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豪雪の山里から ~ 突然降りてきた決心

こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

さて今日は、30年勤めた製薬業界で、そこそこにうまくいっていた自分が、脱サラを決断したきっかけについて書いていこうと思います。

それは2016年の秋のこと。朝の通勤途中、最寄りのJR水道橋駅から会社のビル(32階建ての黒いビルで首都高から見ると、まるで墓石…と悪口叩いていた)に向かっている時に、なぜか突然「もう会社勤めは十分かも」っていう想いが上から降りてきて、その想いにすっと腹落ちしてしまったのです。
当時、何か悩んでいた訳でも事件があった訳でもなく、それは文字どおり「降りてきた」という表現がしっくりくるくらい、自身にとっても思いも寄らないできごとでした。

でも、後で考えてみると、そんな想いに至る小さな石ころみたいなできごと(心のひっかかりみたいなもの)にいくつか思い当たりました。
それらの石ころが積み重なっていって、噴き出したのがあの朝だったのかな?と思っています。
その石ころというのは…。


きっかけの石ころ

会社勤めのこと

大卒後に成り行きで入った製薬業界。3社に亘って約30年間勤めましたが、ずっと新薬開発の一翼を担う仕事をしていました。周りは皆さん高学歴のエリートばかりで、自分では大して秀でたものがないと思うのですが、時機と上司に恵まれて最終的には何十人もの部下を任されるような役につくところまでいきました。外資系だったので待遇は世間的に見てとても恵まれていたと思います。
最後に勤めた3社めの会社は「患者思考」をポリシーに掲げる素敵な欧州系企業でしたが、米国資本のメガカンパニー傘下に入ったことで年々そのカラーは変化し、グローバル化やビジネス色が強く現れ、「患者思考」は都合の良いフレーズとして利用されるようになりました。患者が新薬を待ち望んでいるんだからという理屈で、より高い効率とスピードをもって成果を求められ、自分の部下も含め、残念ながら健康を害してしまう人が何人もいました。
新薬開発は病に苦しむ患者を助けるという使命をもった仕事で、確かにやりがいはありました。だから若くてやる気のある社員は、時に一所懸命やりすぎてしまいます。その仕事で心を病んで家族も含め人生狂ってしまっては元も子もないのですが。
それと企業の売上は患者や保健から出ているのに、会社は多額の利益を得て、社員も他の業界からみると垂涎ものの給与を得ていてもまだ足りないと言うし、果たしてそれが人として正しい道なのかな?という疑念が頭から離れませんでした。
結局、部下をもって指導監督する立場になると、そういった矛盾の中で自分自身を納得させることが難しくなっていったのだと思います。自分自身にもっと確固たる使命感があれば良かったのかもしれませんが…

震災で突き付けられた自分

東日本大震災が起きた時は、15階にある会社の会議室にいました。高層ビルは左右に大きく撓って揺れて隣のビルにぶつかる?と恐れるほど。窓からは湾岸のコンビナートが爆発炎上する光景があって、「とうとう東京の終末が来たのか?」と思ったのを覚えています。
地震後は、東日本の病院で実施中だった新薬の臨床試験が、震災の影響でとん挫しないようにフォローしたり、社員やそのご家族の状況確認したりと、それなりに忙しく会社の業務をこなしていましたが、東北では日々一刻一刻と生きるか死ぬかの大変な状況が続いていました。
そんな中、炊き出しをするために車に食材詰め込んで被災地に飛んでいく人たちの話を見聞きしたりすると、自分にも何かできることはないのか?と思うけれど、何ができる訳でもなく、ただ日々の仕事をしながら義援金を寄付したりする程度。ほんとに自分の無力さ無能さを突き付けられる感じがしていました。
他人が一大事の時に何を置いてもすぐ行動を起こせる人たちと、頭の中で計算ばかりしていざと言うときに逡巡して動けない自分。人として完全に負けた気がしました。

兄へのコンプレックス

自分は3人兄弟の末っ子で、二人の兄貴がいます。上の兄貴は、高卒の後は専門学校に通って和食の調理師免許を取り、一時は都内の料亭にも勤めていました。そして下の兄貴は、高卒後は地元の木工会社に就職して、後に独立して今は宮大工として働いています。
一方、自分は大学まで出させてもらったけれど、これといってやりたいこともなく、流れで製薬会社に就職しただけ。仕事柄、パソコン使ってメール打ったり書類作ったりは難なくできるけれど、ただそれだけのこと。業界を離れたら潰しが効きません。
それぞれ手に職をもった兄貴たちと比べてしまうと、自分の人生ショボいなぁという小さな劣等感が心にありました。

年齢的なこと

若いころから、なぜだか「人生50年も生きれば十分」という想いがありました(信長かよ?)。でも実際には、気づいたら健康に50歳を迎えてしまったので、じゃあ残りの人生は「おまけ」みたいなものなんだから、ずっと安定のサラリーマン生活を続けるより、もっと大胆に違う生き方をしても良いかもという、漠とした想いがありました。
そして、それまで会社以外の世界(地域とか)にはほとんど関わりを持たずにきたけれど、会社勤めで過分な評価と報酬をいただいたので、この先死ぬまでの間には何らかの形で社会に還元できたら良いなぁと考えていました。
50歳というのは、新卒入社から30年経ったけど、男性の平均寿命が約80歳だから、人生はまだ残り30年あって、社会人としてはちょうど折り返し地点にあたるのです(「人生100年時代」を信じるなら人生の折り返しか?)。
新しいことを始めるのにも、定年まで働いてからと考える方が多いと思いますが、少なくとも自分の場合は、65歳にもなったらきっとやる気も体力も失せて結局は何もしないで終わると容易に想像できました。だから行動を起こすなら早いうちが良いと。
この辺りは、前からずっと考えていた訳ではなく、実はちょっと後付けに近い理屈になるのですが、自分の決断とタイミングを、自身の中で正当化させるのに都合の良い理屈となりました。

英会話講師に与えられた強烈なインパクト

退職を決める前、会社の命で英会話を学びに新宿の英会話教室に通っていました。そこでの出会いが最も大きなインパクトを与えました。
そこで会ったのは、南アフリカ出身でかつて大使館に勤めていたという高齢で恰幅の良い講師の方でした。その方は英語教材を使うだけでなく、様々なトピックスを題材にして説明や意見を求めてこられました。単に正しい英語を話すというだけでなく、自分の言葉で説明し意見を述べるという応用力を鍛えようとされていたのだと思います。そんな中で特にショックを受けたのは、「なぜ日本は第一次世界大戦に突入せざるを得なくなったのか分かるか?」という質問でした。そんなこと学校で習ってないし(笑)、何も答えられず固まってしまいました。結局、日本の歴史を外国の方から教えてもらい、恥ずかしい思いをしました。
かたや、世間ではインバウンドが注目され始めた頃で、日本人が誰も知らないような田舎町へ外国人観光客が訪れてSNSで魅力を発信して話題になると、釣られて日本人もどっと集まるという現象が起きていました。
日本人なのに日本のことを知らないというのは、なんとも恥ずべきことなのでは?と思い、自分も日本のこと(廃れつつある地方の産業や文化、四季を通じた暮らしなど)をもっと知るべきという気がしていました。
それからまた別の日、くだんの英語講師が朝、入室して来るやいなや「日本人は満員電車の中でも無表情で声も出さずスマホいじるか寝てるか…あなたたちは幸せなのか?」と聞いてきました。これにも即答できませんでした。決して不幸せではないけれど、胸を張って「幸せだ」と言えるほどでもない。そんな可もなく不可もない感じで会社に通う日々でした。会社で成果をあげることよりも高い給料を得ることよりも何より大切なのは「幸せに生きる」ことではないのか?と突き付けられた感じがしました。至極あたり前のことですが。何をもって幸せと言うのかは千差万別ですが、自分自身の中にその軸があるのと無いのとでは生き方が変わってくると思えました。


そして最後に

会社に向かう道すがら、思い付きのように退職への想いなが降りてきた自分ですが、当日、たまたま上司との面談があったので、正直な思いを相談してみると「組織的には大変だけど、個人的には新たなチャレンジを応援したい」と背中を押してもらえました(本当はもっと慰留されるかと思ったのですが)。
さらに帰宅後、妻に会社辞めたいんだという話をすると「まあそれも良いんじゃない」とこちらも予想外に猛反対されることなく、肩透かしにあったような感じで、後は自分が前進するだけの状況になってしまったのでした。
あの時、仮にどちらかに反対されていたら、きっと気持ちは萎えてしまっていたかもしれません。そういう意味では周りの理解者の存在というのが、後ろ盾になるのだと思います。お二人と良い刺激を与えてくれた英会話講師の方には今も感謝しています。


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