理解できるようなシステムをつくることが出発点になる」
 色々なジャンルの生成過程を理解するのにも応用できそうだから、未信号状態とか、信号とか、符号とか、ちゃんと理解しておきたいわね。ちょっと違う本の一冊のなかから重ねてみるわ。

 そもそも情報というものは、「コード(code)」と「モード(mode)」
に分けて考えることができます。
 「コード」というのは、情報の構造やルールやスペックです。マニュアル
や説明書に書かれている定義や規則であったり、事実や素材やシステムの構
成要素と言ってもいいでしょう。「ソースコード」といえば、プログラミン
グの手続きが書かれた情報ですし、「ドレスコード」といえば、何を着るべ
きかという場に応じたルールのことです。明記できて、言語化や数値化可能
で、管理しやすいものです。
 一方、モードというのは必ずしも言葉や数字で表現できない印象だった
り、様相・様式のことです。スタイル、モード、モダリティ。いわく言いが
たい、目に見えない雰囲気やニュアンスとして現れるものでもあります。
 流行や文化やブランドというものは、何かしらのコードの組み合わせの上
に表出してきたモードやスタイルが流通しているものと見ることができま
す。
 「らしさ」は、基本的にこの「モード」に宿っています。だから、わかり
にくいし、取り出しにくい。そのため、「そのものらしい」というのは本来
大きな価値を持っているのですが、「らしさ」を資産として自覚的に扱うこ
とがなかなか難しいのです。
 「らしさ」とは、「アイデンティティ(自己同一性)」というほど窮屈で
なく、「~的」「~風」というほどには客観的でもない、「そのものをその
ものたらしめている何か」です。

『才能をひらく編集工学』安藤昭子

 信号とモード、符号とコードが近しい意味を持っていそうね。情報のらしさ、つまりコードとモードの両方を適切に掴まえることができれば、分厚い辞書が必要なくらい言葉を量産しなくても、6つの点(dot)を並び替えるだけでコミュニケーションを成立させることができると。目に見える6つの点の並びはシンプルだけど、その背景では、言葉とイメージのどちら側にも寄り切らず、むしろそのあいだに潜んでいるあいまいな、でもキラッと光る情報に触れたからこそ始まったって感じが何か、フラジャイルで過激な感じで好きかも。

網口渓太
 その背景のあいまいな領域には、国籍や性別や世代をこえて、より多くの人同士が共鳴することができる普遍的な意味やイメージが待機しているんだろうね。点字にかわる何か、作れないか考えたくなるね。ESくんはどう?

ESくん
 モードって聞いちゃうとヨウジさんを持ち出したくなるんだけど、あと(→4-1)の中島義道先生の「二次的自己中心化」もコードの理解を助けてくれそうだけど、ボクも早まらずを意識して、まずは一冊重ねてみるよ。

 日々の行動は、深く考えなくてもできるように習慣化されているもので
す。会社や学校といった環境のなかで、他者への対応がスムーズに、無意識
的にできるようになっている。環境には「こうするもんだ」がなんとなくあ
って、それをいつのまにか身につけてしまっている。

 「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられていま
す。
 メールの書き方の「こうするもんだ」は、好感を与えるという目的のため
であり、そしてそれは「利益を上げる」という会社全体の目的につながって
いる。環境には、目的がある。
 恋愛関係であれば、「関係を長く維持する」という目的に向けて、Line の
メッセージをどう書いたらいいとか、コミュニケーションの「こうするもん
だ」があるわけです。
 周りに合わせて生きているというのが、通常の、デフォルトの生き方で
す。
 私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて
人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結びつけている=「共同
化」している。
 そこで、次のように定義しましょう。
 環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づ
け」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。
 言い直すと、「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードに
よって目的的に共同化されているという意味です。
 これは、強制的な事態なのです。なんとなく、深く考えずに生きている状
態では、その強制性を意識できていないかもしれません。あるいは、それに
嫌気を感じている場合もあるのでしょうが、私たちは、なんとか生き延びる
ために、周りに合わせて「しまって」いるものです。 

『勉強の哲学』千葉雅也

 人の能力を頭ごなしに抑圧してしまうのか、はたまた新しい創作や文化の発展のきっかけになるのか。ルールとの付き合い方を考えさせられるね。ちなみにこの続きは「モード」の話しみたい。

 会社なり学校なりのコードに合わせてしまっている。習慣的に、または中
毒的に、「こういうもんだ」と、ある特殊なしゃべり方や動きをしてしま
う。そういう状態は、ある環境において、いかにもその環境の人らしく「ノ
っている」ということである。
 環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書で
は、ひとことで「ノリ」と表すことにしましょう。
 ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。
 流れるように「コード的に行為できる」のが、「ノリがいい」わけです。
逆に、コードにそぐわない行為を「やらかして」しまうのは、「ノリが悪
い」ということであるーならば、周りから「浮く」ことになります。さらに
は、異分子として排除されることもありうる……。
 ノリは、残酷なことに、「ノリが悪いと見なされることの排除」と表裏一
体です。

『勉強の哲学』千葉雅也

 まさか、コードとモードを調べてたら「イジメ」の原因ぽいものに出くわすなんて。「ノリ」が合う合わないってたとえ、分かりやすくていいなぁ。この軽さは千葉さん“らしい”ノリよね。

網口渓太
 そうね、こうなったら千葉さんの小説の三部作も読まないとね。実は輪読のちょっと先の続きの箇所で、まさに「イジメ」が触れられてあって、流石の勘だなと思ってます。じゃあ、続きを読んでいこう。

 ここで混乱を避けるために、いくつかの言葉を整理しておこう。厳密な哲
学的定義は別として、情報技術上においての整理が必要だ。それには今日の
コンピュータ用語をつかうのが便利だが、これもたいへん複雑なので、ここ
ではおおざっぱな整理だけをする。
 まず信号ーsignalーと記号ーsignーをはっきり区別する必要がある。
 信号は一過性のもの、記号は持続的なものである。信号情報はそのつど出
されるものだが、記号情報は制約をもっている。われわれは信号情報を、わ
れわれのもちあわせの記号情報によって解釈していると考えられる。たとえ
ば動物のしぐさはたんなる信号であるが、これをわれわれは「かわいらし
い」という記号に変えている。「かわいらしい」という記号は、動物のしぐ
さのみならぬ多くの印象に対応してストックされている。
 また、信号はノイズーnoiseーとの対比によって初めてあらわれる特徴
だ。信号の受信者に記号解釈が用意されていない場合の信号は、おおむねノ
イズとみなされる。

『情報と文化』情報文化フォーラム編

網口渓太
 信号と記号、signalとsignは、偶然と必然、カオスとコスモス、0と1、ソシュールの記号学ではシニフィエとシニフィアンとも言い替えられてきた現象だね。いや、この説明はとても内容が整理されていてなるほど、分かりやすいな。続けて読みます。

 ついで、符号ーcodeーの役割をはっきりさせよう。以下、本書では符号といわずにコードということにするが、情報理論では、コード化されるべき情
報は情報源ーinformation sourceーから発生すると考えられる。情報源から
発生する情報をメッセージー通報ーといっている。メッセージにはすでに情
報源記号が内属している。これを新しい別の記号系列におきなおすことが、
コード化である。コンピュータではよく知られているように、0と1のバイ
ナリー・コードー2元符号ーがつかわれる。このコードから元の情報記号の
系列にもどすのがデコードー復号ーである。情報通信には、通信伝送をはさ
んでかならずコード化のための符号機器とデコードのための複合機器がおか
れている。これがごく単純な情報通信のベーシック・モデルだ。(略)
 どのようなコードでその情報源があつかわれたか、その採用された様式を
モードーmodeーとよぶことにする。モードは内側にコードをふくみ、外側
にメディアの衣装を着る。よく雑誌メディアとか電子メディアといわれるの
は、本来はモードの種類で分けられるべきものだーモードはしばしばパター
ンと同義につかわれる。ロラン・バルトは『モードの体系』において、われ
われが見すごしやすい“流行通信”を哲学してみせた。

『情報と文化』情報文化フォーラム編

ESくん
 うわぁ、「モードは内側にコードをふくみ、外側にメディアの衣装を着る」って言い回し、カッケェ! なるほど、持ち替えとか着替えって言ってるのここから来てんの? コードは持ち替えられるし、メディアも着替えられる。

網口渓太
 いいねぇ。さらに言い替えを続けていくと、自分のアタマで考えることになるから、自分の知になっていくはずだよ。自分らしい知でもあるかな。

EMちゃん
 それってさぁ、さっきの千葉さんの『勉哲』のなかにも書かれている「アイロニー」と「ユーモア」とも通じる話じゃない。

 コードから外れる、あるいはもっとアグレッシブに言えば、コードを「転
覆」してしまうようなワザが、ツッコミとボケです。
 ツッコミとボケは、「コードの転覆」をする対極的な方法である。
 まず、簡単にその意味を確認します。

 ツッコミとは、周りが当然のように言っている話に対し、「そうじゃない
だろ」と否定を向けること。これは、シリアスに言えば、「疑って批判」す
ることです。
 ボケとは、一人だけ急に「ズレた発言」をすることですね。ツッコミと対
比するならば、ボケの場合では、勝手にその場のノリからズレていて、孤立
した感じを与えるでしょう。

 私たちは、環境から自由になるために、わざと素直じゃないことを考えて
みようとしている。環境のコードに対してわざとツッコミ的、ボケ的に、別
の可能性を考えてみるのです。
 ところで、ツッコミは、そもそもわざとやることです。すなわち、場のコ
ードがどういうものかを、不正確ではあっても、意識した上でなされるとい
うことです。この「わざと」を「自覚的」と言うことにしましょう。
 ツッコミは、基本的に「わざと=自覚的」である。
 というか、場に対して自覚的に介入するならば、「最小限のツッコミ意
識」があると言えるでしょう。それは、客観的に状況把握をした上でどうす
るか、という意識です。
 他方、ボケの方は、必ずしも自覚的ではない。「無自覚」なのが「天然
の」ボケです。
 ボケについては、「無自覚なボケ」と「自覚的なボケ」を区別でき
る。
 本書では、思考のテクニックとして自覚的にツッコんだりボケたりするこ
とを説明しようとしている。ですから、ボケについても、「最小限のツッコ
ミ意識をベースとした、自覚的なボケ」を身につけよう、ということになり
ます。

 環境(=他者関係)が、自分を、その環境の人として構築している。自分
が癒着している環境のコードに対するツッコミとボケは、だから、自己ツッ
コミと自己ボケなのです。そうできるようになることが、勉強の深まりなの
です。そして、自己ツッコミと自己ボケによって、何をこれからラディカル
に学ぶべきなのかが見えてくる、ラディカル・ラーニングのテーマが浮上し
てくる。

『勉強の哲学』千葉雅也

 クラスの人気者といじめられっ子は紙一重の存在なのかもしれないわね。無自覚に場のコードからズレてしまうのか、自覚しながら場のコードを転覆させているのかの差。あ、でも自覚している人よりもさらに自覚している人が加わったら、先にいた人が「やらせ」っぽくなって、いじめの対象になるってのもありそう。ある意味「環境問題」ね、これ(笑)

網口渓太
 どんどんメタに成っていくな。家はこの調子がいいから、ふたりとも、このままで。今回はこのくらいにして、次回の(→10-2)は、ノイズとナンセンス、“意味がないことの価値”について読みながら考えていこうか。じゃあ、一休みしよう。キットカット食べる人~。

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