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映画『哀れなるものたち』を観て考えたこと


『哀れなるものたち』を鑑賞してきました

美しく不穏で素敵なポスター

成人女性の身体に赤ん坊の脳を移植し、蘇生された人物が、何を感じて、考えて、生きる意味と喜びを見出だしたのか?
その軌跡を余すところなく見せてくれる映画です

冒頭に登場した“彼女”は、美しい顔立ちに似合わぬ乳幼児のような話し方と仕草だったのが、
みるみるうちに成長し、言葉は滑らかに洒落た表現を身につけ、自身の身体の“幸せになるところ”を発見し、それを素直に追究する
行動や行先を制限する産まれた家を離れ、旅をして、様々な人と出会い、見聞きして、親しくなる人も、議論を交わす人も、性行為をする相手も、そして彼女が哀れみを向けた人も、たくさんたくさんいた

彼女の意志も、その身体も、常に自分のもの、自分だけのものなのだ
それは当たり前のはずなのに、意志や言動、身体をどう扱うのか、常に干渉に晒される
それに敢然とベラは否と言い続けた、その揺るがない姿勢が、素晴らしい、こうありたいよなあ、こうやって生きたいよなあって泣けてくる映画でした

ファンタジックなエンタメの中に、強いジェンダー史観やフェミニズムが落とし込まれている作品はいくつかありますが(『バービー』など)
この『哀れなるものたち』では、性差よりももっと強く、自分の意志も身体も、自分だけのもので、それをどう取り扱うかは自分が決めるべき、決めていいんだ! そうでないと、人生つまらんだろう、だって生きているんだから!
そうシンプルに伝えてくれている作品に感じ取れました

彼女、ベラは“死亡した母親の身体にその胎児の脳を移植されて甦った”存在です
つまり、脳と胎児を奪われた女性と、身体を奪われた子供が寄り合わさって産まれた存在でした
産まれた瞬間からいくつもの、自身の意志によらない強奪を受けていた存在なのです
でも、たくさんの見聞と経験を経て、自分自身がベラとして産まれた経緯とそれを伏せられていた事を、怒りながらも許した
そして生を与えてくれた事を、創造主である博士に感謝したのです
そして、まだ母親と胎児の状態であった時の彼女を知る存在が現れて、強く束縛し管理し、身体に干渉をしようとしても、ベラはその相手を見極めた上で拒否を選択した
そして手酷く痛快な報復を、彼に施した
ラストシーンのベラの微笑みの、なんと美しかったことか!

この映画の優れている要素を他に挙げると、
主人公のベラのみならず、その養父にして創造主の博士、博士の助手でベラの婚約者、幽閉されていたベラに駆け落ちを持ちかける弁護士、旅先で出会う老婦人とその友人の青年、娼館の女主人、娼婦仲間の友人、
娼婦として相手をした客、そしてかつての彼女を良く知る男、すべての配役や、その物語への登場のタイミングも台詞も個性的で楽しいです
悪役の憎めなさも吐き気を催す悪辣さもいいです
個人的に好きなのは、船上で出会った老婦人です
ベラが天真爛漫に性行為や自慰行為の話をしても、朗らかに話に乗ってくれる、優しくて面白いご婦人で、ベラがたちまちその婦人と仲良くなって、本を貸してもらったりするところ好きでした
そしてそれを面白く思えないベラの駆け落ちの一時的な恋人の反応も、まあそうなるよな…という納得感です
そして美術の楽しさも凄くて、ベラが身に纏う様々なドレスの形も色合いも個性的でしたし、ベラの身体を作り上げた、ウィレム・デフォー演じる博士が、機械に接続して身体を保全しているところも、その機械のデザインもスチームパンクなガジェットで素敵でした
ベラが世界を見て回る中での、各街の風景も建物のデザインもそれぞれの国らしい個性がありつつ、この映画にしかないワンダーランド感がとても素敵でした
とても広大なセットを建てて撮影がされたそうで、ひたすらそのセットを紹介するメイキング動画とかあったら是非とも見たいです
この記事冒頭に持ってきた映画ポスターもとてもいいですし、別バージョンのポスターが色々あるのも、雰囲気がそれぞれ違うのに、どれもこの映画の世界観を余すところなく伝えてくれています

ベラの意志と、粘着する男
女性の切り取られた頭部に、赤ちゃんの脳

全編を通じて流れている音楽も個性的で、曲だけ聞いていると不気味な不協和音が連なって出来ている、前衛音楽のような曲なんですが、
スクリーンに映る圧倒的なワンダーランドの映像と共にこの曲を聞くと、この映画にしかない世界が溢れて押し寄せるように、見て! 感じて! って訴えられているように見つめてしまうのです
それって、ベラがこの世界を感じたい気持ちのままなんじゃないかと思いました
こちらはSpotifyのサウンドトラックのリンクです

このアルバムジャケットも、また凄くて、
ベラが大胆に顔に塗りつけたようなメイクになってて、彼女の荒っぽい奔放さを表しているように見えますが、それと同時に彼女に影響を与えた(あるいは干渉をした)男たちの姿が、それぞれの色の中に騙し絵のように写りこんでいるんです

そんな、類を見ない個性と面白さに溢れている作品ですが、唯一、惜しい、物足りないと感じたポイントもあって、
ベラは旅の途中で訪れたとある都市で、経済の不平等により亡くなる幼児がいる事に憤り泣くのですが
容貌や性的魅力の不平等もこの世にはあるってことも、実感として知って欲しかったと考えます
ベラ自身は容貌にも性的魅力にも優れている女性で、性行為に不自由しません
自分が望めば叶うし求められる、性行為を金銭に換えられる価値がある
それができない、相手にされない人ってのも居ることを知って欲しかったなあと思います
娼館で働いている時に、館の主からその片鱗に触れる語りを聞くシーンはありますが、この世の中を旅して感じて考えてきたベラなのだから、
自分が性的な事を望んでも拒絶される
性欲を抱くことを疎まれたり蔑みの対象とされる
この世にはそういう境遇の存在もいるし、自身は恵まれているのだと知って欲しかったとも思います
その魅力が、身体への干渉や束縛を引き付けてしまう側面も含めて、知ってくれたら良かった

ところで、
自分自身の身体を、自分の自由に扱い、誰の干渉も受けない、受けたくない! と願う話は、最近他の媒体でも見聞きしていて、それは漫画の『うみべのストーブ』という作品なのですが

この漫画に収録されている作品の中に、妊娠をしている女性がそれをちっとも喜べないし、自分の主体が自分自身でなく、“お母さん”や“妊婦”にさせられていることに、深い閉塞感を抱いて、でもそれを身近な家族や夫に訴えることができない
それを言ったら、赤ちゃんができて幸せを感じていない、赤ちゃんを大切にしていないと思われると悩む…
そんな話があるのです

夫は喜んでくれて
わたしも喜ぶべきかも知れないんですけど
でもどうしても嫌なんです
産まれてから今までずっと
親とかお客さんとか
通りすがりの知らない人が
当たり前みたいな顔して
わたしのからだに干渉する
そのせいで自分の身体が他の人のために
存在しているような気持ちにさせられて
わたしはそれがすごく嫌
こどもを産んでしまったら
わたしの身体はこどものものになって
もう二度と、じぶんのもとに帰ってこない気がするんです
わたしは、わたしの身体をひとり占めしたい
ほかの誰にも、渡したくない

 『うみべのストーブ』収録
【雪を抱く】内の台詞

こちらから【雪を抱く】は閲覧が可能です

(※ 注意  ここからは映画や漫画についての感想から逸脱した、自分の個人的な考えや鬱屈を書き込んでいる文章になっています 閲覧者の方がご不快に感じられる要素が含まれている可能性があります)


【雪を抱く】を読んだ時は、深く深く共感しました
自分は、妊娠出産の経験はありませんが、
身体に同意なく触れられる事や、勝手に品定めされたりすること、
当たり前のように、いつか母親になることを求められたり、それが女の幸せなんだ、みんなそうして産まれてきたし、あなたもそうして産まれて来たんだよ って、言われて、拒絶したい気持ちを否定されたりなどしてきました
妊娠し出産することを、まったく望んでない、いつかしたいともこれっぽっちも思っていないと、交際相手に何度も何度も説明しているにも関わらず、

「いいお母さんになりそうなのになー」

などと言われて避妊を怠られた時は、本気で不快でたまらなくて
いいお母さんになりそうとは何だ
お母さんになりたいと、いつ自分が言った?
お前の子を妊娠したいと、いつ自分が言った?
いいお母さんになりそう で、私を誉めたつもりなのか? 喜ぶと思ったのか? お前が避妊を面倒くさがってるだけだろう! ふざけんな!
と、鬼のような形相で責め立ててしまった事もありました

また、10歳くらいの頃からの毎月の生理も嫌で嫌でたまりませんでした

「将来お母さんになるための準備だよ」
「大人の女の人になったってことなんだよ」

生理が来た時はそんな説明を受けましたが、自分はお母さんになりたいなんて、これっぽっちも思っていないのに、どうして身体は勝手に母親になる準備をはじめるのだろう
精子を受け入れた結果の受精卵を着床させる血肉の寝床が子宮に作られる、毎月毎月、それを勝手に作られて不要となれば(常に不要だ!)股から血反吐のように流さないといけない、理不尽極まりない
そんな風に、自分の身体の性別や生殖に関する部分が疎ましくてたまりませんでした、しかし結局、

生理の苦しみは、みんな苦労しているし我慢していること
子供を産みたい気持ちを否定するのは、友人にも子どもがいる人がある中で、言うべきではない

そう考えて、子どもを産みたいと全く思わないのに身体が勝手に毎月母親になる準備をしている事が腹立たしいんだと、そんな話はどうせ非難されるだろうと、漏らさないようにしていました
しかし昨年の6月の事なんですが、子宮筋腫の手術を受けました
このnoteで、その手術体験記も記事にしたのですが、どうしても度胸が出なくて、書けなかったことがあります
それは、子宮筋腫の手術をして、子宮を失うことができて嬉しい! ということです
子宮は残す手術をすることも可能だったけど、迷わずリスクのより少ない、再発の危険も無くなる子宮も除去する選択ができたんです
だからもう、生理は来ないし妊娠をする可能性もゼロになった、それに心から嬉しくて、ほっとしました
周りの人からは、それを残念がったり、子宮を失ったことを(女性の大切なものを失った)ととらえて、傷ついていないかと気遣いを受けることもありました
そうした気遣いをしてくれるありがたい方へは、自分の内心を何もかも説明する必要はなかろうと、それなりに神妙な顔をして対応するに留めましたが、本当はここまで書いたような事をぶちまけた上で

いや~自分は幸せになったよ!
ずっと子宮を捨てたかったんだよ!
やっと願いが叶ったんだよ!
もう生理もないし、子どもを産みたくないと否定する気持ちの、後ろめたさに悩まなくていい!

そう訴えたかったです
でもそれは出来なかったので、ひとりで大喜びしていました
でも、この度『哀れなるものたち』を観ていて、
自分は自分の身体をこうしたいんです、したかったんですって、素直に言ってみたいなあと思ったので、映画感想にかこつけて書いてみました
かこつけて書いた部分が長いですが、ここまでもし読んで下さった方は、ありがとうございます
ご不快に感じられていたら、申し訳ありません

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