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【祝!本屋大賞ノミネート】青山美智子著『リカバリー・カバヒコ』|第1話特別公開

青山美智子さん『リカバリー・カバヒコ』が本屋大賞にノミネート!
ノミネートを記念して第1話「奏斗の頭」をnote限定で特別公開します。カバヒコの癒しをご堪能ください!

第1話 奏斗の頭

 
 6を、8にした。
 1を、9にした。

 世界が変わった。ほんの数秒で。
 僕は赤い水性ペンのキャップをしめる。

 61点だった英語のテストは、これで89点になった。
 こうやって現実を書き換えて、こっちのほうが本当の僕にふさわしい気がした。だからいいんだと自分に言い聞かせる。

 だって僕は、こんなバカのはずがない。

 去年、中学三年生の夏に父さんが「家を買うことにした」と言った。
「新築マンションだぞ。奏斗かなとうれしいだろ」
 夕食時にそう笑う父さんはいつもよりも声がちょっと高くて、とても誇らしげだった。ビールの泡が、唇のはしにくっついていた。マイホームを持つというのが、長年社宅住まいを続けてきた父さんの夢だったのだ。
 それまで住んでいた家から電車で一時間ほどの、都心寄りの駅名を父さんは告げた。電機メーカーの工場が取り壊されて、跡地に新しく五階建てのマンションが建設されることになったと母さんが補足した。
 父さんと母さんが決めてきたというその部屋は一階で、マンションでありながら庭があるというのもポイントだったらしい。ガーデニング好きの父さんにとって土いじりができることは必須条件で、中古の戸建てを探していたところにこの物件と出合ったのだという。駅からも近いし、周辺はスーパーや飲食店が充実しているし、予算も立地も希望にかなっていて言うことなしだとふたりは喜んでいた。

 アドヴァンス・ヒル。そんな仰々ぎょうぎょうしい名前の新築マンションは三月に完成予定で、僕は中学卒業と同時に引っ越すことになった。
 それまで僕は、郊外にあるのんびりした街の公立中学に通っていた。そして自分で言うのもなんだけど、優等生だった。
 中学生活はゆるかった。ぬるかった。正直、たいして勉強した覚えはない。授業をちゃんと聞いてさえいれば、テスト前に教科書をめくると、だいたいここが出るだろうな、というのがなんとなくわかった。与えられたプリント課題をちゃんと提出していれば、通知表には5が並んだ。
 授業中、小さな紙きれに何やらこそこそ書いて交換したり、だらしなく眠ったりしているやつらを見ると、どうして彼らが僕に対して「頭がいい」なんて羨望せんぼうやら嫉妬しっとやらしてくるのかわからなかった。おまえら、成績悪くたってあたりまえじゃんか。
 都心近くに引っ越すことになったのも後押しして、僕は都内の進学校を受験することに決めた。
 この学校を受験した生徒は、僕と同じ中学にはひとりもいない。面談で担任の先生が「奏斗君なら推薦でいける」と言ってくれたときの、母さんの満足そうな笑みを見て僕も嬉しかった。
 そして僕は推薦入試になんなく合格し、年内に早々と受験から解放された。

 小学校から通っていた塾をやめ、年末年始は漫画を読んだりゲーム三昧で過ごした。父さんも母さんも、僕がどれだけ遊んでいようが何も言わず、ふたりで楽しそうにカーテンや家具を見に行ったりしていた。
 卒業が近くなると担任の先生が僕に「みんなと離れちゃうのはさびしいな」と言った。でも、そのことについて僕は何も感じなかった。適当に仲良くしてるふうなクラスメイトはいたけど、心を開けるような友達は僕にはいなかったように思う。なんとなく身の置き場がないというか、「話せる」ヤツとは出会えなかった。
 離れてさびしいなんて思うことも、誰かに思われることもきっとなくて、だからどちらかというとさっぱりした気分だったのだ。
 新しい家、新しい生活。僕は希望を胸に高校に入学した。やっと話の合う、僕にぴったりの友達ができるに違いないと思った。

 だけど、新学期が始まってすぐ、僕はどこにも分類されないことを知った。
 ルックスが良くてキラキラした連中とは交われず、やたら理屈っぽい声の大きなやからには近寄りがたく、無言で参考書と首っぴきのガリ勉とも話しづらくて、ここでもやっぱり僕は身の置き場を見つけることができなかった。これなら、中学時代ののほほんとしたクラスメイトのほうがまだ話せたような気がする。
 そして何よりも……中間テストを受けて、大打撃を受けた。
 まず、問題の数が多い。時間内に全部解けない教科もあった。出題傾向もずいぶんとひねられていたし、さらに、授業ではやらなかったような内容も出たのだ。先生いわく「一般教養として知っておくべきこと」も含まれていたとかで、なんなんだ、それは。

 テスト明けの授業で返された答案用紙はことごとく低得点で、僕のプライドはズタズタだった。そして数日後、すべての点数と個人順位が書かれた成績表の細い紙きれを渡されて愕然がくぜんとした。
 四十二人中、三十五位。
 今まで、一桁の……それもおおよそ三までの数字しか受け取ったことがなかったので、本当にびっくりした。こんなの、初めて見た。
 おかしい、僕がこんなにバカのわけがない。
 こんなもの、母さんには見せられなかった。しらばっくれていたらさすがに「テスト、どうだったの」とかれたので、やむなく答案用紙だけまとめてばばっと見せた。順位のついた成績表をもらっていることは、言わなければきっとわからない。
 答案用紙の点数を見た母さんの眉間みけんしわは深く深く刻まれ、僕はその溝に落っこちてしまいそうで、あわててこう言った。
「平均点が低いんだよ」
 母さんの皺が若干、浅くなった。
「すごく難しくてさ。みんなヒーヒー言ってた」
 うそだった。平均点をかろうじて上回ったのは得意の英語だけで、他の教科はほとんど届かなかったのだ。
「初回はそんなもんだよなあ!」
 父さんがとりなすように言った。そしてホームセンターで買ってきたという肥料の話を持ち出してくれたおかげで、母さんは僕に答案用紙を戻し、父さんと話し始めた。
 父さんは僕を救出してくれたというより、たぶんどうでもいいのだ。昔から、僕の成績のことに……というより僕にはあまり関心がなさそうで、いつもにこにこしているけど特に褒めてくれるわけでもない。ただ、話をそらしてくれてとりあえず助かった。
 期末テストでがんばればいい、なんて思っていたけど、それから僕は、すっかりやる気をなくしてしまった。
 えらいところに来てしまった。もう圧倒的にみんなと差がついていて、今さら追いつくのは無理だろう。中学の頃みたいに、授業さえ聞いていればいいというわけではなさそうだった。
 もっとも授業にしたところで、レベルの違いを感じていた。進むスピードが速いし、先生に指名されても僕には答えられないことが多かった。口をつぐんでいる僕にしびれを切らした先生が、次の生徒を当てる。その子がさらっと正解を言ったりすると、僕は本当に消えたくなった。

 そんな気持ちで勉強に身が入らないまま、一昨日おととい、期末テストを終えた。
 僕は頭を抱える。中間テストよりもできなかったと思う。自分以外がみんな天才に見える。みんな余裕の顔してる。
 また順位のついた成績表が出るまでの数日を待つのが、受験の合格発表のときよりもこわい。
 昨日、英語の授業で返ってきた答案用紙。
 61点。平均点は62点だった。唯一の得意科目でとうとう平均点を超えられなかったのだ。驚愕や落胆というよりも呆然ぼうぜんとしてしまい、体が固く動かなかった。
 帰宅してすぐ、母さんに「テストって、いつ返ってくるの?」と言われてうろたえた。中間テストのときにいつまでも見せないでいたから、今回は先に催促してきたのだろう。

 それで僕は、自分の部屋で赤ペンを手に取ったのだ。
 6を、8にした。
 1を、9にした。
「英語だけ返ってきた」と言って、点数のところだけパッと見せた。
 89点の答案用紙。
「平均点は62点だったよ」
 はっきりとそう告げる。それは噓じゃないから堂々とした声が出た。
 母さんは目を細めて言った。
「やっぱりすごいわねえ、奏斗は! がんばったね」
「うん、まあ」
 そう答えながら、苦い薬を飲んだときみたいに、口の中がしびれていた。
 僕は心で叫んでいる。どうして、どうして?
 どうして僕は、バカになっちゃったんだ……?


 学校からマンションの最寄り駅に着くと、そのまま家に帰る気になれなくて、ちょっと遠回りした。
 大通りからそれて裏道を通ると、住宅街に入り込んだ。家々が立ち並ぶ中、年季の入った一軒家の一階に小さな店があった。赤いひさしに「サンライズ・クリーニング」という文字が白抜きされている。店の前にはドリンクの自動販売機があり、ガラス張りの店の中では蛍光灯がびかびかと光っていた。
 その先を進んでいくと、団地の群れが僕を迎えた。古びたベージュの建物にはそれぞれ、大きく数字が張り付いている。もう夕方だというのに、ベランダの手すりにはいくつか、まだ取り込まれていない布団がかけられていた。
 細い遊歩道を進んでいくと、団地に囲まれるようにして小さな公園が見えた。入口には「公園」とられた灰色の石板がある。
 砂利じゃりが敷かれた園内には、狭いながらもいかにも公園らしいアイテムが設置されていた。ブランコ、すべり台、砂場、ベンチ。
 僕の他には誰もいない。ベンチで少し休もうかと思って入っていくと、すみっこにいる動物っぽい姿に気づいた。

 カバだった。それも、ぽつんと一頭だけ。

 ただ乗るだけの、よくあるアニマルライドだ。茶色に近いようなくすんだオレンジ色で、それもところどころ塗料がげている。地のコンクリートがむき出しになってまだらな灰色になっていたが、カバなので違和感はない。
 楕円だえんの大きな瞳はちょっと上目遣いで、黒目も部分的に剝げているせいでなんだか漫画みたいな涙目に見えた。口がにいっと横に大きく広がり、端っこが上がっている。上向きの鼻は盛り上がった丘のてっぺんに離れて鎮座し、なんとも間の抜けた、あきれるほどのんきな表情だった。
 近づいてよく見ると、後頭部に太い黒のマジックで「バカ」と落書きされている。カバだからバカって、安直な悪口。乱暴な書きなぐりに心が痛む。
 なのにそのカバは、バカって書かれてるのに笑ってる。後頭部だから自分では見えないのかな。そんなふうに言われてるって、知らないのかな。
 僕はなんだかせつなくなってきて、その「バカ」を指でごしごしとこすった。油性マジックで書かれたであろうその文字は、そんなことぐらいで消えるはずもない。
 リュックからペンケースを出し、消しゴムをかけてみたがやっぱりだめだった。ぼろぼろとカスが生まれるだけで、バカは変わらずしつこくそこに居座っていた。
 そうなると、どうしてもどうしても、この落書きをなんとかしたくなった。バカなんてレッテルを貼られたまま、動けないでいるカバが自分みたいに思えたからだ。
 この塗料と同じような色で上から塗りつぶせばいいんじゃないか、と思いつく。たしか、中学の頃プラモデルに使ったオレンジ色のラッカーが家にあったはずだ。
「明日、持ってきてやるからな」
 僕は声を出して、カバに話しかけた。
 ずんぐりむっくりのカバは、僕を見上げている。涙目のまま、へろっと笑って。


 翌日も、僕は学校が終わると公園に直行した。リュックの中にはオレンジ色のラッカーが入っていた。
 足を踏み入れると、先客がいたのでびっくりした。制服姿の女の子が、勢いよくブランコをいでいる。白いブラウスの胸元に揺れる水色のリボンを見て、僕と同じ高校だと気がついた。
 遠くを見つめながら頬を紅潮させ、わずかにほほえんでいるような表情。その顔に見覚えがある。
 同じクラスの、たしか雫田しずくださんだ。話したことはないし、下の名前も忘れてしまった。でも赤茶色のくせっ毛はなかなか目立ったし、大きくてハスキーな声も特徴的で印象に残っていた。
 引き返そうとしたとき、雫田さんがぱっとこちらを見て、目が合ってしまった。そしてどうしてなのか、わあっと笑った。まるでずっと前から親しくしてるみたいに。
 ちょっとドキッとした。それで僕は立ち去ることができなくなって、ぺこっと小さく会釈だけした。
 雫田さんはゆるやかにブランコを止め、座ったまま言った。
宮原みやはら奏斗じゃん!」
 またドキッとした。フルネーム、ちゃんと覚えていてくれたなんて。
「なんでこんなとこにいるの? え? 家、近所?」
「あ……うん。アドヴァンス・ヒルっていうマンション」
「知ってる知ってる! 高台に新しくできたマンションだよね。そっか、そうなんだ」
 ブランコからひょいっと飛び降りると、雫田さんは僕のほうに向かって歩いてきた。つられて、僕も歩み寄る。
「私、子どもの頃からそこの団地に住んでるの。6号棟」
 彼女の指さした6号棟の建物は、公園に面していた。どう会話すればいいかわからなくて、僕は「ブランコ、好きなの?」と、トンチンカンなことを訊いてしまった。
 雫田さんはまじめな顔で宙を見る。
「うーん、なんていうか、放電と充電? いろいろ、煮詰まっちゃうときがあるからさ」
 放電と充電?
 意味がわからず返答に困っていると、雫田さんは公園の隅に体の向きを変えた。

「カバヒコ~」
 雫田さんは飼っている猫や犬に対するみたいに、そう呼びながらカバに寄っていく。
「カバヒコ?」
 僕が訊くと、雫田さんはうなずいた。
「うん。この子の名前」
 雫田さんは僕のほうに顔を向ける。
「カバヒコってね、すごいんだよ。怪我けがとか病気とか、自分の体の治したい部分と同じところを触ると回復するって言われてるの」
 驚いた。このみすぼらしいカバに、そんなご利益があるなんて。
 すっと人差し指を立て、雫田さんは言った。

「人呼んで、リカバリー・カバヒコ」
「リカバリー?」

「………カバだけに」

 ぼそっと言った雫田さんの声に、僕はハ、と息を吐く。面白かったのではなくて、脱力したのだ。
 雫田さんはのんびりと言った。
「このあたりだけの都市伝説みたいなもんでさ。私も子どもの頃からなんとなく知ってて、サンライズ・クリーニングのおばあちゃんもカバヒコの腰をなでたらヘルニアが治ったって言ってたよ」
 サンライズ・クリーニング。さっき通ってきた、あそこか。
 僕はちょっと公園を見回す。
 日当たりの悪い、夕暮れの公園には誰もいない。僕の怪訝けげんな顔に気づいたのか、雫田さんは首を回す。
「まあ、特に世間で話題になったりしないけどね。しょせん科学的根拠なんかないし、こんな地味な公園のぱっとしないカバだし」
 たしかに、その手の話として知れ渡るには、本体も場所も盛り上がりに欠ける。わざわざここに来ても他に楽しめそうなこともないし。
 でも……いいことを、聞いた。
 僕はバカを治したい。またみんなに「頭いいね」って言われたい。
 雫田さんはカバヒコの前でしゃがんだ。昔からここにいる彼女にとって、カバヒコはなじみ深い存在なのだろう。
「美人になりますように」
 カバヒコの顔をなでながら、雫田さんは言った。
「そういうのにも効くんだ?」
 それは「回復」ではなく「願望」では。そんなことを心に秘めながら僕が言うと、その意を読み取ったのか雫田さんは立ち上がり、手をグーにして叫んだ。
「だって私、小さい頃、すごい可愛かわいかったんだよ。四歳のとき、お母さんと道を歩いていてモデル事務所からスカウトされたくらいなんだから」
「へえ……」
「ほんとだってば! 今、こんなんだけど……」
 雫田さんは唇をとがらせてうつむいた。
 こんなんって。こうしてちゃんと見ると、けっこう可愛いと思うけどな。
 僕が再び心に秘めたその意は、たぶん彼女には読めないままだ。雫田さんはカバヒコの頬をなでまわす。
「顔面修復、たのむよ、カバヒコ!」
 僕も調子を合わせて、カバヒコの頭に手をやる。
「頭脳修復、たのむよ、カバヒコ!」
「ずのう?」
 おかしそうに雫田さんは笑う。空気がやわらかくゆるんで、僕はなんだか、久しぶりにほっとした気持ちになった。
 今までこんがらがっていた糸がするするとほどけていくように、僕はおもいを口にした。
「中学のときはわりと優秀だったんだけどな。中間テストできなくてびっくりした。期末テストも難しかったから、まったく自信ない。地理なんてすごい範囲広かったし」
「地理は私もめっちゃ苦手。ひたすら覚えるの苦しい。私、どっちかっていうと理系なんだよね。入学式の日、担任の矢代やしろ先生が地理って聞いて、うわーって思った」
 顔をしかめながら雫田さんは言う。
 フランクに話ができる同級生がやっと現れた。お互いに「勉強ができない」ってことを分かち合うっていうのは、まあ、僕が理想としていたのとはちょっと違ったけど。
「でも、宮原くんって英語得意じゃん? 発音めちゃくちゃいいし」
 それはそう……そうなんだけど。
「でも僕、こないだの中間テストではクラス順位五位以内にも入れなかったから。中学の頃はわりといつも、一位取れてたんだけど」
 そう言ってしまった瞬間にすぐ、逃げ出したくなるぐらい恥ずかしくなった。
 なんという壮大な見栄みえだ。この言い方って、まるで中間テストが六位とか七位だったみたいなニュアンスだよな。みっともない。雫田さんに対してカッコつけて、過去の栄光にしがみついて、優等生を装って。
 鼻もちならない僕にあきれていないかと身構えたが、雫田さんは気にするふうでもなく、「私なんて十位以内にも入ってないよ!」とカラカラ笑った。
 そしてカバヒコの背に腰かける。スカートから投げ出された足がまぶしくて、僕は目をそらした。
 雫田さんは髪の毛の先をいじりながら、ひとりごとみたいに言った。
「ランキング出すのって、残酷な話だよねえ。クラスの四十二人で一斉に同じことしたら、誰かは四十二番なわけだよね。毎回、絶対にいるんだよ。消せないんだ、その席は」
 三十五位という結果を受け取ったとき。
 僕は少しだけ、思ったのだ。後ろに七人しかいないって。でも、まだ七人はいるんだって。まだビリではないってことに、ちょっとだけ安堵あんどしたのだ。
 でも今度はわからない。その消せない四十二番の席に、僕が座るのかもしれない。
 雫田さんは続ける。
「でも順位なんてさ、いつだって、狭い世界でのことだよ」
 僕はカバヒコの頭のそばに立ったまま、雫田さんを見た。
 いつだって。その言葉がなんだか胸を突く。
「たとえば陸上のオリンピック選手って、それはもう、そこに出てるだけでめっちゃすごいんだけどさ。だけど、ホントのホントに世界一なのかって言ったらわかんないじゃん。電波が届かないくらい人里離れた山奥に住む少年のほうが足速いかもしれないよね」
「それ、どこの国?」
「わかんない、ただのイメージ。でもその少年は、ただ走るのが好きで、大好きで、競争なんてどうでもいいんだよ。称賛なんかされなくても、有名にならなくても」
 僕は雫田さんのイメージに乗っかって、その少年を思い浮かべた。半裸で、裸足はだしで、いつも野山を駆け回っていて。そんなすばしこい少年が、たしかに存在する気がした。
 彼はただただ、走るのだ。
 自分が本当の世界一足が速い人間だなんて知らずに。そもそも、そんなことはまったく求めずに。

 ふと、人気の漫画にそういうキャラがいたのを思い出す。
『ブラック・マンホール』という、アニメ化もされたコミックだ。下水道に住むモンスターの話で、その中に、テラというめちゃくちゃ足の速いキャラが出てくるのだ。彼は誰と競うわけでもなく、無心のままにすごいスピードで走る。
「テラみたいだな。ブラマンの」
「ブラマン? ああ、『ブラック・マンホール』だっけ。テレビでアニメやってたから知ってるけど、読んだことない。面白そうだよね」
 雫田さんはそう言いながら、腕時計を見た。
「さて、私、そろそろバイトの時間だから行くわ」
「バイトしてるの?」
「うん、お好み焼きニッコーっていうお店で。楽しいよ」
 うちの高校はバイト禁止ではないけど、やるなら届け出が必要だったはずだ。
 こんなふうに適当に遊んでバイトして、雫田さんは高校生活をエンジョイしている。
 立ち上がるとき、雫田さんがカバヒコの後頭部に目をやり「あ」と声を上げた。
「ひどいな。バカって書かれてる」
 僕も一緒に、その文字をのぞきこむ。
「そうなんだよ。こすってみたけど、油性ペンみたいで消えなくて。上から塗ればいいかなと思って、プラモデルに使う塗料、似たような色を持ってきたんだけど」
 僕はリュックからラッカーを取り出した。透明のボトルから見えるそのオレンジ色は、カバヒコと合わせてみるとずいぶんと明るかった。これだと、逆にそこだけ目立ってしまいそうだ。それに。
「………上から何か塗ったって、その下にバカがあると思うとちょっとせつないな」
 僕はそう言って、ラッカーを下げた。
 消すのと、隠すのは違うのだ。そうやってごまかしても、なかったことになんてならないのだ。
 雫田さんが首をかしげる。
「ネイルの除光液で消えるかな。私、今度持ってこようか」
「でも、下の塗料も消えちゃうかも。これ以上はげちゃうのもかわいそうだし」
「だよね。みんなにさんざん触られたうえ、ほっとかれてるのに」
 雫田さんはカバヒコをなでた。
 それは自分の願いをかなえるためではなくて、カバヒコに対するまぎれもない親愛の情によるものだった。
 いいヤツだな。
 そう思ったら雫田さんがふとこちらに顔を上げ、僕の気持ちをなぞるみたいに「宮原くんって、いいヤツだな」と言った。ほわっと心が明るくなって、僕の口から自然に言葉がこぼれ落ちる。
「……ブラマン、貸そうか?」
 雫田さんが「ほんとに?」と目を輝かせた。
 ブラマンなら、既刊はすべて持っている。二十巻を超えるので、分けて貸すことにした。まずは明日の金曜日、週末楽しめるように五冊持って行くと約束をした。
「いいの? うわ、楽しみ」
 雫田さんは軽く足踏みしながら笑う。
 僕のほうこそ、足をばたばたさせて喜びたい気分だった。
 雫田さんは僕の友達になってくれるかもしれない。高校に入って、初めての。


 マンションに帰ると、エントランスで親子連れと一緒になった。
 五歳ぐらいの女の子と、そのお母さんだろう。何度か見かけたことのある、このマンションの住人だ。
 お母さんが、僕に「こんにちは」と軽く笑顔を傾けてくれた。
「みずほ、ちゃんとご挨拶して」
 みずほと呼ばれた女の子は、僕に向かってぴょこんとお辞儀した。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
 僕もふたりに頭を下げる。
 みずほちゃんは、ピアノの鍵盤けんばんがデザインされたトートバッグを持っていた。
 ピアノ教室から帰ってきたところだろう。エレベーターに向かっていくお母さんが「いっぱい練習したから、今日はよくできたね」と言っているのが聞こえた。
 一階の僕は、そのまま通路へと進む。

 なつかしいな。
 僕もあんなふうにトートバッグを提げて、幼稚園の年長から英会話スクールに通っていた。もちろん鍵盤ではなく、「HELLO ENGLISH」と印字されていたと思う。
 母さんにすすめられたのか、自分で行きたいと言ったのかは覚えていない。
 雑居ビルの一室で開かれているその幼児向けスクールは、一クラスに生徒五人ぐらいの少人数制で、カナダ人のアレック先生が教えてくれていた。おおらかで明るい男性だった。僕はアレック先生のことが大好きだった。
 単語はスペルよりも先に、発音から覚えた。耳から入った英語で、話したり歌ったり、アレック先生はとにかくみんなでわいわいと談笑する場を僕たちに与えた。
 ローテーブルを囲み、時にはそれすらも部屋の隅に追いやって。
 体を鍛えていたアレック先生は腕を持ち上げて力こぶをつくり、僕たちはよくそのたくましい腕にぶらさがってきゃあきゃあと声を上げて笑った。指はごつごつしていたけど、僕たちの頭をなでたり、手をつないでくれるとき、彼はほんとうに大切なものを扱うように優しく触れてくれるのだった。
 アレック先生は日本語ができなかった。今思えば、それは噓だったかもしれない。そういうことにしていただけで。
 だけどそれを信じていた僕は、アレック先生と仲良くしたければ英語を話すしかなかったし、彼の言っていることを理解したいなら耳を澄ませるしかなかった。
 わずかな英単語をつなげながら、僕はアレック先生と積極的にコミュニケーションを図った。アレック先生はものすごくリアクションが良くて、僕の言うことがいちいち感動的だといわんばかりに、目を輝かせて応えてくれた。
 彼は、全員に平等だった。誰かが話している最中に他の子がふざけてさえぎったりするとすごく怒った。そして何かにつけ、いつもこう言ってひとりひとりをハグした。

「Everyone is so amazing! You, You, You too!」
 みんな本当に素晴らしい! 君も、君も、君もだ!

 でも、一年を過ぎるとアレック先生はカナダに帰ってしまった。
 僕は小学生になり、そのスクールではなく小中学生を対象にした英語教室に通うことになった。英語を続けたいと母さんに言ったら、近場で探してくれたのだ。
 そこは、簡単に言えば「塾」だった。部屋には机と椅子が並び、日本人の先生がホワイトボードの前に立って授業をした。
 毎回、小テストがあった。テキストに載っている英単語を覚えてきなさいと言われ、範囲もそのつど指定された。
 なあんだ、そんな簡単なこと。僕はそう思った。
 だって、アレック先生に自分のことをどうやって伝えようか一生懸命考えていた頃と比べれば、どうということはなかった。目の前にあるものさえ、頭に入れていけばいいのだから。
 僕は毎回、満点を取った。アレック先生仕込みの英語の発音は、その塾の先生にもたたえられた。
 アレック先生の代わりに、母さんが言ってくれた。
「奏斗、すごいね! がんばったね」
 僕は単純に、それが嬉しかった。だからきちんと単語を覚え、文法を理解し、スピーチコンテストでも好成績を収めた。
 母さんが喜んで褒めてくれる、その顔が見たくて。


 翌日、まず二限目の数学で答案用紙の返却があった。46点。平均点は52点。
 僕にはもう、驚きすらなかった。劣等生の烙印らくいんが目の前に突き付けられる。
 五限目では地理が戻ってきた。答案用紙に書かれているのは、57点。
「平均点は64点」
 矢代先生が言った。
 よかった、数学も地理も、とりあえず赤点はまぬがれたらしい。
 ほっとする一方で、赤点を基準に一喜一憂している自分に苦笑した。
 落ちぶれたもんだな、宮原奏斗。
「ちょっと出題量が多かったからな。でも、大学入試はこんなもんじゃないから練習だと思って」
 大学入試に向けての練習。
 そう言われて、あらためてそうだったんだなと思う。疑問にも感じなかった。
 僕は今まで、高校入試に向けて勉強してきて、今度は大学入試に向かっているらしい。
 大学に入りたいのかどうかも、よくわからなくなってきた。なんで勉強するんだ?
 矢代先生がチョークを取り、背を向ける。
 1位から3位までの点数だけ、黒板に書かれていく。

 1位 97点
 2位 96点
 3位 88点

 名前は公表されない。3位までの本人だけが自分のことだと知るのだ。僕たちにわかるのはただ、そんなすごいヤツがこのクラスにいるってことだけ。
 中学時代の僕は、あっち側にいたのに。
 でももう、仕方ない。僕は不相応な苦しい「狭い世界」を選んでしまったのだ。
 これから僕は、この立ち位置で過ごしていこう。赤点を取らない程度に、落第しない程度に。
 そう思ったら、気持ちが少し楽になった。

 バイトでもしようかな。雫田さん、お好み焼き店楽しいって言ってたし、コンビニやハンバーガーショップとかでもよく募集しているし。
 もっとこう、高校生活をエンジョイするっていうのも、いいんじゃないかな。
 勉強ができるだけがすべてじゃないんじゃないかな。
 雫田さんみたいな友達がいれば、けっこう楽しく過ごせるかもしれないし、落ちこぼれなら落ちこぼれなりの、のんきな学校生活っていうのも、ありなのかな。
 ぼんやりした頭に、矢代先生の声が響く。答案用紙返却の日の授業はどの教科も、答え合わせの時間だ。
 先生に言われるまま、青いボールペンで正解を書いていく。間違えた答えの余白に、そして、書き込むことさえできなかった空欄に。
 授業の終わりがけに、雫田さんが教卓に向かった。
 矢代先生と、何か小声で話している。
「正直なヤツだな」
 矢代先生が笑い、赤ペンで何か書き記す。
 そして黒板に向き直ると、黒板消しとチョークを使って訂正をした。

 1位 96点
 2位 95点
 3位 88点

 えっ、と声をもらしそうになった。
 雫田さんはすました顔で席に戻っていく。手には答案用紙を持っていた。
 すぐにわかった。
 つまり、2点分のどこかが間違っているのに丸になってしまっていて、それを彼女は正直に申告したのだ。97点から95点へ。
 僕だけでなく、このクラスの全生徒が理解しただろう。
 期末テストにおける地理のクラス2位が、雫田さんだってこと。


 放課後、雫田さんが僕の席までやってきた。
「ブラマン、持ってきてくれた?」
 屈託のない、明るい表情。
 僕は、雫田さんを直視することができなかった。
 五冊の漫画が入った紙袋を渡す。笑えない。あの公園のときみたいに接することができない。
 漫画を受け取りながら、雫田さんがちょっと顔を傾ける。
「あれ? どうした?」
「……いや」
 僕は苦笑いをしながら言った。
「頭よかったんだなと思って」
 ぽかんとしている雫田さんに対して、思わず嫌味っぽい言葉が出る。
「95点なんて、すごいじゃん。訂正しないで黙ってれば1位だったのに」
「ああ、そのこと」
 さっくりと言われて、むらっと怒りが湧いた。
 勉強できるくせに、できないふりしてたんだろ? 僕のことバカにしてたのかよ。
 いるよな、そういうヤツ。さも遊んでるふうに見せかけて、相手を油断させて、ちゃっかりいい成績取って。おまけに誠実さもアピールしちゃって。
 抑えきれず、つっかかるような口調になってしまう。
「地理、めっちゃ苦手って言ってたじゃないか」
「苦手だよ」
 雫田さんは事もなげに言った。
「苦手だから、めちゃめちゃ、めっちゃ勉強したんだよ」
 雫田さんの目が、僕を射る。そして彼女はこう続けた。

「誰かに勝ちたかったんじゃなくて、私が、がんばりたかったんだ」
 はっと、胸を打たれた。
 僕は言葉をなくし、雫田さんを見る。

 雫田さんはちらっと目を泳がせ、僕の返事も待たずに「じゃあね」と足早に去ってしまった。打たれたままの胸はじりじりと鈍く痛み、僕はしばらくぼんやりと突っ立っていた。


 公園へ向かう足取りは重かった。
 今の僕に、愚痴を聞いてくれるような人はいない。せめてカバヒコのほのぼのした姿に触れたかった。どうかまた頭のいい自分に戻してくれと願を掛けたかった。
 会話を続けようとせず、さっさと帰ってしまった雫田さんの後ろ姿が脳裏に焼き付いて離れない。
 彼女はもう、僕と話す気もないってことなんだろう。あんないやな言い方をしてしまったから当然だ。
 でも、だって、こんなことって。
 釈然としないまま歩いていたら、汗がにじみ出てきた。七月も半ばに入って、今日は特に蒸し暑い。
 喉が渇いた。ちょうどサンライズ・クリーニングの庇が見えてきて、僕は自動販売機の前に立つ。
 コイン投入穴に百円玉を二枚入れ、カルピスウォーターのボタンを押した。がたんと音がしてペットボトルが受け取り口に落ちてくる。同時に、お釣りが落ちる小気味いい音も軽く響いた。
「……あれ」
 カルピスウォーターは百五十円だ。なのに、お釣りを取ろうと返却口に指を入れたら硬貨が二枚あたった。
 ふたつの五十円玉。
 前の人が取り忘れていっちゃったんだ。僕はその二枚を手のひらに載せる。
 ラッキー。
 そのまま財布に収めてしまえば、誰も気づかない。五十円ぐらいじゃ別に、忘れていった落とし主も困ったり傷ついたりしないだろう。

 財布を開けようとして、ふと、雫田さんのことを思い出した。
 97点から95点への自己申告。
 言わなければ、絶対わからなかったはずなのに。
 1位のままでいられたのに。

 ――――誰かに勝ちたかったんじゃなくて、私が、がんばりたかったんだ。

「かなわないよなぁ……」
 僕は五十円玉をひとつだけ財布に入れ、もうひとつは手のひらに収めた。
 空いているほうの手でカルピスウォーターを持ち、ごくごくと飲む。そしてちょっと考えたあと、ガラス張りのドア越しにサンライズ・クリーニングをのぞいた。
 ビニールにくるまれた衣服たちにうずもれるようにして、カウンターの向こうにおばあちゃんがひとり、座っていた。銀のかかったような白髪しらがで、気持ちいいくらいさっぱりしたショートヘアだった。雫田さんの言ってた、カバヒコの腰をなでたらヘルニアが治ったおばあちゃんかもしれない。
 僕はドアを開けた。おばあちゃんがふいっと顔を上げる。
「すみません。そこの自動販売機、前の人のお釣りが残ってたみたいで」
 そう言って五十円玉を差し出すと、おばあちゃんは「へえっ!」とすっとんきょうな声を上げた。
 そして僕のことを頭のてっぺんから足先までじろじろとねめまわし、五十円玉を受け取るとこう言った。
美冬みふゆちゃんと同じ学校の子?」
「え」
「雫田美冬ちゃん」
 おばあちゃんは自分の襟元えりもとのあたりにとんとんと指を当てた。僕のシャツについている校章を指しているのだろう。
「あ、ええ。まあ」
「雫田一家は昔からうちの常連さんだから。美冬ちゃん、いい子だよね」
「…………そうですね」
「バイト、忙しくしてるんだろ?」
「そうだと思います」
 話が長くなりそうだ。適当に聞き流して店を出ようとしたら、おばあちゃんが五十円玉を引き出しにしまいながら言った。

「あの子、兄弟姉妹、合わせて六人いるんだよ」
 六人?
 思わず目を見開いた。そんなに大家族なのか。
「高校にかかるお金はできるだけ自分で稼ぐって言ってさ、えらいもんだよね。そのせいで成績悪いって言われたくないからって、勉強も必死でね。あの狭い団地でひとり部屋もないのに、よくやってるよ」
 殴られたような気分だった。
 なんだよ、それ。できすぎだろ……。
 いろんな気持ちが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになる。雫田さんへの敬意と嫉妬。自分への苛立いらだちと保身。
 店のドアが開き、大きな紙袋を提げた女の人が入ってきた。三つ編みを一本に束ねているその人に「いらっしゃい」とおばあちゃんが声を上げた。お客さんだ。
 僕は黙って店を出る。
「頭脳修復」なんて、軽々しくカバヒコにお願いする気持ちになれなかった。僕はそのまま来た道を戻り、公園に行かずに家に帰った。


 家のドアを開けると誰もいなくて、僕は黙って靴を脱いだ。
 ダイニングテーブルの上にメモ書きがある。

カレー、あたためて食べてね。冷蔵庫にサラダがあります。

 そうだ、母さんは今日、友達と観劇に行っているんだった。
 僕は大きく息をついた。
 とりあえず今日のところは、母さんとテストの話をしないですむ。
 僕は部屋着に着替えると、スマホアプリのバトルゲームに没頭した。戦って戦って戦って、敵を倒して、点数を稼いで。「くそっ」とか「なんだよ!」とか小さく叫びながら、夢中で指を動かした。
 すっかり夜になっておなかがすいてくるとカレーとサラダを食べ、ソファにもたれた。
 なんか、疲れちゃったな。楽しいことないかなあ。
 目を閉じると急に睡魔が襲ってきた。
 まどろみの中で、僕は山奥の少年のことを思った。ただ走りたくて走ってるなら、どれだけ気持ちがいいだろう。僕はいったい、何がやりたいんだろう。誰か教えてよ。
 そしてそのまま吸い込まれるように眠りに入り、目を覚ますと父さんがテーブルについているのでびっくりした。父さんが帰ってきたことにまったく気がつかず、二時間ほど熟睡していたらしい。
「あ、おかえり」
「おう。よく寝てたな」
 気がつけば僕の肩に綿毛布がかぶさっている。父さんがかけてくれたのだ。
「晩飯はもう、食べたのか?」
「うん。父さんは」
「食べた食べた」
 椅子に座っている父さんは、背中を丸めて目を凝らしながら、テーブルの上で手作業をしていた。僕はソファから下りて近づいていく。父さんの手元を見ると、鳥やらリスやらの形をしたプレートに、細い油性ペンで何か書き込んでいた。
「なに、これ」
「可愛いだろ。百円ショップで見つけたんだ。ガーデニング用のネームプレート」
 嬉しそうに父さんは答えた。
 百日草。ベゴニア。デュランタ。
 プレートに書き込まれているのは植物の名前らしい。どんな花か、僕にはイメージもできないけど。

 そのまま自分の部屋に引っ込んでしまうのも気がひけて、僕はテレビのリモコンを手に取る。父さんも好きなバラエティがやっていて、僕はソファに戻ってそれを見た。
 大御所タレントが司会をしているトーク番組だ。若手の芸人が一生懸命、自分の体験談を語っている。
「うちにパキラっていう観葉植物があるんですけど、僕の言葉がわかるんですよ! あっち側に伸びろって言うと、ちゃんとそっちに向かって枝が伸びるんですよ! えらいなあ、すごいなあって褒めてやると、なんかもう、葉っぱがツヤツヤしちゃって」
 司会の大御所タレントが「おまえより賢いなあ」とツッコミを入れる。それを見て父さんが「はは」と小さく笑った。
 僕はたずねた。
「父さんは、こういうことしないの?」
「こういうことって?」
「植物にきれいだねとか褒めてると成長がいいって、よく聞くじゃん。褒めないの?」
 暗に、かねてからの疑問を投げたようなところがあった。
 父さんはいつも優しい。でも、褒めてくれることはほとんどない。それがずっと、不思議で不安だった。本当の本当は、冷たい人なのかもしれない。
 父さんはちょっとかぶりを振る。
「父さんはしないよ。そんなこと」
 やっぱり。
 こんなに可愛がっているように見える植物にさえ、そういう気持ちが起こらないのか。
 僕はあたりさわりなく「まあ、花に耳なんてないもんね」と言い、テレビ画面を見た。深追いをして自分が傷つくのもいやだった。

 すると父さんはちょっと間を置いて答えた。
「いや、植物に言葉なんかわかるわけないって疑ってるわけじゃなくて、逆なんだ。本当に通じると思うんだよね。だから、言葉には責任がある」
 僕はテレビ画面から父さんへと顔を向ける。
 父さんは鳥の形のプレートを手に取りながら続けた。
「褒められたくてがんばるって、それも悪いことじゃないんだけどな。それだけを目標にしてると、褒められなかったときにくじけちゃうだろ」
 ドキリと胸が鳴った。
 今度は父さんが、暗に回答してきたような気がした。
 父さんは穏やかに、でも力強く言った。
「ただ褒めてもらえなかったって、それだけのことなのに。誰が何を言ったって、何も言わなくたって、懸命に咲こうとしているその姿には、なんの変わりもないのにさ」
 そして僕のほうをしっかりと見て、父さんはほほえむ。
「だから父さんは、ただ愛するんだ。それだけ」
 そうして父さんは話すのをやめ、プレートに植物の名を書き込む作業に戻った。
 涙ぐみそうになって、僕はソファに置かれたままの綿毛布を握りしめた。
 父さんの愛情は、まさにこの物言わぬ綿毛布だった。眠っている無防備な僕にそっとかけられた優しさ。わかっていたはずなのに、今までちゃんと確信することができなかった。
 不意に、アレック先生の言葉を思い出す。

「Everyone is so amazing! You, You, You too!」
 みんな本当に素晴らしい! 君も、君も、君もだ!

 そうか、そうだ。そうだった。
 アレック先生は、褒めてくれたんじゃない。
 ただ愛してくれたんだ。幼い僕たちは、それを体で感じ取っていたんだ―――。

 父さんが「おっと」と小さく叫んだ。
 そちらを見ると、テーブルの縁に黒い線がついている。
 このテーブルは母さんがすごく気に入って、予算オーバーだけど奮発したと言っていた北欧家具だ。テーブルの縁にはいろんな色のタイルがランダムに貼られていて、あろうことか白い部分にうっかり油性ペンを転がしてインクをつけてしまったらしい。
「母さんに怒られちゃうな」
 そう言いながらも危機感はない様子で、父さんは立ち上がった。
 どうするんだろうとハラハラしていたら、父さんはなぜだか洗面所に向かい、すぐに出てきた。
 手には歯磨き粉のチューブを持っている。
 父さんはふんふんと楽しそうに鼻を鳴らし、タイルについた黒い線の上に歯磨き粉を少しのせ、キッチンペーパーでしゅしゅっと軽くこすった。
 まさか。僕はどきどきしながらその光景を見守る。
 父さんはペーパーで歯磨き粉をすべてぬぐうと、にやっと笑った。
 そこに現れたテーブルを見て、僕は息をむ。

 消えた……!


 翌朝、僕は日の出公園に向かった。
 土曜日の早朝だからか、人通りが少ない。いつにも増して公園は閑散としていた。
「カバヒコ~」
 あの日、雫田さんがそうしたみたいに、僕はカバヒコを呼んだ。
 返事があるはずもないのに、カバヒコはちゃんと僕を見た。そんな気がした。
 僕はカバヒコの頭をなでる。両手で、何度も何度も。
 よしよし、よしよし。いい子、いい子。
 待ってろよ、今きれいにしてやるからな。
 僕はそっと、カバヒコにまたがった。
 そしてナップザックからポケットティッシュと歯磨きセットを取り出す。洗面台の引き出しに入っていた、どこかのホテルでもらったアメニティだ。
 小さなチューブから歯磨き粉を絞り出し、カバヒコの後頭部に書かれた「バ」の文字にのせる。少し緊張しながら、歯ブラシで軽くこすってみた。

「………やった」
 思わず笑みがこぼれる。
 マジックペンの黒は消え去り、カバヒコのくすんだオレンジ色の地が現れた。僕ははやる心を抑えながら「カ」にも歯磨き粉をのせ、あまり力を強く入れないように注意しながら歯ブラシを動かした。

 消えた。
 消えた、カバヒコから「バカ」の文字が。

 ティッシュで歯磨き粉をすっかりぬぐってしまうと、僕はもう一度、今度は大きな声で「やった!」と叫んだ。
 もう誰にもバカなんて言わせないぞ。
 この喜びを雫田さんと分かち合いたかった。だけど次の瞬間、気持ちが沈んでいく。
 …………もう、嫌われちゃったよな。
 ブランコに目をやると、頬を紅潮させながらぐんぐん漕いでいた雫田さんが思い浮かばれた。
 放電と充電。
 そうやって、自分をコントロールして、立て直して。
 きっと彼女は、僕には想像もできない努力をしてきたんだろう。家族や周囲を思いやりながら。

 僕はどうなんだ? たいしてがんばりもしないで、ふてくされて。
 本当の僕はバカじゃない、もっとできるはずだって。
 ああ、恥ずかしい。本当に恥ずかしい。
 僕が修復すべきは、この卑屈さや傲慢ごうまんさじゃないか。
 アレック先生と話したくて一生懸命だった僕は、あんなに英語が楽しかったのに。ただただ、学びたかったのに。

 カバヒコの頭をそっとなでる。
 カバヒコ、頼む。
 ねじ曲がってガチガチな僕のこの頭を、リカバリーしてくれ。

 僕はカバヒコにまたがったまま、両腕をカバヒコの頭に回して頬をつけた。
 カバヒコの後頭部の、優しい丸み。ミントの匂いが残るそこは、ひんやりしていて気持ちよかった。


 家に帰ると僕は、すでに返ってきている答案用紙をそろえてリビングに行った。
 母さんが部屋に掃除機をかけている。父さんは庭にいるらしかった。
 掃除機のスイッチをオフにしたタイミングで僕が声をかけると、母さんは「ん?」と顔をこちらに向けた。
「話があるんだ。今、いいかな」
 母さんはちょっとこわばった面持おももちで、「え、なに?」と苦笑いした。
 テーブルの上に、答案用紙を並べる。
 数学46点、地理57点。
「平均点は、数学52点、地理64点でした」
「え」
 母さんが少し首を突き出す。怒るよりも手前で、まずびっくりしている感じだった。
「平均点にもいかなかった。僕の努力不足」
 そして、数日前に見せた89点の英語の答案用紙。
 母さんが見ている前で、僕は89という数字に赤ペンで二重線を引いた。
「噓をついて、ごめんなさい。自分で書き換えたんだ」
 母さんが目を見開いた。
 僕はその隣の余白に、大きく赤ペンを走らせる。
 61。
 修復。
 そうだ、これが真のリカバリー。
 元の通りに直したその答案用紙を、僕は母さんに渡す。
「本当の点数です」
 母さんは答案用紙を持ったまま、赤い数字と僕の顔を交互に見ていた。言葉が出ないという様子だった。
「僕は勘違いしてた。自分は頭がいいんだって。やらなくてもできるって」
 でも違う。
 僕は推薦入試に合格するまで、あの場所でやるべきことをしっかりやってきたんだ。
 でもそのあと、怠慢に慣れてしまっていた。みんなが必死に勉強している間、僕はぐうたらあぐらをかいていた。
 新生活の中で、僕はまだ、何もしていない。
 もっともっと、積極的に勉強すること、この先の自分について考えること、友達と話をすること。
 高みを目指して入ったこの学校に、ふさわしいだけの努力を。
「僕、ここでまたがんばってみるよ」
 勝ち負けじゃない。自分が、がんばりたいから。

 母さんはふっと頬を緩ませる。そしてようやく言葉を放った。
「結果というよりもね、母さんは奏斗がそんなふうにがんばってることが嬉しいのよ」
 じわっと胸が熱くなって、僕はあらためて思い出した。母さんは僕に、必ず「がんばったね」と言ってくれることを。
 そのとき、父さんが庭から顔を出した。
「ダリアの花が咲いたよ、来てごらん」
 父さんの顔に、満面の笑みが広がっている。
 僕と母さんも、庭に出た。
 咲いたばかりのダリアは、みずみずしい花びらを開かせていた。きっと、父さんの気持ちを受け取っているに違いない。

 ただ愛するだけ。それだけ。心をこめて。


 週明け、教室に入っていくと待ち構えていたように雫田さんが走り寄ってきた。
「宮原くん! これ、マジ最高!」
 ブラマンを掲げて、雫田さんが言う。
 驚いて口を半開きにしたままの僕に、雫田さんは機関銃のようにしゃべりだした。ブラマンのどこがよかったか、どのキャラクターが好きか。こくこくとうなずきながらその熱弁を聞いていると、不安や後悔に凝り固まっていた気持ちが溶けていくのがわかった。
 変わらない雫田さんだった。安堵のため息をもらしながら、僕は言う。
「………僕、もう雫田さんに嫌われたと思ってた」
 雫田さんはきょとんと僕を見る。
「へ? なんで」
「だって金曜日、ろくに話もしないですぐ行っちゃったじゃないか」
「えっ、バイトの時間が迫ってたから急いでただけだよ」
 あのときちらっと目を泳がせたのは、時計を見てたのか。
「でも、僕、あんなイヤな言い方しちゃったし……。がんばってる雫田さんに嫉妬して、最低だった。本当にごめん」
「そうだっけ? そんなふうに思ってたの? それぐらいで嫌いになったりしないよ」
 雫田さんはげらげらと笑い、僕の腕をぽんとたたいた。
「バカだなあ!」
 雫田さんのその声があったかくて、僕はちょっとだけ泣いた。
 僕はほんとうに、どうしようもないバカだった。


著者プロフィール

青山美智子(あおやま・みちこ)
1970年生まれ。愛知県出身、横浜市在住。大学卒業後、シドニーの日系新聞社で記者として勤務の後、出版社で雑誌編集者をしながら執筆活動に入る。2017年『木曜日にはココアを』で小説家デビュー。同作は第1回未来屋小説大賞入賞、第1回宮崎本大賞受賞。’21年『猫のお告げは樹の下で』で第13回天竜文学賞受賞。同年『お探し物は図書室まで』が本屋大賞第2位。’22年『赤と青とエスキース』が本屋大賞第2位。’23年『月の立つ林で』が本屋大賞第5位。

『リカバリー・カバヒコ』あらすじ

5階建ての新築分譲マンション、アドヴァンス・ヒル。近くの日の出公園には古くから設置されているカバのアニマルライドがあり、自分の治したい部分と同じ部分を触ると回復するという都市伝説がある。人呼んで”リカバリー・カバヒコ”。
アドヴァンス・ヒルに住まう人々は、それぞれの悩みをカバヒコに打ち明ける。高校入学と同時に家族で越してきた奏斗は、急な成績不振に自信をなくしている。偶然立ち寄った日の出公園でクラスメイトの雫田さんに遭遇し、カバヒコの伝説を聞いた奏斗は「頭脳回復」を願ってカバヒコの頭を撫でる――(第1話「奏斗の頭」)出産を機に仕事をやめた紗羽は、ママ友たちになじめず孤立気味。アパレルの接客業をしていた頃は表彰されたこともあったほどなのに、うまく言葉が出てこない。カバヒコの伝説を聞き、口を撫でにいくと――(第3話「紗羽の口」)
誰もが抱く小さな痛みにやさしく寄り添う、青山ワールドの真骨頂。


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光文社 文芸編集部|kobunsha
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