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『我が家の新しい読書論』12-1

網口渓太
 何か楽しそうなことしてんね。

EMちゃん
 おぉ、左側がズレる。力加減が難しいわ。もう一回やる!

ESくん
 対面文字両手書きって言うんだって。ボクもやってみたけど、結構面
白いよ。

網口渓太
 なんかそのストロークの感じはあれやねぇ、カルマン渦みたいね。

ESくん
 あぁ、左右両側から交互に反対向きの渦が発生する現象の奴ね。

EMちゃん
 へぇ、何かダリの髭みたいね。

ESくん
 それを言うなら、プリングルスの髭みたいでもある。

網口渓太
 うん、相違はない(笑) それにしても筆を両手に持って舞っているみたいで、なかなかアーティステックな光景だよ。

EMちゃん
 うまく書けないから、試行錯誤の真っ最中よ。身体の延長線上で何か作ってみたらって、渓太くんが言ってたから、ちょっと思い付きでふたりで遊んでるのよ。

網口渓太
 意図通りに書けないのも手伝って、文字が絶妙にカワイさを醸し出し始めてるじゃん。ぎこちないEMちゃんもなかなか画になるよ(笑)
 坂口恭平さんとか土井善晴さんとか森山大道さんがいいお手本だけど、創作物にその人のらしさが表れているような、見る人の想像力を活動的にさせるような魅力はターゲットだよね。テンマル(、と。)も、「、」で分けたり「。」で繋いだりしながら、いまEMちゃんがやっているように、二重らせん構造な感じで、合わせたり重ねたりしながら、言葉のダンスを舞うっていうイメージが大事だから。千葉雅也さんが『勉哲』で書かれている玩具的な言語、自己目的的な言語、この感覚を思い出すことが家の、あえて言えば目指しているところかな。そのためにあの手この手を尽くして、紆余曲折してる。

ESくん
 素粒子も銀河系も自然はことごとくスピン、スパイラル・ダンスをしているから、人間のありとあらゆる活動も同じなんだろうね。世界に回転していない物ってないんじゃないかな。

網口渓太
 絵画では目に見えないはずの気配すら渦の形で描かれるしね。生死は輪廻する。

EMちゃん
 ふたりの話を聞いてたら、岡崎京子さんの文章を思い出したんだけど、

 いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
 いつも。たった一人の。ひとりぼっちの。一人の女の子の落ちかた
というものを。
 一人の女の子の落ちかた。
 一人の女の子の駄目になりかた。
 それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
 どこの街、どこの時間、誰だって。
 近頃の落ちかた。
 そういうものを。
 落ちかたといったって色々ある。例えばジェット・コースターのようにま
っさかさま、だとか、自転車で坂道を下るように、だとか。運動の種類が
ね。滑走系なのか旋回系なのか、とかね。飛行機のきりもみ飛行のような、
とかね。
 そうじゃない。
 むしろ、羽毛が、鳥のうぶ毛のような羽毛が、ふわふわと漂うような上昇
してるのか下降しているのか、一見するとよく分からないような落ちかたが
いい。椿の花がぽとんと落ちるみたいなのや熟したぐみやマルメロがぽとん
と落ちるみたいなのはいやなんだ。
 エレガントじゃないからね。
 でなかったら、たっぷりした水の中だとか。プールの底から太陽をみたこ
とがあるかい? あの光。あの反射。アイス・フロートのような不安。浮か
んでいるのか沈んでいるのか。フローティング。
 そんなものが望ましいね。

『ぼくたちは何かをすべて忘れてしまうね』岡崎京子

網口渓太
 流石だ。惚れ直すな、こんなこと書かれてしまったら。結論とか目的とかが意固地で頑なだと、あいだがヤラセっぽくなって、過程がつまらないじゃない? だからこそ、ダンス的なノリの、玩具的な、自己目的的な言語は、シーンを面白くしてくれると思うんだよね。岡崎京子さんの漫画のように。

ESくん
 ボクは屍派の俳人、北大路翼さんを思い出したね。

 俳句は人間だ。すくなくとも俺はそう思ってきた。
 テクニックなんて数年やればなんとかなる。

 俳句は作者そのものなんだよ。
 人間を鍛えることが、俳句を鍛えることに他ならない。
 鍛えるなんて言うと難しそうだか、要は遊べばいい。
 遊んで遊んで遊びまくって蓄えた経験が俳句の財産だ。

 断言しよう。面白い奴が面白い俳句を作れるとは限らないが、つまらない
奴は面白い俳句を作れない。

 だからこの本は「俳句塾」ではなく「俳人塾」だと思って読んでもらえる
と嬉しい。
 俳人養成学校だ。戸塚ヨットスクールだよ。
 お前らだけは、いいかげんでやさしい人間であって欲しいと心から願う。

   また馬鹿に生まれてきたし柳の芽 翼

『生き抜くための俳句塾』北大路翼

網口渓太
 岡崎京子さんも北大路翼さんもディープ・プレイ(深い遊び)を体験されてきた方だね。作家本人も魅力に溢れている。というか家のブック・リストの書き手はみんなそうなんだけど。

 ひしめく情報の洪水のなかで、感覚刺激の不協和音のなかに溺れることな
く、みずからの経験を首尾よく整流し、構造化するために、わたしたちがそ
の補助手段として日常行っているささやかな身体行為の類型、それをチクセ
ントミハイは「マイクロフロー活動」と呼んでいる。そしてその一例とし
て、彼はまたひとりのロック・クライマーの証言も引きあいに出している。
ー「登り始めると、記憶は断ち切られたようになるのです。覚えていること
といえば、最後の三〇秒だけ、先のことについて考えられるのは、次の五分
間のことだけです……。ものすごい注意の集中のため、日常の世界のことは
忘れてしまいます」。つまり、彼のいうフロー活動とは、存在の別の可能性
への想像を停止させてしまう操作のことである。何かに集中するとは、別の
何かを深く忘却することなのだ。
 同じような意識の状態を、『遊びと人間』のロジェ・カイヨワはイリンク
ス(=眩暈)と呼んで、次のように規定している。つまりそれは、「身体を
さまざまに翻弄する」ことによって、「一時的に知覚の安定を破壊し、明晰
であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとする」、
一種の催眠術的な効果だというのである。「空中ぶらんこ、空間へ身を投げ
出すこと、あるいは堕落、急速な回転、滑走、スピード、直線運動の加速、
あるいはこれと旋回運動との組合わせ……」、こんなものでもわたしたちの
存在感情はかんたんに動揺してしまうというわけだ。いつも身体で補強して
おかないとすぐにぐらついてしまう「人生」という演技……。人生とは、き
っと最後まで、存在の芯にずしんとくるほどディープなゲームなのだ。

『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』鷲田清一

 今日はこのくらいにして……、それよか次、筆貸してよ。やってみたい、対面文字両手書き。

  

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