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「笑わない数学者」森博嗣 感想

ネタばれ。

ネタばれ。

ネタバレ!

曖昧にはしているけれども、本質的には御法度系のネタバレである。


逆トリックと検索すると考察が出てきていますが、あと一歩で間違っているものが多いと思います。何故か?という点について書いています。







タイトルである。

日本語タイトルは、笑わない数学者
英語タイトルは、Mathematical Goodbyeである。

いつものことながらタイトルは重要であるが、後述とする。

まず考えたいのは巻頭引用文である。
引用文は、以下のとおりである。

私は人々が宗教的信仰を欲するような具合に確実性を欲した。確実性は他のどこよりも数学の中に見出されそうであった。しかし、私の教師たちが私に受け入れさせようとした多くの数学的証明は誤謬に満ちていること、そしてもし数学の中に実際に確実性が見いだされうるならば、それはこれまで確実であると思われてきたものよりも堅固な基礎を持つ数学の新しい分野においてであろうということを発見した。しかし仕事が進むにつれて私は象と亀の寓話を絶えず思い出す羽目となった。数学的世界を乗せる象を作り上げると、私はその象がよろめくのを見いだし、その象が倒れないように保つ亀を作ることにとりかかった。しかしその亀も象と同じく安定ではなかった。そして20年にもわたる非常な労力のあとで、私は数学的知識を疑う余地のないものにすることで自分にできることはもう何もないという結論に達した。
(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

「笑わない数学者」森博嗣より引用。「笑わない数学者」森博嗣より引用。
さらなる出典は引用元の通り。
太字は筆者。本記事以下の引用でも同様。

数学者バートランドラッセルによる数学の基礎付けに関する文章である。
氏の自伝的エッセイからの引用である。
(同著作の中で氏は数学者よりabstract philosopherをどちらかと自称しているが、本作と合わせた。まぁ、関係ない。)

毎度のことながら乱暴に要約するのであれば、

確実性を求め、象を作り亀を作ったが、それらは安定でなく、もはや何もできることはない。

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

ということになる。

これが、本作のテーマである訳だ。

ラッセルは19世紀末から20世紀に起こった数学のより厳密な定式化、基礎づけに大いに貢献した。

現在?の数学は論理、集合、連続公理などを基礎としているが、それらの点においてラッセルの仕事がある。

例えばあるパラドクスが知られている。

ラッセルのパラドックス: Russell's paradox)とは、素朴集合論において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると矛盾が導かれるというパラドックス

Wikipedia

こう言うとやや難しいわけだが、床屋のひげは誰が剃るのか(これだけでは意味不明か)だとか例外のない規則はないという規則だとかであれば良く知られた話であろう。(もはや間違いレベルに乱暴かもしれない。知りたい方はググってください。)

相変わらずの乱暴さでいえば、自己言及するとややこしくなる、と言うことだ。(こちらは、もはや厳密には間違いレベル。しかし重要な点ではあります。あ、作品とは関係ないです。)

では、どうしたら良いのか?
(数学の話です)

一つは

公理的集合論ではまず集合論を形式化する。次にいかなる形の集合が存在するかを公理によって規定する。

Wikipeida

という公理的集合論という方向がある。
つかえる公理(前提となる体系)をうまく定めることで回避する事が出来るというものだ。

乱暴だが、使って良い論理体系(のようなもの)の中に上記で矛盾が発生するものを非常に丁寧に排除している、とでも言えばよいか。

まぁ、そんなことはどうでも良くて。

本作で重要なのは、集合論というのは数学の基礎付けに関わっているということだ。すなわち、この引用文であるテーマと関連している。

作中に”集合論”や”論理”が出てきたら注意しなくてはならない。

メタ的に意味があるのである。

もっと言えば、
普通の集合論では矛盾を導いてしまうこの公理であるが、名を

axiom schema of comprehension
内包
公理

という。

本作で内と外とという構造が繰り返されるのには、ここにも理由があるだろう。



さて、この矛盾を避けるには他にも方法がある。

人の髭を剃る人である「床屋」や規則について定める”規則”は一段だけ特別扱いする。
というのがもう一つである。

これを階層的に設定することができる。

普通の人のひげを剃る人間を床屋1と呼ぶ。
床屋1のひげを剃る人間を床屋2と呼ぶ。
床屋2のひげを・・・

通常の規則規則1と呼ぶ。
規則1について定めた規則を規則2と呼ぶ。
規則2について・・・

などとすることである。

このような方法を(単純)型理論という。
(またしても、間違い並みの乱暴さと単純さだが)

こちらもラッセルの仕事からの直接的発展であろう。

数学的世界を乗せる象を作り上げると、私はその象がよろめくのを見いだし、その象が倒れないように保つ亀を作ることにとりかかった。しかしその亀も象と同じく安定ではなかった。

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

という点が、この階層構造をやはり想起させる。
(完全な対応では無さそうではあるものの。とはいえラッセルの仕事であるわけだから、元の文としては当然である。)

作品世界と我々読者とにはこの様な階層がある。

まぁ、これは数学を出すまでもなく当然である。
メタってやつである。

さて、引用の冒頭に戻る。

私は人々が宗教的信仰を欲するような具合に確実性を欲した。確実性は他のどこよりも数学の中に見出されそうであった。---

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

これ(””)は本作においては誰のことであるのか。

引用文では、バートランドラッセルである(当たり前だけど。もしかすれば、数学者(哲学者)ではあるかもしれないが。)

主人公たる犀川先生だろうか。

もちろん「我々読者」もであろう。

何の確実性を欲しているのだろうか。
(最大の謎の、だ。)

そして、その結論はどうなるのだろうか?

疑う余地のないものにすることで自分にできることはもう何もないという結論に達した。

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

そう。
出来ることはもう何もないのである。

冒頭引用文がそれを既に指定している。

そして、他愛のない諺に関するセリフ。
数学パズル、トリック。
すべて同じ方向を向いて差配されている。

ある人物に関する本当の問に対して。

しかし、単にそれだけが答えなのか?
一足飛びにそこまで行って良いのか?

単なる「不定」なのか?

違う。


象と亀と表されたように、型理論のように、

我々と本作にも階層構造が存在している。

それを具体的に見出す必要がある。

一体どのような階層構造であるのか?
そして特に

何がその階層構造として使えるのか?

である。


主人公の犀川の作中の”定義”はまさに

---犀川が」世界を乗せる象を作り上げると、はその象がよろめくのを見いだし---

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)
打消し線部分は筆者

という事ではないのか。

つまり、「私」

--- その象が倒れないように保つ亀を作ることにとりかか --

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

る必要がある。

これには階層構造を用いる。

つまり、質問はこうだ。

本作の階層構造に注目して与えられる
"亀"とは具体的に何であるのか?

考えて欲しい。

適切ではっきりとした解答が与えられる。

(最大の謎は作中事件のトリックではなく人物に関するものである。これはいわゆる逆トリックという奴らしい。これは作者本人の言でもあると言う。つまり、事件のトリックや犯人が重要でない、という意味で使われたという解釈がされている訳だ。しかし、それは毎度のことではないか?読者だけに解けるというのは古いものであるし、本シリーズでも特別ではない。つまり、ここの解答まではある程度有名なようだ。しかし・・・)





我々は”亀”を特定した。

しかし、これで最大の謎に安定した解が得られるのか?

そうではない。

そう。ここで止まってしまっては、

しかしその亀も象と同じく安定ではなかった

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

というところまで、たどり着けない。
(つまり、ここからが本当の逆トリックであって、ここまでは”順”トリックであろう。まだ作者の術中に嵌っているのだ。)

そう。傲慢に言えば結果的に

私の教師たちが私に受け入れさせようとした多くの数学的証明は誤謬に満ち

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

ている、という事が本作の謎に対する”証明”として実際に起きている。
(なんでも喩えられてしまうな。これは、ある種の偶然である。
・・・が狙っていた効果ではあるだろう。これが逆トリックだろう。)





さて、そこで適用されるべき論理体系はどのようなものであるのだろうか。

作中序盤にて、西之園君と犀川先生は語らう。

とある格言についてだ。

「それ、同じじゃありませんか?」
違うね。これも集合論だ。ド・モルガンの法則かな」

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

そう。

集合論。

数学の基礎付けに関連している。

すなわち本作のテーマに関連している。

具体的には?

そう。

ド・モルガンの法則である。

これは、中学か高校かでやると思うが

任意の命題 P , Q ∈ { ⊥ , ⊤ } に対して
¬ ( P ∨ Q ) = ¬ P ∧ ¬ Q ,
¬ ( P ∧ Q ) = ¬ P ∨ ¬ Q
が成り立つ。

Wikipedia

というものである。(これは、真偽値に関する取り決めから基本的に定まる。つまり。ある意味では証明されるような法則ではない。)

上の記号では分かりにくいかもしれないので念のために補足すると

¬はnot記号であり否定「でない」である。
∧はand記号であり、「かつ」、集合の∩記号みたいなもんである。
∨はorであり、「または」、集合の∪記号みたいなもんである。

ということだ。

乱暴に言えば、掛け算の分配法則みたいな奴がnotでも成立して上の様に処理できるみたいなものだ。(かつまたはになって、でないは分配される)

あるいは、逆と対偶との違い、みたいなものだ。対偶の真偽は一致するが逆はそうではない、という奴だ。
ならば、をどう定式化するか、という点がやや中学や高校数学では珍しいところかもしれない。まぁ、置いておく。)

「人間ならば動物である」と「動物でないならば人間でない」

とは一致するが、「動物ならば人間である」ということはない。




長々説明したが、思い出してほしい。

この論理体系を「どこに」適用するのか?

それを議論していたのである。
(冗長すぎですね。スイマセン)



そう。



さてさて。

階層をつなぐ要素は何であろうか。

我々が見ている世界犀川たちの世界とには隔たり・階層がある。
(そのおかげである種の基礎づけができるのである。我々は上にいる。)

しかし、2つの世界には同時に適用可能・共有可能な要素が常に存在している。

論理体系は上述の通り明示的に与えられたが、

事実となる要素。

すなわち
我々の世界犀川たちの世界とで

共有の真偽が与えられた命題P

が必要である。
どのような論を展開するのにしても。である。

安直な例を言えば、「犀川は人間である」とか「犀川はN大教員である」とかである。これは命題Pと同じ類、作中と我々とで真偽を共有できる。



すると、適用する「先」は2つの命題に分解できることに気づく。

片方は明白な真偽が与えられた命題Pであり、もう一方は作中で明白な真偽の与えられていない命題Qである。

だからこそ、諺に対するド・モルガンの様に厳密に区別することが必要であり、それにより本作の基礎づけについて

疑う余地のないものにすることで自分にできることはもう何もないという結論

「笑わない数学者」森博嗣(Portraits from Memory/Bertrand Russell)

に到達するのである。


階層的に異なる視点から。
(すなわち読者の視点で)

指定された論理形式で。
(すなわち厳密な論理を用いて)
(ことわざに対するド・モルガンの法則の様に)

「真偽共通の命題P⋀真偽不明の命題(¬)Q」と
(すなわちあなたの目の前にある命題と)
(本を開くまでもなく)

ある人物と
(すなわち天王寺翔蔵と)

関係を基礎づけようとする事によって。


そして、数学者である森毅先生のあとがきが来るのである。
(日本の数学書って良い意味でコンパクトなんですよね。短い文章得意なんでしょう。あのぐらいのネタバレ感が良いですよね。本当は。反省してます。見習いたい。命題PとQとが分かったうえで、講談社文庫のあとがき、本当にこちらもよくよく読んでほしい。名文だと思います。”実存する”数学者について書かれていますからね。このあとがきは付いているほうが本当に良い。私のコレとは比較にならない。あとがきは読まないという人もいるのでしょうけれども。)

(本作は、数学背景について知っているほうが良いかもしれないですが、作品で十分表現されていると思います。事前のコンテクストの問題ではない。)



ここで言った

命題P、命題Qは曖昧模糊としたモノではない。
明白に短く答えられる。

以上である。





ところで、天王寺翔蔵は

「解析数学概論」

という書籍を著している様である。


こちらの世界でいえば、

「解析概論」

という高木貞治氏による名著がある。



すなわち、作中世界には

高木貞治氏による「解析概論」は存在しない

かもしれない。
(ただ、1万2千円もしない(西之園さんが言及)のと、30年ぐらいタイミングがズレそうなのと、で何か想定の本は違うのかもしれない)

ちょこちょこ分岐した世界の様子である。
(当たり前か)
(しかし、例えば横溝正史は存在する(同シリーズの「封印再度」参照)し夢野久作も存在する。もちろん、どうでもよいのだが)

こういう推論が適用できる構造が存在している
(乱暴すぎるか)


話を戻そう。


しかし、基礎づけに限界があるからといって、ある定義から意味のあるものが生まれない、ということを意味しない。(数学が何も生まないなんてことはないでしょう?)
それがきっと

「君が決めるんだ」

「笑わない数学者」森博嗣

ということの意味だ。

そう。我々が決めて良い。
ただし、基礎づけには限界がある。

ここまで本作は表現されている。

単に不定であるのとは、少し、ただし、明白に、異なっている。
(つまり、もっともらしく読み込むことが出来るパターンが存在する。そして、その様に読むことに意味はある。(上に、どうも本作結構難しい気がする。)のだが、巻頭引用文を踏まえ、逆トリックとわざわざ作者が言う以上、その更に上に作者の狙いは恐らく存在する。だからこそ、不定である、とか、定義しろ、とか一見むちゃくちゃなことを言われるのである。どっちやねん。というのが自然な反応だ。しかし、ここまで来ればどちらも必要であることが分かる。)



既に十分に述べたのだが、もう一度「タイトル」について”後述”しよう。

記述理論

記述理論(Theory of Description)は指示対象が存在しない「現代のフランス王」や「ペガサス」といった語句を解釈する際に、フレーゲのようにそのような語句を含んだ文を無意味としたり、それら非存在者の指示対象としてなんらかの概念の「存在」を仮定することなしに、解釈を可能とするためにラッセルが発見した手法である。1905年の『表示について』で初めて発表された。

記述理論とは、以下のような手法である。

「現代のフランスの王ははげである」

という文章の意味を考える場合、この文を、

あるものが存在しそのものは一つであり、フランスの王であり、かつはげである」

と翻訳する。すると、実在しない「現代のフランスの王」が示す指示対象として存在者をなんら仮定することなく有意味に文を解釈でき、その真偽を確定できる。

Wikipedia
太字は筆者
ところで上記の内容に関して本作に適用するための感覚的理解でなく
もう少し正しく理解したいという方には
Theory of descriptionsという英語のWikipediaの記事の方を参照することをお勧めします。
この説明ではちょっと理解できない。
真剣に考え始めて、ん?となった方は是非。
もちろん本作に適用する意味でも助けにはなります。

という訳である。
本作のタイトル、森毅先生のあとがき、共に腑に落ちたのではないか。
(コメントお待ちしております。)




いずれにしても、

「不定だ」

と作中全体に渡り言われて、いくら作中世界の人物の戯言であれども

我々は容易に定義できる

という事にはならないのである。

(しかし、それでも嵌ることがあるのは確かにトリックが容易に解けるからかもしれない。しかし、”逆”トリック、だ。この名前の由来も、違う理由でもはや答えられるであろう。僕がこの記事で”逆”と使ったのはこれ以外の用途でもう一つある。普通に考えれば、こちらであろう。それか森博嗣氏得意のダブルミーニングだろう。
対となる表現でも考えてみて欲しい。”○○”トゥルース、なんかどうだろうか。(漢字二字)。なんかオードリーの春日のギャグみたいだけど。)


しかし、突き詰めれば

印象で読もうと、論理で読もうと、たどり着くところは同じである。

これは、優秀な表現の特徴ではあるが。

殊更に。
そこに、森博嗣氏の真骨頂がある。

そう思う。

(そして、このような説明は蛇足でしかないのである)




ほんとに読んだのかよ、っていうぐらい引用文にだけフォーカスした感想になってしまった・・・。



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